第01話 血の匂い
初投稿です。
血の匂いが、濃い。
自分の血だ、とレン・ヴィンクルは頭の隅で思った。鉄錆に似た、けれど鉄よりずっと生あたたかいその匂いが、狭い石の回廊にたちこめている。左の前腕に走らせた切り傷から、血がとめどなく流れ落ちて、床の石畳に黒い水たまりをつくっていた。
その血が、いま、赤い蒸気になって彼の全身を包んでいる。
揺らめくオーラは陽炎のように輪郭を持たず、ただ熱かった。祈りに応えて灯った、彼だけの熱。
(もっとだ)
声には出さない。歯を食いしばったまま、レンは体の奥へ向かって祈る。力が欲しい。ただそれだけを、火のように強く念じる。すると流れ出た血が応え、萎えかけた膝に力が戻り、霞みかけた視界が鮮明さを取り戻した。
目の前に、それはいた。
熊ほどの図体をした、四本腕の魔物。黒曜石めいた甲殻に覆われた四本の腕が、それぞれ別の生き物のようにうねっている。ここが、本来なら自分たちの立ち入るような場所ではないことを、その一体が何よりも雄弁に告げていた。一人前の三級のレンでも、一人でやり合うには、荷が重すぎる相手だった。
「レン! うしろ!」
背後で、ルカの悲鳴じみた声が跳ねた。
振り向く暇はなかった。レンは考えるより先に身を投げ出す。血の熱が神経を焼き、常人の何倍もの速さで筋肉を駆動させた。一瞬前まで彼の頭があった空間を、第四の腕が薙ぎ払っていく。石壁がえぐれ、破片が霰のように飛んだ。
地を転がりざま、レンは剣を振り上げた。刃が甲殻に食い込み、火花が散る。浅い。
「くそっ、硬い……!」
間を置かず、四本の腕が、順ぐりに襲いかかってくる。レンは血の熱に身をあずけ、紙一重で捌いた。受ける。逸らす。跳び退る。黒曜石じみた甲殻に覆われた腕は、一撃ごとに石壁を抉り、掠めるだけで肉を裂いていく。まともに食らえば、それきりだ。
それでも、レンは退かなかった。半歩でも退けば、その半歩ぶん、後ろの三人へ死が近づく。それだけは、させられない。
「詠唱するから、十秒! 十秒稼いで!」
少し離れた岩陰から、ルカの声が飛んでくる。半獣人の少年は片膝をつき、両手を前に組んで、必死に魔力を練り上げていた。犬に似た獣耳がぴんと立ち、尻尾の毛が逆立っている。彼の周囲で空気がぴりぴりと帯電し、青白い火花がまとわりつきはじめていた。
十秒。
レンにとって、それは永遠に等しい。
「ノルド、ミラ、下がってろ! 立てるな、這ってでも壁際に!」
叫んだ相手は、この地獄に巻き込んでしまった三人の新人だった。ノルドは腿を裂かれて動けず、ミラがそれをかばうように覆いかぶさっている。もう一人の少女は腰を抜かしたまま、声も出せずに震えていた。
守らなければ。
その一念だけが、いま、レンを立たせている。
四本腕が唸りを上げて迫る。レンは血の熱をありったけ両脚に流し込み、正面から突っ込んだ。避けない。避ければ、後ろの三人に牙が向く。二本の腕を紙一重でいなし、三本目を剣の腹で受け、四本目を——受けきれなかった。
鈍い衝撃が脇腹を貫き、体が宙に浮いた。
石壁に叩きつけられ、肺の空気がすべて絞り出される。したたかに打ちつけた脇腹と背が、燃えるように痛んだ。
(まだ、だ)
立ち上がろうとして、膝が笑った。まともに食らった一撃が、体の芯まで痺れさせている。脚に、力が入らない。血の熱は、まだ全身を巡っているのに——肝心の脚が、言うことをきかなかった。
四本腕が、ゆっくりとこちらに向き直る。四つの腕を高々と掲げて。
ああ、と、レンは場違いなほど静かに思った。
(……オレが、無茶を通さなきゃ、こんなことにはならなかったのにな)
新人たちの、あの依頼を受けたときの、はしゃいだ顔が浮かんだ。ルカの、いつもの呆れた笑いが浮かんだ。ドランの、口の悪い、けれどあたたかい怒鳴り声が浮かんだ。
守りたかったものが、こんな地の底で、すぐそこまで来ている死の影の向こうに、ちらついていた。
***
事の起こりは、三日前だった。
