第19話:盗まれた「神の色彩」と、空白のスケッチブック
量子AI企業『レギオン・テクノロジーズ』のCEO・獅子王院凱が三百億円の公開対局で自滅し、その背後にいた国家機関『記憶統制局』の第五統制官・ビショップから最初の生体暗号キーを奪取してから、五日後の深夜。
新宿・歌舞伎町の裏路地にある記憶質店『忘却堂』の地下室では、店主の黒瀬零が白い手袋をはめた指先で、二つの記憶結晶を台座の上に並べていた。
一つは、完全な球体へと修復された黒瀬自身の『透明な記憶結晶』。
もう一つは、第五統制官・ビショップの脳から引きずり出した『紫色の生体暗号キー結晶』である。
二つの結晶が共鳴して描き出すホログラムの暗号マップには、双子の兄である第一統制官・黒瀬一が十年前に新宿の三万人から奪い去った究極の遺産――【神の記憶結晶】へと至る、次の標的が浮かび上がっていた。
「……七人の特級統制官の一人、世界の美術市場と文化財保護機構を裏から牛耳る『第四統制官:コードネーム・ルーク』。彼が管理する二つ目の生体暗号キーは、来週、六本木の国立新美術館で開催される【五百億円の特別国際オークション】に出品される幻の絵画と連動している、ですか」
黒瀬が感情の温度がない灰色の瞳を細めた、まさにその時だった。
チリン――。
店の入り口のベルが静かに鳴り、重厚なオーク材の扉がゆっくりと開かれた。
雨上がりの湿った夜風と共に店内へ入ってきたのは、絵の具で汚れたオーバーオールを着て、色味の全くない『真っ黒なサングラス』をかけた一人の若い女性だった。
年齢は二十代前半ほどだろうか。
小柄で華奢な体つきをしているが、その右手の指先には長年絵筆とペインティングナイフを握り続けてきた硬い筆ダコがあり、左脇には一冊の古びたスケッチブックを大事そうに抱えている。
「……いらっしゃいませ。記憶の質入れですか、それとも売却ですか?」
黒瀬はホログラムを消し、氷のように穏やかな笑みで彼女を迎え入れた。
「……売却、です。買い取り額なんて百円でも構いません。ただ……私の頭の中に残っている、この『十年前の夕焼けの記憶』を抜き取って消してほしいんです」
女性は革張りの椅子に腰を下ろし、サングラスの奥から乾いた涙を一筋こぼした。
「お名前と、その記憶を手放されたい理由をお伺いしても?」
「……月影といいます。月影凛。三ヶ月前までは、無名の油彩画家をしていました」
凛は震える指先で、自らがかけている黒いサングラスのフレームに触れた。
「三ヶ月前、美術界の絶対的な権威であり、世界最大の画廊『ギャラリー・サイオンジ』のオーナー兼・天才現代アーティストと呼ばれている【一条院蓮】が、私のアトリエを訪ねてきたんです」
一条院蓮といえば、突如として発表した連作絵画『楽園の残光』が世界中の大富豪から絶賛され、来週の六本木での特別国際オークションでは、その最終作に【五百億円】の開始価格がつくと騒がれている美術界の寵児である。
「その頃、私の育ての親である祖父が重度の認知症と脳梗塞で倒れ、クロノス・メディカルの特別療養施設へ入ったのですが、毎月の維持費と記憶保持治療に三千万円かかると言われて……。途方に暮れていた私に、一条院はこう言ったんです。『君のお祖父さんの生涯の治療費二億円をすべて払ってあげよう。その代わり、君が生まれつき持っている【四色型色覚】の記憶と、これまで描き溜めたすべての絵画の構図記憶を結晶化して、僕に譲ってくれ』と」
常人の網膜には赤・緑・青の三種類の錐体細胞しか存在しないが、極めて稀な遺伝的変異を持つ『四色型色覚』の持ち主は、紫外線領域に近い波長までを含めた【常人の百倍にあたる一億色以上の色彩】を識別することができる。
「私は祖父を救うために、自分の『色彩の記憶』と『絵画の技術』をすべて一条院に売り渡しました。……記憶を抜かれた翌日から、私の目に見える世界からはすべての色が消え失せ、今では白と黒の灰色の濃淡しか識別できない【完全色覚異常】になってしまいました」
