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01-25 エーギル・クライゾル

エーギル・クライゾルは熊の獣人ベアーグ族の族長

魔族で姓を持つのは偉い人だけという設定です。

20170724 改訂

2021 0724 手直し

2024 0208 手直し




 アリエルはおおよそ片付いた砦の南門扉の前に立ち、強化魔法の十分に乗った筋力でグイグイと扉を開こうとするが、びくともしない。扉の向こう側にはでっかい丸太から削り出したような一本モノのかんぬきがかけられていて、外からいくら押したところで、びた1ミリ動くことはない。子どもが押したぐらいで開いたのでは砦の門扉として成立しないのだ。


 気配を探ると砦の内部が慌ただしい。なんだか気持ち悪いほど大きな気配が現れたのだ。

 アリエルは北門の扉が破られたのだと直感した。


 外から砦の扉を開けることはできない。

 あるいは[爆裂]で門扉を破壊することもできるだろうが、建物内から感じる気配が近すぎる。


 アリエルは倒れてる獣人を踏まないようにラインどりし、いったんぐるっと加速区間をもうけ、大回りに加速し砦上に向かってジャンプすると大量の返り血を浴びたアリエルの身体からは血煙が上がり、薄っすらと紅い虹のように軌跡を描く。砦上に着地し、すぐさま階段を降りると、すぐ目の前に ぬっ……と異様な気配の主が現れた。


 天井に届くんじゃないかっていうほど高い位置から一瞥されると、その巨漢が何なのか数秒遅れて理解できた。信じられないほど大きな熊の獣人が兵士たちを蹂躙している。


 圧倒的な力と存在感で戦場を支配する熊の獣人。あれがイヤな気配の主、武将と言うやつだ。

 あの猛獣が裏門の前に陣取っているせいでかんぬきを外せず、兵たちは撤退できないと知った。


 さっき砦の上で会った兵士が倒されて踏み付けられている。身長は……砦の天井に頭をぶつけるぐらいで前屈みになっているからよくわからないが、おそらく3メートル近い……。


 日本人の知識で言うと世界最大最強の肉食獣ホッキョクグマぐらいの大きさはゆうにある。

 熊の獣人、ベアーグだ。師匠から聞いた感じではツキノワグマぐらいに考えていたけどとんでもない。家に帰って階段を降りるとリビングにウルトラ凶暴なホッキョクグマがいたような衝撃だった。


「マジか、デカすぎるだろ」

 アリエルは反響の大きな砦内で爆破魔法を使うことを躊躇していたが、そうも言ってられない。


 狭い建物内で『爆裂』は禁忌だが……、いつも好条件で戦えるわけがないのだ。

 だけど、今なら南門を裏側から破れる。アリエルは『爆裂』を二発転移させて起爆した。


 狙いは南門の扉だが、その前に立ちふさがるクマ獣人も巻き込んでの爆破だった。



―― ドン!ドカン!


 くぐもった炸裂音の塊が砦内部にいる者すべてを襲ったが、その結果もうもうと巻き上がった土埃の中、光が差し込んだ。『爆裂』で内側から門を吹っ飛ばしたことを確認した。


 …… だがしかし耳がキーンとして、一瞬体が動かなくなった。


 アリエルと同様に、少し離れた場所では複数の騎士たちを相手にしていたウェルフ族の戦士はいまの爆音だけで一瞬動きが止まった。ヒト族よりも五感の鋭い獣人には『爆裂』が有効なことは間違いないのだろう。だけど門の前で仁王立ちを続けるクマの獣人にも当然ダメージあるはずなのだが『爆裂』の衝撃波をかぶる位置にいてびくともしない。