その朝のラドフェンは、いつも通り、にぎやかで、少しばかり柄が悪かった。
アルシェラ王国の西のはずれにあるこの街は、どこにでもある地方都市に見えて、ひとつだけ、よそと違うものを抱えている。街から南へ、街道を歩いて二時間ほど行った丘に、大きな迷宮の入り口が、ぽっかりと口を開けているのだ。
迷宮のあるところ、冒険者が集う。冒険者が集うところ、金と酒と喧嘩が回る。ラドフェンは、そういう街だった。石畳の目抜き通りには朝から酒場の喧騒がこぼれ、武具屋の軒先には剣や鎧が無造作に吊るされ、路地の奥では素性の知れない連中が声を潜めて何かを取引している。血の気と埃と、揚げ物の脂の匂いが、いつだって混ざり合っていた。
その雑踏の真ん中を、頭ひとつ抜けて背の高い男が、串に刺した蜜がけの揚げ菓子をかじりながら歩いていた。
レン・ヴィンクルである。
赤みの差した黒髪は無造作に撥ね、日に灼けた頬には、まだ癒えきらない切り傷が一本走っている。両腕には数えきれないほどの古傷が白い筋になって残り、その物騒な風体のわりに、口の端にはちょこんと甘い蜜がついていた。年は十九。冒険者としての等級は、三級——一人前と認められた冒険者の証だ。
「よぉ、レンの兄ちゃん! 朝っぱらから甘ぇもんかよ」
揚げ菓子屋のゴンゾが、揚げ油の鍋越しに笑いかけてくる。恰幅のいい体を油の匂いに包んで、この屋台に立って、もう何年になるだろう。
「これがなきゃ、一日が始まらねぇんだよ」レンは串を掲げてみせた。「おっちゃんとこの蜜菓子は、この街いちだ」
言いながら、銅貨を数枚、油じみた台に置く。それで、薄い財布の中身は、あらかた尽きた。
「兄ちゃん、その甘いのばっかりで、よく身がもつな」ゴンゾが、揚げ油の鍋をかき混ぜながら、呆れ半分に笑った。
「これが、力の源なんだよ」
軽口を返して、レンは串をくわえたまま歩き出す。
金欠なのは、いつものことだった。腕は立つほうなのに、いつまでも懐が寂しいのは——この男が、困っている奴を放っておけない質だからだ。強面で無精な見た目のわりに、困り顔を見るたび、気づけば自分の懐のほうが先に軽くなっている。だから、金なんぞ貯まりようがなかった。
現に、少し歩くだけで、あちこちから声がかかる。八百屋の女房が「レン、この前は棚を直してくれて助かったよ」と林檎をひとつ放ってよこし、井戸端の婆さんが「腰が痛くてねえ」とこぼせば、レンは黙って水桶を家の前まで運んでやる。路地の奥で洟を垂らして泣いていた小僧には、しゃがみ込んで「おう、迷子か。母ちゃんとこ、連れてってやる」と背を向けてやった。
魔力もない、金もない。それでもレンがこの街で生きてこられたのは、そうやって彼が街に手を貸し、街もまた、そんな彼を見放さなかったからだ。掌からこぼれ落ちそうな、当たり前の毎日。だが、レンにとっては、それこそが何より守りたいものだった。
もっとも、この街に生まれ育ったレンの立場は、昔から順風だったわけではない。
この世界では、生まれ持った「魔力」の多寡が、人の格をおおよそ決めてしまう。魔力を練って体の外へ叩き出せば魔法になり、体の内で巡らせれば、肉体を強化する力になる。魔法を使えるのは十人に一人の才人だが、身体強化のほうは、魔力の感覚さえわずかにつかめれば、たいていの者に扱えた。だから冒険者を志す者は、まず身体強化から覚える。
レンには、それができなかった。
子どもの頃から何百回と試して、どうしても、あの「魔力を巡らせる感覚」がつかめない。身体強化の手ほどきをしてくれた街の大人たちも、しまいには「お前は体がデカいんだ。あとは根性で頑張れ」と、苦笑い交じりに背を叩くばかりだった。同じ年頃の子らには「へったくそ~」とはやし立てられる始末。身体強化も扱えぬ者が、冒険者や兵士として身を立てられるはずもない。本来は。