凛は膝の上のスケッチブックを強く握りしめ、声を震わせた。
「一条院は私から奪った色彩記憶を使って『楽園の残光』を描き、来週のオークションで五百億円を手に入れようとしています。……でも、私が今夜消してほしいのは、一条院が『子供の頃の落書きの記憶なんていらない』と抜き取らずに放置していった、たった一つの記憶なんです」
「それが、十年前の夕焼けの記憶、ですか」
「はい……。十年前、私がまだ十二歳だった夏の日、新宿のビルの屋上でスケッチをしていた時に見た『真っ赤な夕焼け空』の記憶です。今の私の目には、現実の世界がすべて白黒の灰色にしか見えないのに……目を閉じるたび、頭の中であの日の『燃えるような極彩色の夕焼け』だけが鮮明に蘇ってくるんです……! 二度と絵も描けない、色も見えない体になったのに、頭の中にだけ美しい色が残っているのが苦しくて、頭がおかしくなりそうなんです! お願いです、この最後の色の記憶を消して、私の心も完全に白黒にしてください……!」
カウンターに突っ伏して嗚咽を漏らす凛を、黒瀬は一切の感情を交えない冷徹な鑑定人の目で見下ろしていた。
(またしても、十年前の夏、新宿……。やはりクロノス・メディカルと記憶統制局は、あの日あの場所に居合わせた『特殊な感覚を持つ子供たち』の記憶を、意図的にリスト化して回収しているな)
「承知いたしました、月影凛様。では、まずはその『十年前の夕焼けの記憶』を抽出・査定させていただきます。……同意書にサインを」
凛が震える手で電子パッドにサインを書き込むと、黒瀬は彼女のこめかみに銀色の端子を装着し、卓上の抽出機のレバーを静かに引き下ろした。
――キィィィン……。
微かな駆動音と共に、抽出機のトレイの上に、まるでオパールの中に無数の星雲を閉じ込めたかのような『極彩色の記憶結晶』がコトリと転がり落ちた。
「……あ……れ? 頭の中の眩しい色が、消えてる……」
記憶が抜けて呆然とする凛の前で、黒瀬はピンセットで『極彩色の結晶』をつまみ上げ、専用の超高精細投影レンズへとセットした。
空間に浮かび上がるホログラム映像。
そこには、十年前の夏――新宿の雑居ビルの屋上で、スケッチブックを広げて空を見上げる十二歳の凛少女の視点が映し出されていた。
だが、その空の色を見た瞬間。
黒瀬の灰色の瞳が、鋭い光を放って細められた。
少女が見上げていたのは、単なる夕焼け空ではなかった。
第11話で白川詩音が新宿中央公園で聴いた『三万人記憶消去パルス』が放たれた、まさにその同じ時刻。
新宿の上空を覆っていた不可視の『高次元量子フィールド(記憶消去ドーム)』の光の屈折を、常人の百倍の色覚を持つ凛の網膜は、【目に見える極彩色のオーロラ(夕焼け)】として完全に視覚化していたのである。
しかも――そのオーロラの中心、雲の切れ間に浮かんでいた『黒幕の巨大飛行艇(空中指揮艦)』の光学迷彩の揺らぎと、そこに刻まれていた【記憶統制局・第四統制官の紋章と座標コード】までもが、少女の網膜には一億色の微細な色彩差として鮮明に焼き付けられていたのだ。
「……なるほど。そういうカラクリでしたか」
黒瀬は投影レンズの波長解析データを拡大し、静かに、しかし確信に満ちた笑みを浮かべた。
「月影様。あなたが『ただの夕焼けの記憶』だと思っていたこの映像……これこそが、十年前に新宿の三万人の記憶を消去した国家犯罪の【光学的決定証拠】であり、同時に、あなたからすべてを奪った一条院蓮を地獄へ突き落とすための【究極の劇薬】です」
「え……? どういうことですか、店主さん……」
「まず、あなたの現在の目についてお伝えしましょう。あなたは今、世界が白黒にしか見えないと仰いましたが……あなたの網膜の四色型錐体細胞は壊れていません。一条院があなたの記憶を抜いた際、脳の視覚野にある『色彩変換テーブル』を切り離しただけです」
黒瀬は白い手袋の人差し指を立て、冷徹なロジックを解き明かしていく。