 あのクマ獣人は砦よりも硬い。


 そしてただ狂ったような怒気を放出させると、その鋭い眼光をアリエルに向けた。


 視線がアリエルに向いたと瞬間、すぐわきから飛び込む気配、いま砦の中は明かりがない上に、アリエルが『爆裂』を使ったせいで、昔年にわたって積もっていた埃が舞い上がっており、視界不良を起こしていたが、そのおかげなのか、よく見えない室内でありながら埃の中から素早く動いて攻撃し、一撃離脱するという戦法だった。


 敵の間合い外からチクチクと攻撃していたのだろう、クマ獣人と対峙しているのはトリトンだ。


「南の敵はあらかた片付けたよ! 父さん! 撤退を!」


「ああ!? あんだって?」


 ダメだ、トリトンはさっきの『爆裂』のせいで耳がいかれてる。

 アリエルはハンドサインでとにかく南門から出ろと促した。


「おう! ガラテア! 出て撤退を指揮しろ、私がしんがりをつとめる」


 アリエルの言いたいことは伝わった。だが、


「ええっ?! 何か言ったか!?」


 ガラテアさんの耳もいかれてる……。


 狭い砦の中とかで『爆裂』を使ったら、一時的に耳が使えなくなる……。

 アリエルの防御魔法の強度でもキーンとして一瞬は動けなくなるほどなんだから、防御の弱い人には厳しいか……。だけど、ウェルフには効果ありだ。


簡単かーんたんに逃がすかよぉ!」


 しかしアリエルの『爆裂』に怯む素振りもなく、ダメージを負ったかすらも分からない、頑強なクマ獣人が再び門の前に立ちはだかった。


 トリトンやガラテアさんたちには悪いが仕方ない、出口の拡張工事だ。



―― ドッゴォ!


 ―― ドバン!


 内側からの爆発で南側の門は木材部分がほぼ全部吹き飛び、土魔法で成形した頑丈さだけを追究した石垣部分も崩れ始めた。防御魔法の強度にはそこそこ自信のあるアリエルでも明らかなダメージを受けた。例えるならヘルメットをかぶった上からハンマーで殴られたようなダメージだった。


 砦内での魔法戦闘は我慢比べになる。ではこのベアーグの戦士にはどれぐらいのダメージが通ったのか? と期待したけれど、その淡い期待はアッサリと裏切られた。ベアーグの戦士は小指で左の耳をポリポリとほじりながら、しかめっ面で「おお? ちょっとは骨のあるやつが居るみてえじゃねえか」とかほざいてみせたのだ。


 確かに室内という事で『爆裂』の威力を絞っちゃいるが、まるで意に介さないなんて、とんでもない化け物だ。


「マジか! 鼓膜まで鍛えてんのかよ」


 これはキツイ。こっちはキーンとして頭痛までし始めたというのに……破られた北側の門からどんどん敵が入ってこようとしてる。


 アリエルは攻城用に持っていた大きめの岩を[ストレージ]から転移させて、ただ積み上げて並べるだけで侵入を防ぐことにした。破られた北側の門を閉じるため、とりあえずの応急措置だ。


 だけどこれじゃあ長くはもたないので、さっさと撤退しないと。



―― ドバン! バン!! ……ガラガラガラ……


 土埃がもうもうと立ちのぼる砦の中、更に二つ、壁に穴を開けて撤退を促す。


「もう持たないよ。早く撤退を!!」


 守備隊の兵士たちの返事はなかった。だけど気配が飛び出してゆくのは分かる……。


 あとはこのベアーグの戦士、こいつを何とかすれば、みんなで帰れる!