それでもレンが冒険者でいられるのは、ひとつには、生まれつき人並み外れて頑丈な体を持っていたから。そしてもうひとつ——彼だけの、奇妙な力のせいだった。
その力のことを思うと、腕の古傷が、ちりりと疼く。
レンは蜜菓子の最後のひと欠片を口に放り込み、串を屋台の桶に戻すと、通りの角にある鍛冶屋へと足を向けた。
***
「また来やがったな、血まみれ小僧」
鍛冶屋の扉をくぐると、炉の火を挟んだ向こうから、しわがれた声が飛んできた。
ドラン。ラドフェンでも指折りの腕を持つ、ドワーフの鍛冶師だ。背は低いが横幅は岩のようで、三つ編みにした立派な髭には、あちこちに火傷の跡がのぞいている。見た目は人間でいえば五十がらみだが、実際にはもう百五十近い齢を数えているらしい。革のエプロンの下から突き出た腕は、丸太のように太かった。
「親父、剣を頼みたい」
「剣を頼みたい、じゃねえ」
ドランは、手にしていた布包みを、炉端の台に叩きつけるように置いた。ほどくと、中から出てきたのはレンの得物だった。刃こぼれし、赤黒い血の錆にまみれ、柄の巻きまで血で固まっている。
「見ろ、この様を。なんべん言やあわかる。得物は、命綱だ。命綱をこんなに汚しやがって……手入れひとつまともにできねえ奴が、命なんぞ張るんじゃねえ」
「わかってるよ」
「わかってねえ」
ぴしゃりと言って、ドランは炉から鉄挟みを引き抜き、真っ赤に灼けた鉄塊を金床に据えた。振り下ろした鎚が、かん、と高く澄んだ音を立てる。火花が、暗い鍛冶場に一瞬、赤い花を咲かせた。
「だいたいお前は、飯もろくに食わずに潜るからいけねえんだ。そこの棚のパン、持ってけ。……昨日の残りだがな」
「お、悪ぃ。もらうよ」
「ちゃんと寝てんのか、お前は。目の下、真っ黒じゃねえか」
「寝てるよ。……たぶん」
「たぶん、で命を張るな、たわけ」
ドランの小言は、いつもこうだ。剣のことから始まって、飯、睡眠、しまいには『いい加減、身を固めろ』まで飛んでくる。まるきり、口うるさい親父のそれだった。
憎まれ口を叩きながら、それでもちゃんと食い物を持たせようとする。それが、この偏屈なドワーフの本性だった。レンは硬いパンを一口かじり、包帯の巻かれた自分の腕へ落ちるドランの視線に気づくと、ばつが悪そうに肩をすくめた。
レンの「奇妙な力」を、ドランは知っている。
血を流し、力を強く念じると、体の外へ赤い熱がにじみ出て、身体強化と同じ——いや、それ以上の力になる。魔力のかけらもないはずの落ちこぼれが、血さえ流せば、そこらの冒険者を上回る膂力で戦えるのだ。レン自身、この力の正体をまるでわかっていない。ただ、血を流すたびに何かが応え、代わりに力をくれる。だから彼はこれを、勝手にこう呼んでいた。
——熱血の異能、と。
血を流し、熱く念じれば発動するから。それだけの、単純な名前だった。
「その力はな、レン。てめえの命を削って使ってるようなもんだ」ドランの声が、ふと低くなった。鎚を打つ手が、止まっている。「血ってのは、湧いて出るもんじゃねえ。流しすぎりゃ、人は死ぬ。……お前はいつか、その加減を間違える」
「間違えねぇさ。ちゃんと考えてる」
「考えてる奴の腕が、そんなに傷だらけになるかよ」
返す言葉がなかった。レンは苦笑いを浮かべ、話をそらすように新しい剣の話を切り出す。ドランはしばらく渋面を崩さなかったが、やがて大きなため息をつくと、奥の棚から一振りの剣を持ってきた。飾り気はないが、ずしりと重く、頑丈そうな刃だ。抜いてみると、炉の灯を受けて、刃紋が鈍く波打った。
「うわ……いい剣だな、これ」
軽く振ってみる。ずしりと重いのに、不思議と手に馴染んだ。刃筋がまっすぐ通っていて、多少乱暴に扱っても、そう簡単には音を上げなさそうだ。レンの戦い方は、綺麗じゃない。血にまみれ、体ごと敵にぶつかっていく、無茶な戦い方だ。その無茶に、文句ひとつ言わず付き合ってくれる——ひと目で、そういう相棒みたいな一振りだと、わかった。
