十六歳の誕生日
広間には既にお客様がたくさん集まっていることだろう。まだ扉は開いていないけれど、ざわざわした空気が伝わってくる。
夜も更けて、パーティーの開始時間が迫っていた。待機室でグレイスはフレンと出番を待っていた。本日の主役なのだ。グレイスの入場は一番最後。
「緊張しておられますか?」
フレンが尋ねてくれる。今日のフレンの服装はしっかりとした盛装。黒の燕尾服なのは同じだが、布や品質が一目見て良いものであるし、控えめについている装飾が華やかに飾っていた。
使用人ながら、今日の主役のグレイスの従者であるのだ。使用人としては一番上の立場。それに恥じない格好だった。
「そうね……少しは」
グレイスは正直に答えた。ここで嘘を言っても仕方がない。
実際、過度には緊張していないし。なにしろパーティーは年に一度の誕生日以外にも事あるごとに開催されていて、二、三ヵ月に一度は出席しているのだから。
今日は自分が主役、しかも十六歳という節目の年で、おまけに重大発表まで用意されているのだから緊張が強いだけだ。
「お嬢様なら大丈夫ですよ」
そんなグレイスを安心させるように、フレンは微笑んでくれた。グレイスの腰かけている椅子の横から優しい視線で見下ろしてくれながら。
「そうだと良いけれど」
つられてグレイスも笑みを浮かべていた。フレンが言ってくれればその通りになる気がする。
「それに、今日のお嬢様はとてもお綺麗です」
「……ありがとう」
チークのせいではなくほんのり頬が染まってしまいながら、グレイスはお礼を言った。
照れてしまうけれど、とても嬉しい。他ならぬ想い人に褒められるだけでなく、それが『綺麗だ』という言葉だったのが。
今日のグレイスは、試着したのと同じドレスを着ていた。あれから微調整を入れてくれたらしく、より体にフィットして着心地は良くなっている。
くすんだ色合いのピンクのドレス。フリルやレースが上品に飾っている。かわいらしさと少々の大人っぽさ。若い女性として、そして半ば大人として認められる歳としてふさわしいと思う。
「大人になってしまわれるのですね」
しかしそのあとの言葉はなんだかしみじみとしていた。それどころか、ちょっと寂し気すら感じられる。
「なぁに、大人になったら困るのかしら」
グレイスは少し膨れた。いつまでも子供だと思われていたのかと思ってしまう。
確かに十六になったのは今日であるとはいえ、ここまでだってまるっきり子供だとは思っていなかったのに。そしてフレンもそう扱ってくれていたと思っていたのに。
「いえ、感慨深いのです。なにしろお嬢様がお小さい頃から、お傍に置いていただいておりますから」
そんなこと、傍にいてもらったのは自分だというのに。フレンはそういう言い方をする。それが優しいところなのだ。
けれどその言葉はだいぶ恥ずかしい。『小さい頃から』ということは、楽しいことだけではなかったのだから。苦い想い出や恥ずかしかったりする想い出もある。そのほとんどをフレンは知っているのだ。
だからこそ近しく感じるのだけど、不満でもあるのは……恋の心を自覚してしまったから。フレンにとって自分はやはり、『主人』であり、もしくは『小さな子供』であるのだろうかと。思ってしまう。
それでは嫌だ、と本当は思う。ただの、一人の女の子として見てほしい気持ちが今はあるのだから。そうすればフレンも今とは違う意味の愛しさを感じてくれたかもしれないではないか。
……そんなことは、願望だけど。
思って、グレイスはその思考を振り払った。考えても状況などは変わらないのだから意味がない。
「……私だって、いつまでも子供ではないわ」
言ったけれど、視線は逸らしてしまった。フレンがどういう表情をしたかはわからなくなる。
「そうですね。魅力的な女性になられました」
しかし言われた言葉にはどきりとした。それはまるで、先程の願望が言葉になったようだ、なんて感じてしまったせいで。
『魅力的な女性』
そうは認めてくれているのだ。一人の女性として見てくれている面だってあるのだ。それが『主人』より奥にある感情であっても、確かに。
「フレン」
思わずフレンのほうを見ていた。そこで視線がしっかり合ってしまう。
フレンの翠の瞳。いつも通りに穏やかで優しい色が浮かんでいた。
グレイスに思い知らせてくる。このひとに惹かれてしまっている、と。