 この埃っぽい空気の中、アリエルはベアーグと正面から対峙した。


 ベアーグの戦士も、この小さな戦士こそがこの砦攻略最大の障壁だと理解した。

 今の今まで砦の守備隊が外に飛び出すのを阻んでいたが、大穴が二つも三つも空いてしまった上に、一緒に砦内に侵入した戦士たちも、激しい抵抗にあって思っていたよりも進捗していない。


「フン、領主の首をベストラに譲るのも癪だが……」


 ベアーグの戦士は、首の関節をコキコキと鳴らしながら、今の今まで守備隊の撤退を阻んでいた門の前を離れ、アリエルに集中した。


 ベアーグの注意がアリエルに向かい、砦の門裏のスペースから移動したことで、守備隊の兵士たちは次々に外へと脱出しはじめた。


 アリエルにとってこのベアーグは、これまで出会った最強の生物だった。

 視界に捉えられているだけで食い殺されるんじゃないかという恐怖すら感じた。


 アリエルは精神を統一するため、こんなにも埃っぽく薄暗い砦の中で深呼吸をして呼吸を整え、いつものように手首、くるぶし、膝の関節を温めなおす。いつものように行い、いつものように冷静さを取り戻すためにルーティーンをこなす必要があった。


 アリエルは剣の柄を目の前で止めた時、小さな声で(俺は生きて帰る)とボソッとこぼし、そしてゆっくりと上段に構えた。睨み殺さんばかりにしっかりと視界の中心にこの大きな熊の獣人を捉えて気を吐く。


「ほう……、見た構えだ。ガキの間じゃ上段構えが流行ってんのか? しかしなんで人族のガキがこんな火事場にいるんだおい? 早く帰ってお母ちゃんのおっぱいにぶら下がってりゃ幸せだろうが?」


 『爆裂』の魔法をまともに受けたにも関わらず余裕綽々でアリエルのことを値踏みするベアーグの戦士。特に構えることもせず、天井から見下ろすような威圧感を振りまき、この薄暗く風通しの悪い砦の中で対峙する。


 戦力もなく、時間もなく、この困窮した戦場で敗北が確定しているノーデンリヒト守備隊の命を一人でも多く助けるため、僅かの余裕もないアリエルは一気に間合いを詰めてこの獣人の長に斬りかかった。


「お前が! 邪魔だあああっっっ!」


―― ガッ!


 この狭い砦内で自由に動けないであろう巨体をひねって片手持ちの剣で軽く受けて見せた。


「おおっとあぶねえ! まったく……いい踏み込みじゃねえか」


 いうとベアーグの戦士はぐっと腰を低く構え、アリエルを睨みつけて気を吐いた。


 視界の下半分が暗くなる。立ちくらみのような感覚だった。


 手が震える。

 足もガクガクする。

 涙がにじむ……。


 ……こ、これは。


 爆破して開けた裏門の外側から撤退を促していた騎士団のアンドリューがアリエルの不利を察したのか、後ろから怒気の主に斬りかかった。


「アリエルくん! キミもはやく外へ!!」


「邪魔ぁすんなよ、俺ぁいまこいつとやってんだ……」


 だが、その剣はベアーグの巨体に届かず弾き飛ばされ、次の瞬間、幅広の剣がアンドリューの肉体を貫き、背中から突き出したのが見えた。


「あああっ……やったな!」


(アンドリューさんには俺と同い年の娘さんがいたんだ……。親に似ず器量良しだから嫁にもらってくれんかといつも言ってた……のに……)


 胸にから背中に貫通した剣を振り払い、アンドリューさんが地面に叩きつけられる。

 気配が……どんどん小さくなってゆくのが分かる。


 目の前でアンドリューさんが倒されたのを見たアランおじさんもまるで壁のようにそそり立つベアーグに向かって剣を振りかぶり飛び込む。しかし振り上げた剣を下ろすことも出来ず、面倒だとも言いたげに払った剣で鎧ごと袈裟斬りにされてしまった。


 アランおじさんは……装備品の手入れや、剣の研ぎ方を教えてくれた……、とてもやさしいひとだった。


 それでも、アリエルの

「うおおおおおっ!、こっ、殺したなっ! くそっ! くそおおおっ!」


 小さなころから良くしてもらった砦の兵士たちをあっけなく殺され激高するアリエル。威圧され動けない体に鞭打ち、この強敵に向かおうとす激を飛ばす。


 足よ動け! 前に!

