第九話
富雄は強く腰を打って、その場で動けなくなっていた。
宝生が携帯を取り出す。
「俺だ、坂下。至急車を回せ、場所は若葉商店街の豆腐屋『東雲』だ」
宝生は心配のために半べそをかいている聡子の肩に、そっと手を置いた。
「大丈夫だから、そんな顔すんな。救急車よりも俺の車で運んだ方が早い。さあ、お母さんも、聡子さんも今のうちにはやく着替えて」
的確に指示をする宝生を聡子は感慨深げに見やった。
こんなことになってもあくまで宝生は動じない。冷静かつ沈着に淡々と最善を為してゆく。普段があまりにも素でアレな人だから見落としてしまうのだけれど、こういう局面できちんと対処ができるというのは、宝生はやっぱり凄腕の経営者なんだと聡子は痛感した。
3分後、店の前に黒塗りベンツが到着した。
「っていうか本当に早っ!」
かろうじて着替えを済ませた聡子が思わずツッコむ。
「おう、一応近辺に俺のSPを配備してあったんだ。これでも宝生グループを背負う社長業だからな。その辺の警戒は万全だ」
宝生が富雄を担ぎ、後部座席に座らせた。
「うちの系列ですが、少々腕の立つ医師がおりまして、融通も利くのでそこにお運びします」
宝生が女将に説明する。富雄の横に、女将と聡子が座った。富雄は腰が痛むと見えて、顔を顰めて冷や汗をかいている。
「坂下、宝生青葉病院まで頼む」
「わかりました」
坂下と呼ばれたサングラスをかけた黒服の男が運転席で頷いた。車を走らせる間に、助手席に座った宝生が病院と話をつけている。
「ああ、患者は腰を強く打っている。受け入れ態勢を万全に。それから七階の特別室を用意しておいてくれ」
宝生青葉病病院は宝生グループが運営する総合病院だ。
病院に到着すると、既に医師や看護師たちが、玄関前の駐車場にストレッチャーを待機させていた。
「すぐにレントゲンを撮りますので、ご家族の方はこちらでお待ちください」
看護師にそう告げられ、案内されたのは七階の特別室だった。
「っていうか一体どこの高級ホテル?」
聡子が部屋を見まわし、生唾を飲んだ。
重厚感のある深い緑色のドレーブカーテン。部屋の真ん中にはドカンとダブルベッドが居を構える カーテンと同じ織で作られた、多分オーダーメイドなソファーにはそれと同じ織のクッションが二つ置かれてあった。
控え目なノックの後で、事務の制服を着たお姉さんが紅茶を持ってきてくれた。
「紅茶には心を落ち着かせる作用がある。お母さんも、聡子さんもどうぞ」
きりきりと胃が締め上げられるように、空気が重い。口の中がカラカラに乾いて苦くて仕方なかったが、聡子は父が心配で、申し訳ないけどとてもお茶をいただく気にはなれなかった。
宝生が優雅な手つきで茶を注ぐ。ロイヤルコペンハーゲンのブルーフラワーのティーカップだ。
「ほら、飲め」
そう言って宝生が、聡子にカップを差し出す。
「どうも」
聡子はカップを受け取ろうとしたが、その指先が震えていた。
しばらくすると、ノックとともに、白衣を着た医者らしき人物と、ストレッチャーに乗って運ばれてきた富雄が入ってきた。
「失礼いたします。検査の結果、特に骨や神経に損傷は見当たりませんでした」
そう告げる医師の言葉に、三人三様にほっと息をつき、女将に至っては気が抜けてその場にヘタり込んでしまっている。
「ただ強く腰を打っているので、念の為ニ、三日入院していただいて様子を見ます。その間はできるだけ安静にしていてください」
富雄はストレッチャーから自力で降りて、部屋に置かれたダブルベッドに横になった。顔色もだいぶ良くなり、もう心配はなさそうだった。
「お父ちゃんよかった~」
聡子はベッドに近寄り富雄の手を握る。握り返してくれた富雄の手は、昔から変わらない優しい温かさだった。
「おーい、聡子。一応この部屋のことお前に説明しておくな」
そういって宝生が聡子に声をかけた。
「奥にキッチンがあるから、そこに冷蔵庫もあるし、バス、トイレも完備だ。なにか足りないものがあったら俺に言え」
宝生が部屋の説明をしてくれるのだが、聡子はなんだかだんだん不安になってきた。
「しゃ……社長、こんな立派なお部屋って……その……お金が」
「お前は俺が、女に金を払わせるような、そんなケチな男とでも思っているのか?」
心外とでも言いたげに、宝生が鼻を鳴らす。
「いえ、でも……悪いです」
愁傷気に下を向いた聡子を見て、宝生が意地わるく微笑んだ。
「出世払いにしてやる」
「ひっ……返済に一体何年かかるのでしょうか」
言われて、聡子は心底おっかなかった。
「ばーか、冗談だよ。これは俺のおごり、っていうか贈り物なんだよ。ご両親への。あっちなみに結納は別に用意するから、また日を改めて」
(どさくさに紛れて、今なんかとんでもない発言をしなかったか? この人)
聡子の思考回路が混乱する。
「あの……途中からちょっと意味がわからなかったのですが、一体何のお話をされているのでしょうか? 社長」
なぜだか宝生は顔を真っ赤にして、くるりと後ろを向いた。
「ああ、もういいっ! お前と話していると調子が狂う」
(相変わらず変な社長だ)
聡子は意味がわからず、不思議そうな顔をした。
すると女将が二人の背後に突っ立って、なにかモジモジとしている。
「宝生さん、色々とありがとうございました。それで……あの……実は主人が宝生さんにお話しがあるっていうもんで」
「ほう、私に。お義父さんが」
宝生が富雄のベッドに向かう。
「宝生さん、私実は宝生さんを男と見込んで頼みたいことが」
富雄がそう切り出すと、宝生がぎゅっと富雄の手を握り、顔を輝かせた。
「ええ、ええ、お義父さんわかっていますよ。娘さんはこの僕が必ず幸せにいたします」
女将が歓喜のあまり、きゃーっと叫んでソファーに突っ伏した。
「いえ、そうではなくて、野球」
「ああ、そういえば『寿ファイターズ』との試合が明日でしたね」
ぽんと宝生が手を打った。
「そうなんです。私の代わりに宝生さんに出て貰えませんかね」
富雄が真摯な眼差しで宝生を見つめた。
「わかりました。その代わり、勝利の暁には娘さんを僕に下さい!」
宝生はきらきらと光る瞳を富雄に向けた。
「ぶっ」
聡子は口に含んだ紅茶を、思わず口から噴き出してしまったのだった。