この優しい瞳が、違う意味で自分を見つめてくれたらどんなに良いだろうと、望んでしまっていることを。
恋の気持ちで優しい色を浮かべてくれているならどんなに良いだろうと。
グレイスの願望は表に出てしまったのだろうか。フレンがちょっと不思議そうな表情を浮かべた。なにかグレイスが言いたいことを抱えている、くらいはわかってしまっただろうから。
でもなにを言いたいのか、グレイスは自分でもよくわからなかった。
心にある願望をそのまま言いたいはずはない。そんなこと、言うつもりはない。
けれど、なにか詰まったようになっているのだ。これは、一体。
戸惑った気持ちでフレンの翠色の瞳を見つめているうちに、扉がこんこんとノックされた。
「はい」
それで視線は外されてしまう。フレンはそのノックに反応して扉へ向かってしまったのだから。グレイスはほっとするやら、どこか惜しくなるやらであった。
結局わからないのだ。自分がどうしたくて、そしてどうするのかが。
婚約発表はそのまま受け入れるけれど、そのあとのこと。
でも、今考えても仕方がないことはわかる。今のグレイスがすべきことは、「ありがとうございます」と粛々とお礼を述べ、受け入れる返事をすることなのだから。
「さぁ、お嬢様。参りましょう」
フレンが近付いてきて、手を差し伸べてくれる。グレイスは椅子から立ち上がった。
フレンの白い手袋の手を取った。その手はほんのりあたたかくて。
忠誠を誓うくちづけをくれたときと同じあたたかさを持っていて。
ほわっとグレイスの胸を熱くした。フレンのあたたかな手は、いつもグレイスに安心をくれる。
今は目の前のことに集中しよう。フレンがエスコートしてくれるのだ。きっと大丈夫。
「ええ。よろしくね」
いつも言っているように、フレンに告げる。フレンもいつも通り、ふっと笑って「お任せくださいませ」と言ってくれたのだった。
「グレイスお嬢様のご入場です」
フレンに腕を組んでもらって、グレイスはしずしずと会場へ足を踏み入れた。心臓がどきどきして、ぎゅっとフレンの腕を握ってしまう。
でもその腕はしっかりとしていて、あたたかくて。やはりグレイスに勇気をくれたのだった。
従者に付き添われて入場したグレイスに、ぱちぱちと拍手がなされた。グレイスは笑みを浮かべる。人々に笑みを振りまきながら、ゆっくり広間を歩いて、座に居る父の横へ辿り着いた。
フレンが腕を解いて、一礼する。そのまま横に控えて立ってくれた。
「皆様、今日はお集まりいただきましてありがとうございます。娘のグレイスも本日で十六になり、この良き日を迎えられたことを……」
父の挨拶がはじまる。グレイスは横でそれを聞いていた。いつもと同じ挨拶。
ひとつ違うのは、お客様の中。一番いい、客分の席に居て、立っているほかのお客様とは違ってゆったり腰かけているひとである。
ダージルはやはり昼間と同じ微笑を浮かべて椅子に腰かけていた。その服装はよっぽど豪華になっていたけれど。まるで王子といっても通ってしまうほど豪華だった。
身に着けている服は白が基調で、黒とワインレッドの差し色が入っている。鈍い金色のタッセルが肩を飾り、腰には同じ色のベルトが巻かれていた。
自分のためにこれほどの盛装をしてやってきてくださったことは嬉しい、と単純に思う。悪いひとではないだろうことは昼間の席でなんとなく感じられたのだ。
恋する相手がいなければ「この方と結婚しても、それなりに好きになれるし、上手くいくのではないかしら」くらいには気に入ったかもしれない。そう思うには、グレイスの中の恋心がまだそれを阻んでいたのだけど。
そんなことをぼうっと思っているうちに、父の挨拶は終わっていた。使用人がカートで運んできてくれていたシャンパンを、フレンが取り上げてグレイスに渡してくれる。グレイスのこれは勿論アルコールなどは入っていないはずだ。横では別の使用人、執事長が父にグラスを手渡していた。
「では、娘の誕生祝いと、お集まりくださった方々の健全を祝って……乾杯!」
父がグラスを持ち上げて乾杯を告げる。ひとつずつグラスを持っていたお客様も、近くの人々とグラスを合わせて、乾杯、乾杯、としてくれた。
グレイスは父の傍に寄り、「乾杯申し上げます」と、そっとグラスを差し出した。
「ああ。おめでとう」
父もグラスを差し出して、グレイスのものとかちりと合わせてくれる。一杯の甘いシャンパンの味で、誕生日パーティーは幕を開けた。