独りじゃないから
「ここまで酷いお風邪は久しぶりですね」
この旅行についてきてくれていて、毎日世話をしてくれていたリリスがちょっと困ったような顔で言った。事情は知らないにしても、グレイスになにか不安ごとがあった、というのはわかっているだろうから。それだけの長い付き合いだ。
「ええ……」
「ここは少し冷えますからね。それで悪化してしまわれたのかもしれませんわ」
今日は体を拭いてもらってさっぱりしたあとにそんな話をした。あたたかい紅茶も出される。
三日寝込んだあとだ。だいぶ回復してきて、明日には部屋から出られそうだと言われている。
しかし外へ出るのは別の意味で億劫だった。なにせ事情が事情である。
思い出したいような気持ちも少しはあるけれど、思い出したくない気持ちのほうが今は強かった。混乱していたとはいえ、なんということをしてしまったのか。その気持ちは今まで熱に追いやられていたのだけど。
「お嬢様、なにか心配事がおありですか?」
ふと、リリスが顔を覗き込んできた。ソファに腰掛けていたグレイスに近付いて。
流石にどきりとした。わからないはずがないと思ったけれど、グレイスが言えることなどひとつしかない。
「なんでもないわ」
なんでもないはずがないでしょう。こんな、雨に打たれて帰ってきた挙句、熱を出して。
なんでもないひとがこんなふうになるはずが、ないでしょう。
自分の中でもう一人の自分が事実を述べた。
「あまり抱え込まれてはよろしくありませんよ」
そっとなにかが肩に触れた。そちらを見ると、リリスが床に屈むところで。床に膝をつけて、グレイスの腕をそっと撫でてくれる。ふんわりとした女性の手のあたたかさが伝わってきた。
リリスの手は、グレイスが一番好きなひとのものとは違う。それは当たり前のこと。
でも着替えをさせてくれるとき、メイクをしてくれるとき、髪を結ってくれるとき。
グレイスに触れてくれるその手はいつだって優しく、近くにあってくれるものなのだ。
私は、きっと、独りではないのだわ。あたたかさはグレイスにそう伝えてきた。
それはフレンがいつか、手の甲に忠誠のくちづけをしてくれたときとは別の意味。
でも『独りでない』にも様々な意味があるのである。
グレイスはごくりと喉を鳴らした。核心は言えるはずがないと思った。こんなこと、ひとに話したらどうなるとも知れない。それが信頼しているお付きのリリスでも。
でも、もうひとつのことならば。
「あの、……いいかしら」
グレイスが『話したい』と思って言ったのは伝わってくれたらしい。リリスは小さく笑みを浮かべて、「はい」と答えてくれた。
「その、……ダージル様と、少し」
はじめから言葉は濁って、情けないと思ってしまった。
けれど自分でも思い出したくないし、おまけにこのようなことは初めてなのだから、恥ずかしくもある。それを悟ったようにリリスから言ってくれた。
「なにか、いさかいでもあられましたか?」
「いえ、そういうわけでは……ないと、思うのだけど……」
あれはまだはっきりと『いさかい』でもないだろう。無礼だったとは思うけれど、少なくともダージルは明らかに怒った、という様子ではなかったのだから。今は、それよりも。
「では、なにか、婚約者様らしいことでもおありでしたでしょうか?」
そう、それである。婚約者らしいこと。
リリスはぼやかして言ったけれど、まぁ、男女のすることである。そういうことに身分の差などないだろう。
「そう、ね……そういう、ことが」
グレイスの視線は少しさまよって、それから下に落ちた。膝の上に乗せていた自分の手を見てしまう。そんなところにはなにもないというのに。
「そうでしたか。それは驚かれましたね」
リリスの次に言ったことはちょっと意外だったので、グレイスは思わずそちらを見ていた。リリスのやわらかな笑みを浮かべた顔と向き合う。
『婚約者らしいこと』
それがグレイスにとってショックであったのを、言わずともわかってくれたらしいのだ。それで少し驚いてしまった。
でもおかしなことでもない。なにしろリリスはグレイスが幼い頃から仕えてくれているのだ。グレイスに恋愛経験がないことは知られている。
そこからの連想で、グレイスが熱を出したこととあわせて、『いきなりのことにショックを受けた』と取ってくれたのかもしれなかった。敏い女性である。