 まだだ。もっと。もっとだ。


 腕をあげて剣を構えろ! 敵を!

 怒気に威圧されて動けなかったアリエルの身体が思い出したように奮起する。


 この3メートル近い身長、500キロはあろうかというベアーグの戦士に向かって、再び上段に構え、自らの気で威圧を押し返した。


 そして『爆裂』!


―― ドッゴ!


 ベアーグの顔面近くで炸裂する。だが近い、アリエルもダメージを受けたが、お構いなしに飛び込み、三手の連撃を加えた。


 更に剣の間合いから離れると『爆裂』を撃ち込み、続けて二手の連撃、アリエルが今持てる手の内を総動員して攻め立てる。だけどすべての攻撃は、ただの一撃もこの獣人に届くことはなかった。


 ベアーグの戦士は『爆裂』を避けられないと知るや、避けようともせず敢えて受けることで、アリエルの剣撃のほうに集中し、そのすべてを受けてみせた。


 息が上がって呼吸すらままならない。肩で息をする身体をなんとか抑えて呼吸を整えながら、デキの良くない脳ミソをフル回転させてこのベアーグを倒すための方策を練っている。


 まずは一つよくないお知らせがある。いまの『爆裂』で、『ストレージ』に収納していた『爆裂』が無くなってしまった。今後は目の前で『ファイアボール』を作ってから撃たないといけないので今までのように使い勝手よく次々とは展開できなくなった。


 それと、そもそも相手は一歩も動いていないのだから地面を砂にしたところで意味がない。

 そして、更によくないことだが、いま気づいた事が2つある。


 アリエルが考えていたよりも、狭く制限された建物内での戦闘は苦手だということがよく分かった。『爆裂』は開けた場所じゃないと使えない。あとこんなに狭い室内じゃ『スケイト』で移動するスピードのアドバンテージも薄くなって、ただ足を止めて打ち合うのと同じだ。


 加えて脳筋パワー型との戦闘も苦手だった。


「くっそ、勝てるヴィジョンがまったく見えない……」


 歯噛みするアリエル。


「ほう、いい気だ。委縮したと思っていたが、克服して前に出るか小僧。……いいだろう名乗ってやる。俺はエーギル・グライゾル。誇り高きドーラ・ベアーグの族長、おまえらヒト族に奪われたノーデンリヒト奪還を命じられたドーラ軍の将校だ」


 ベアーグの族長……、なるほど、ドーラのベアーグの中では最強クラスってことか。

 ではこちらも名乗りを上げたベアーグに応えるのが礼儀だ。


「俺はこの砦の守備隊長トリトン・ベルセリウスの長男、アリエル・ベルセリウスだ……。エーギル・クライゾル! お前を倒して、みんなを無事に帰してもらう」


「フン!」


 話してる間に呼吸を整えた。簡略化したルーティーンを組み立てて上段に構えてみせたが、このベアーグは剣を構えるまでもなく、ただ口元に笑みを浮かべているように見える。


 この、アンドリューさんとアランさんを殺しておいて、なお笑うか!


―― ウオオオオォ!


 強化魔法をこれでもかと乗せて加速、瞬時に連撃、三連撃と激しく打ち込んだアリエルだったが、体重が軽いこともあって、その全てを軽く受けられてしまった。焦りが焦りを呼び、攻撃は迂闊さを誘発する。渾身の打ち込みを躱されてバランスを崩した時でもエーギルは攻撃をしてこない。


 アリエルは明らかに手加減しているエーギルに苛立った。


「な、舐めるな!」


 エーギルは苛立ちと共に返した。

「おいおい、お前こそ舐めるなよ! 子供ガキのくせに……。お前たちの世代にまでこんなくだらねえ争いを広げるなんてしたくねーんだ。殺しあうのは俺たちだけで十分なんだよ!」


 一瞬、アリエルは呆気にとられた。

 何を言ってるんだこの獣人は? ……戦いたくないと言ってるのか?……と。



―― ゴッ!!