「ちょうど、お前向きに打ってたのがある。無茶にも少しは保つだろう。……ただし、タダじゃねえぞ」
値を聞いて、レンは思わず眉を寄せた。今の手持ちでは、爪の先も届かない。
「今の得物じゃ、お前の無茶にもう保たん。次に深いところへ潜りゃ、そこで折れる」ドランは剣を布に戻しながら、突き放すように言った。「金を作ってこい。命を張るなら、まずそこからだ」
金を作ってこい、か。
突き放すような物言いのくせに、この親父は昔から、そうやってレンに道を示してきた。両親を早くに亡くしたレンにとって、口の悪いこのドワーフは、半分は育ての親のようなものだ。だから、親父、と呼ぶ。照れくさくて、面と向かっては言わないけれど。
レンは新しい剣の柄を、名残惜しげに一度だけ握ってから、鍛冶場を後にした。
***
金が要る。
その足でレンが向かったのは、街の中央にある冒険者ギルドだった。
石造りの大きな建物の中は、いつものように騒がしい。朝から酒盛りを始めている連中、依頼票を奪い合うように見上げる若手、隅で黙々と武具を磨く古参。受付には列ができ、壁一面の掲示板には、報酬額を記した依頼票が所狭しと貼り出されている。銅貨で片づく雑用から、金貨が動く大仕事まで。等級に見合わない依頼に手を出せば命を落とすし、逆に手堅い仕事ばかりでは、いつまでも懐は温まらない。
「よォ、レン。相棒はどうしたんだい」
いくつも並んだ受付窓口の、その一つから、よく通る、しゃがれ気味の声が飛んできた。
マーゴだった。このギルドの受付に、もう長いこと座っている古株の一人だ。大柄で、年の頃は五十がらみ。肩まわりは並の男よりよほど厚く、まくり上げた袖からは、二の腕を斜めに走る古い刀傷がのぞいている。若い頃はこの街で鳴らした冒険者で、膝を壊して現役を退いてからは、こうして受付の内側から後進たちを見張ってきた。若い受付嬢たちからは「姉御」と慕われ、酒臭い荒くれ者どもも、この女の前だけは妙に大人しい。化粧っ気はまるでないが、笑うと目尻に刻まれる深い皺が、妙に人を安心させる。
「ルカなら、飯食ってるよ。……なあ、マーゴさん。いい依頼、入ってねぇか。割のいいやつ」
「そのツラで、割のいい依頼ときたか」マーゴは、がらがらと笑った。「あんたねェ、この前だって、迷子のガキを半日かけて探して、駄賃も受け取らずに帰ってきただろ。だから金が貯まらないんだよ。どうせまた、ドランのおやじに剣を催促されたクチだろう?」
「……なんで知ってんだよ」
「この街で、あたしの耳に入らない話はないのさ」
マーゴは得意げに鼻を鳴らすと、掲示板から一枚の依頼票を、太い指で抜き取った。それを、身を乗り出して、声を少し落としながら差し出す。
「ま、一件、あるにはあるよ。ラドフェン迷宮の、浅い層の採取と調査だ。近ごろあのへん、魔物の出が変だって話でね。様子を見てきてほしい、ってさ。三級のあんたにゃ朝飯前だろ。そのくせ、様子見の割増しで、実入りは悪くない」
いい実入り、という言葉が、まっすぐ胸に刺さった。ドランの、あの剣が脳裏をかすめる。
「……受けるよ、それ」
即答だった。
マーゴは、内心で小さく息をつく。この街の連中は、レンをガキの頃からよく知っている。身体強化ひとつ使えず「へったくそ」と嗤われた小僧が、歯を食いしばって三級まで這い上がってきたことも、その裏で、どれだけ無茶を重ねてきたかも。だからこそ——きな臭い匂いのする依頼を、こいつが二つ返事で受けてしまうのは、正直、あまり気持ちのいいものではなかった。
「即答かい」マーゴは呆れたように笑い——それから、ふと真顔になった。「レン。一応、言っとくけどね」
彼女は、受付カウンターのそばのテーブルで、退屈そうに安酒をあおっていた一人の老人へ目配せした。
バルドだった。