「そして、一条院蓮と、彼の背後にいる記憶統制局の『第四統制官』がなぜあなたの記憶を奪ったのか。彼らは、あなたが十代後半に描いた絵画の中に、無意識のうちにこの『十年前の空の色(アカシック・コアの光学座標コード)』が塗り込められていることに気づき、それを手に入れるためにあなたの記憶を強奪したのです」
「なっ……!? じゃあ、おじいちゃんが倒れたのも、最初から私の記憶を奪うための罠だったんですか!?」
「ええ。ですが、一条院蓮は致命的な査定ミスを犯しました」
黒瀬はホログラムの中の極彩色の夕焼けを指し示した。
「あなたの『四色型色覚』が捉えていた一億色の色彩データは、この十二歳の時に見た『特殊な紫外線波長の光(基準ホワイトバランス)』を基準点として調合されていました。一条院は、この十二歳の基準点の記憶を『子供の頃のゴミ記憶』としてあなたの脳に置き去りにしたまま、あなたの絵画記憶だけを自分の脳に移植して、五百億円の最終作『楽園の残光』を描き上げました」
黒瀬の唇が、氷のように冷酷で美しい弧を描いて釣り上がった。
「基準となるホワイトバランスを持たない凡人の脳で、紫外線領域の特殊顔料(クロノス社製のナノ発光塗料)を使って絵を描けばどうなるか? ……通常の室内照明の下では、確かに美しい黄金色の絵画に見えます。ですが、来週の国際オークション会場で、ある【特定波長のブラックライト(紫外線照明)】をその絵画に照射した瞬間……一条院が塗り重ねた絵の具の下から、彼自身の目には見えていなかった『紫外線塗料の隠しレイヤー』が浮かび上がります」
「隠し、レイヤー……!?」
「はい。無意識のうちにあなたの記憶データが一条院の手を動かして描かせた、【一条院自身が過去に犯した贋作殺人の記憶映像のスケッチ】と、【第四統制官の機密暗号コード】が、五百億円のキャンバスのド真ん中にドクロのような蛍光色で浮かび上がるのですよ」
「っ……!!」
黒瀬はカウンターの下から重厚なジュラルミンケースを取り出し、パチンと留め金を外して蓋を開けた。
そこには、帯封のついた一万円札の束が眩いばかりにぎっしりと敷き詰められていた。
「月影凛様。あなたが『百円でいいから消してほしい』と仰ったその十年前の夕焼けの記憶ですが……国家犯罪の光学座標データ、および偽りの巨匠から五百億円のオークションを粉砕してあなたの『色』を取り戻すための特級触媒として、当店の査定額は【五億円】となります」
「ご、五億円……!?」
息を呑む凛の前へ、黒瀬は『極彩色の記憶結晶』をそっと差し出した。
「この五億円を受け取って、お祖父様と共に白黒の世界で穏やかに暮らされるのも自由です。……ですが、もし私からこの記憶を【一円】で買い戻し、来週の六本木・国際オークションの会場で、一条院蓮という泥棒のキャンバスを『処刑台』へと塗り替える共犯者になってくださるのなら、大歓迎いたしますが」
凛は震える手で黒いサングラスを外し、まだ色を失っている瞳に強い決意の光を宿すと、オーバーオールのポケットから「一円玉」を一枚取り出し、筆ダコのある指先でカウンターへと力強く叩きつけた。
「……おじいちゃんを人質にし、私の命よりも大切な『色』を盗んだあの男を、絶対に許さない。……黒瀬さん、私にその記憶を買い戻させてください。私の本当の色彩で、あの偽物の嘘をすべて暴き出してやります!」
「――契約成立です」
黒瀬は白い手袋の指先で一円玉を回収し、静かに微笑んだ。
「では、来週の五百億円の国際オークションに向けて、最高の『絵の具』を調合しましょうか。他人の目を盗んで巨匠を気取る哀れな贋作師に、世界中が大爆笑する破滅の自画像を描かせて差し上げましょう」
新宿の地下室で煌めく、一億色のオパールの結晶。
二人目の特級統制官・ルークの首と五百億円のオークションをロックオンし、冷徹なる査定人の極彩色の復讐劇が幕を開けた。
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