 刹那の間、動きを止めてしまったスキを突かれ、顎から頭を突き抜ける衝撃を感じた。

 なんのことはない、拳で、ただゲンコツで殴られただけだ。


 ただ殴られただけという攻撃をまともに受けてアリエルは砦の外にフッ飛ばされ、7回転、8回転と、派手に転がった。だけどすぐさま回転レシーブのようなローリングで立ち上がり、落とした剣を拾いに駆け寄る……だけど、足がもつれて転倒してしまう。思ったように足が動かずたたらを踏む。


 もしかしてこれが足にくるということかと、混乱する脳でなんとなく理解し始める。


 ヨロヨロとジグザグに歩きながら、なんとか剣を落としたところまでたどり着き、拾い上げた。ふう、呼吸を整えないと。鼻血が出てる。他にもあちこちから出血しているようだ。


 口の中は鉄とアドレナリンの味しかしない。

「ああ、これは血の味か」


 砦の中から次々と獣人たちが出て来はじめた。どんどん増える。送り狼を出す気か。

 こいつはマズい、皆疲れてて強化魔法が切れてる兵もいるのに……。


 外に出たのをいいことに大きめの[爆裂]を練り上げて、今出てきた獣人たちに狙いを定める。

 頭がクラクラして視点も定まらないが、この距離なら……。


「もう追わんでいいぞ! 追撃はナシだ!」


 砦の中からエーギルはアリエルを見ながら、左手で『帰れ帰れ』のジェスチャーをしている。その横からはちょっと前にブッ叩いて捕虜にした猫の獣人がニヤニヤしながら手を振っているのが見えた。


(なんだあの野郎)


 南門のすぐそばまでアリエルを迎えに来ていたトリトンは、吹っ飛ばされて砦から出てきた息子を見て少し心配そうな顔をしていたが、エーギルの仕草を見て、もう戦闘はないと判断したのか少し安心したように言った。


「アリエル。生存者はみんな出たはずだから、もう戦わんでいい」


「…………」


 聞こえていないのか、鼻息荒く、歯を食いしばってまだ闘争の意思を微塵も失っていないアリエルの耳元で、トリトンは繰り返した。


「おい!アリエル! 帰るぞ。俺たちはしんがりをつとめる」


アリエルがまだ砦の中の獣人の長に対する戦闘姿勢を解いてないことをたしなめて、トリトンは息子の肩に手を触れた。


「アリエル! 大丈夫か、帰るぞ。さあ!」

 ハッと気が付いたアリエル。トリトンの顔をみて自分が何をしようとしていたのか分からなくなった。


「あ、は、はい……。」



―― ドオッゴオォォォォ!


 今練り上げたばかりの[爆裂]を天に向けて打ち上げ、その爆発音を撤退の合図とし、アリエルはエーギルを一瞥したあと振り返ってトリトンとともに撤退する兵士たちのしんがりについた。



「…………」


 しばらく無言で撤退の列に付き従う。

 敗戦? よりも、やはり目の前で親しい二人を失ったのがこたえた。


「父さん……」

 アリエルの呼びかけにトリトンは前を向いたまま答えた。


「なんだ?」

「…………アンドリューさんも、アランおじさんも俺を助けようとして死んだんだ」

 

「そうか……でも今は助かった命のことを喜ぼう」

「…………」


 もう何も語る言葉がなかった。エーギル・クライゾルは強かった。考えていたよりもずっと。


 夕焼けから闇に変わるグラデーションの空。藍色に変化した空に少し赤くなった雲が浮かんでいる。


 まるで駅から出てきた、家路を急ぐサラリーマンのように、疲れてヘトヘトになった身体を引きずりながら南へくだる。心なしか、下を向いて歩いてる兵士が多い。


 兵士たちは口々に、命があっただけ幸運だった、命があっただけマシ、命があっただけ、命があっただけと、まるで自分に言い聞かせる呪文のように唱えている。


 大勢の仲間が死んでしまって、戦友の亡骸も残したまま逃げてきたんだ。そうでもしないとメンタルが維持できないのだろうか。


 120人が死んで、守るべきものも奪われ、敗走してきた兵士には、そういう心の支えが大切だろうし、どうせ折れた心に、次は勝って取り戻すぞ! というギプスを嵌めてまた剣を振り上げるのだろう。