片脚を失い、木の義足を無造作に投げ出して腰かけた、白髪頭の老冒険者。酒に濁ってはいるが、落ちくぼんだ眼窩の奥の目だけは、鷹のように鋭い。若い頃は「迷宮喰らい」と呼ばれ、この街の誰よりも深くまで潜った、伝説みたいな探索者だったという。だがある探索で、仲間の全員と自分の片脚を、地の底に置き去りにしてからは、こうして毎日、ギルドの隅で酒に沈んでいる。
そのバルドが、しわがれた喉で、ぼそりと言った。
「……悪いこたぁ言わねえ。あの迷宮、近ごろ様子がおかしい」
濁った目が、ぎょろりとレンを捉えた。
「浅いとこにまで、いやな風が流れてきてやがる。深いところにゃ、行くなよ。……生きて帰ってこれなくなるかもしれねえ」
ざわめく喧騒の中で、その一言だけが、やけに冷たく耳に残った。
レンは、なんでもないふうに笑って、軽く手を振ってみせる。
「わかってるよ、爺さん。浅いとこの、様子見だけさ」
そう言い置いて、レンはギルドを後にした。バルドの視線が、いつまでも背中に張りついているような気がしたが、努めて気にしないことにした。
***
次にレンが向かったのは、裏通りの安食堂だった。
案の定、相棒はそこにいた。窓際の席に陣取って、山盛りの串焼きを片端から平らげている。犬に似た茶色の獣耳がごきげんに揺れ、椅子の下では尻尾がぱたぱたと床を叩いていた。
半獣人のルカ・ソレル。レンと組んでいる、雷魔法の使い手だ。等級は同じ三級。派手好きで軽口ばかり叩く目立ちたがりだが、腕は確かで、何より——困っている奴を放っておけない質なのは、レンとよく似ていた。
「よ、相棒。景気はどうだ」
「聞いてくれよレン! この店の串焼き、三本頼むと一本おまけしてくれるんだぜ。控えめに言って、天国だ」ルカは口いっぱいに頬張ったまま、串を振ってみせた。「で、そっちは? また金策に走り回ってた顔してるぜ」
「よくわかったな」
「顔に『金がねえ』って、でっかく書いてあるぜ」
レンは向かいに腰を下ろし、マーゴから受け取った依頼票を、ことん、と机に置いた。ルカが串を咥えたまま、それを覗き込む。
「浅層の採取と、調査ねえ……。地味だなあ。おれたちの格なら、もっと派手なやつでもいけるはずだぜ」
「派手なやつは、装備が揃ってからだ。今の得物じゃ、親父に『深いとこ行きゃ折れる』って引導を渡された」
「うわ、また血まみれにしたのか、あの剣」ルカが顔をしかめた。「……なあレン。前から言ってるけどさ。お前、あんまり血ぃ流して戦うの、ほどほどにしとけよ。見てるこっちが、寿命縮むんだからな」
軽い口調の底に、本気の心配がにじんでいる。レンは、へらりと笑って受け流した。
「善処するよ」
「絶対しねえやつの顔だ、それ」
ルカはやれやれと肩をすくめ、それから、ふと串を止めた。犬の耳が、わずかにぴくりと動く。
「にしても……浅層で魔物の出が変、ねえ。なんか、きな臭くねえか?」
「マーゴさんも、そう言ってた。あと、迷宮喰らいの爺さんが、やたら深刻な顔で『行くな』ってさ」
「うわ、バルドの爺さんかよ」ルカが器用に眉をひそめた。「あの人が、そこまで言うって……逆に気になるな。あの爺さん、酔っ払ってても、迷宮のことだけは外さねえって話だろ」
「まあ、浅いとこだけなら平気だろ。やばけりゃ、さっさと引き返しゃいい」
「違いねえ」
軽く言い合って、二人は顔を見合わせて笑った。深く考えなかったのは、たぶん、二人ともまだ若かったからだ。
ルカは大げさにため息をつくと、最後の一本を名残惜しそうに平らげ、勢いよく立ち上がった。尻尾が、ぴん、と立っている。
「ま、いいや! 相棒がやるってんなら、付き合うぜ。地味な仕事も、二人でやりゃ退屈しねえしな。……で、いつ行くんだ?」
「明日の朝。浅いとこを、ぐるっと見て回るだけだ。すぐ終わる」
すぐ終わる。
その言葉を、レンは、まるで疑っていなかった。
ギルドの隅で酒に沈んでいた老人の、あの濁った目も、告げられた不吉な言葉も——このときはまだ、遠い誰かの世迷い言くらいにしか、思っていなかったのだ。
あの迷宮が、地の底で静かに牙を研いでいることを、二人は、まだ知らない。