「ダージル様にお気の引けるお気持ちはお察しいたします。でもあまり思い悩まれなくても良いと思いますわ」
リリスの言葉は優しかった。ゆっくり話してくれる。
「私も、お嬢様と同じくらいの年頃に夫に出逢いましたけども。はじめから上手くはいきませんでしたもの」
リリスの話は、実体験に基づいているものだったようだ。それはグレイスの興味を惹いた。
「そう、なの」
既に結婚してからそれなりに長いリリス。グレイスにとってはもう立派な大人の女性である。
「そうですよ。最初から上手くやれる方のほうが少ないのです」
グレイスを力づけるためかもしれないが、そう言ってくれた。グレイスの心はそれにほどけていく。
少なくとも悩みのひとつ。ダージルとのやりとりについて。それは少しずつ軽くなっていくのが感じられた。
「例えばですね、夫が気持ちを伝えてくれたときのことですけど……」
リリスは珍しく饒舌だった。勝手に話しているのではなく、グレイスの心を軽くするために話してくれているのだろう。グレイスは時折相槌を打ちながらそれを聞いた。
数十分も経っただろうか、リリスは「すみません、長話を」と立ち上がった。長くなったのでソファの隣に腰掛けてくれていたのだった。
「そろそろお休みになられますか?」
まだ昼間であるが、病み上がり、というか、治り切っていない状態である。グレイスは少しの疲れを覚えていたところもあり、「そうするわ」と答えた。
「大丈夫ですよ。なにもかも上手くいきますから」
グレイスをベッドに入れてくれて、リリスはグレイスの髪を優しく撫でて言ってくれた。そしてお辞儀をして部屋から出ていった。
一人になって、布団にくるまって、グレイスは息をつく。
リリスと話ができたことで、少し気持ちは軽くなった。少なくともダージルとあったことについては、だいぶ気持ちの整理がついた。
でも、もうひとつ。こちらのほうが、実は遥かに重大な、もうひとつ。
どうしたってひとには言えない。
そんな、……婚約者を袖にするようなことをして、密かな想い人の従者とくちづけをしてしまったなど。
思い出しただけで、顔が熱くなるやら、逆に青くなりそうやらなことである。
どうしたらいいのか。グレイスにはまったくわからなかった。
フレンが自分に応えてくれたのは嬉しい。
取り乱していたところとはいえ、抱きしめてくちづけてくれたことが嬉しい。
けれど、それからどうなるのかと考えると、心臓は冷えていってしまうのだった。
フレンはあれから、なにも言わなかった。
勿論、普段通りグレイスに仕えてくれていた。食事や身の回りのお世話をしてくれた。普段と変わらぬ穏やかな笑みで、優しくて、日常の話をしてくれた。
けれど、あのことに関しては一切触れなかったし、グレイスにも言わせてくれなかった。
グレイスは言って良いものかためらって、結局言えないままであったのだけど。
だからもしかしたらこのまま、なかったこと、になってしまうのかもしれなかった。フレンはそう望んでいるのかもしれないのだ。
でも、とグレイスは思ってしまい、布団を口元まで引きあげてしまった。
フレンの触れてくれたところ、まで。
もう自分の気持ちは後戻りできないところまで来てしまった。こんな気持ちを抱えて婚約者と結婚などできないと、思い知らされてしまった。
自分が我慢すれば、フレンは従者として傍にいてくれるだけで良いと妥協すれば、自分の気持ちに嘘をつけば。それですべて丸く収まって良いのだと思うことは、もう不可能だった。
言わないわけにはいかない。自分の今の気持ちを。
それを誰に言うべきかというのがきっと問題なのだ。
フレンなのか、ダージルなのか、もしくは父か……。
どう最初に動くのが正解なのかはまだわからない。間違ってしまったら壊れてしまうだろう。この日常と将来は。
グレイスの心の中にもやもやと留まり、熱まで出させてしまったのはそれであると、だいぶ落ち着いた今でははっきり自覚できた。
でもどう進んだらいいのかはまだわからない。
早く理解しなければいけないのはわかるのだけど、どうしても進む方向がわからないのだ。
またぐるぐる悩んでしまったのと、リリスと話し込んだのも手伝ってグレイスは疲れてきた。少し眠ろうと思う。
布団をしっかりかぶって目を閉じる。すぐに意識は不透明になっていった。
夢は見なかった。なにも考えずに深淵に沈むようにグレイスは心を癒す眠りへと落ちていた。