 アリエルは思った。

 兵士なんていう、しんどい生き方はできない。

 騎士なんていう、誰かに忠誠を誓うとか、そんな窮屈な生き方もできない。


 母さんとの約束もある。もう戦争なんてまっぴらごめんだと。


 アリエルたちは夕闇の駆け降りる逢魔が時の闇に紛れてトライトニア方面に撤退することに成功した。



----


 一方、トリトンたちが撤退した砦ではドーラの魔族軍が、接収した砦の中、自分たちのものにするため、戦闘の後始末をしていた。


 アリエルが戦闘に介入したせいで、ずいぶんと予定が狂ってしまったドーラ軍の将校、エーギル・クライゾルは南門の外側に配置してあった送り狼、いやもとい、ウェルフ族の戦士たちが働いておらず、けっきょく総隊長を任されたエーギルが追撃しなくていいという命令も届かず、報告も上がってこなかった。


 代わりにすぐ傍らにいたネコの獣人、カッツェ族の男が報告する。


「報告します隊長、南で待ち伏せていたウェルフ200のうち、130が戦死。生き残った70の戦士も、ほとんどすべてが重軽傷者だそうですぜ?」


「ウソだろおい? ベストラは何をしていた?」


 ベストラというのはウェルフ族最強の戦士で、アリエルとの一騎打ちに敗れたせいで全体に動揺が広がり、ベストラ隊の全滅に繋がった。


「軽症者の証言では、あのガキひとりにいいようにやられたって言ってますが……」


「はあ? だからベストラは何をしてい? ベストラを呼べ、直接報告を聞きたい」

「いやそれが、あのガキと一騎打ちになって、負けたらしいですヨ」


「なんだと? あのベストラがか!! 相手がガキだからって手加減してんじゃ……イテテテ、大声を出させるな、あのガキ、ムカつくな、アバラに響く……」


 脇腹を抑え、しんどそうに咳をし、唾を吐くと血が多く混ざっている。

 胃から食道あたりを傷つけられたか、最悪の場合、折れたアバラが胃腸を突き破っている可能性もある重篤な症状だ。

 それでもエーギルは強い視線を向けて報告を求めた。


「えっと、ベストラ隊長は戦死しました。間違いないです、俺がこの目で遺体を確認しました……。ところで、クライゾル隊長は大丈夫ですかネ、血ぃ吐いてましたけど……」


「アバラが何本かもっていかれたが大丈夫だ。そんなことより……あのベストラが負けた? 嘘だろオイ。あのガキ、高速戦闘ではフランシスコやロザリンドより上ってことか……。剣を受けた感じだと二人にやや劣ると思ったが、あの魔法かクッソ、まさかベストラを倒すようなガキだったとはな。……おいコレー、お前あの小僧に手を振ってたな? 知ってんのか?」


「ああ、はい、実は前にちょっとだけ、会って絡んだことがあったんでさあ。敵じゃなければよかったのになと思うぐらいには可愛いガキなんですよ。あいつは」


「おいおい、ベストラ含め130の戦士が倒されたんだぜ? 見ろよ、残ったやつらも命からがらじゃねえか。……可愛いなんてもんじゃねえぞオイ」



 その夜、ノーデンリヒト戦で緒戦を制し、勝利を喜ぶはずの宴は、特に南側を攻めていたべストラ率いるウェルフ隊の被害の大きさに加えて、ウェルフ最強の戦士べストラが倒されたこともあってか、かなりしょっぱいものとなった。


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