第十三話
割れたコップはプーさんのイラストが描かれた聡子のお気に入りだった。プーさんの顔に罅がはいって、まるで泣いているような顔に見えた。
目の前の男の言った言葉がうまく理解できなくて、聡子はどこかぼんやりとした思考のままに床に散らばった破片を片していると、指を切ってしまった。
「痛ったあ」
思わず呟くと、指先に鮮血が盛り上がっている。
「見せてみろ」
黒髪の男が聡子の手を取り、指を舐めた。
聡子の全身に戦慄が走る。しかし抗うことすらできない。鴉の不吉な羽のような髪から覗く、闇色の瞳に魅入られて、聡子は瞬きひとつできないのだ。
そんな聡子を一瞥し、男が低く嗤う。
「俺が恐いか?」
そう、恐いのだ。今まで感じたことのない、得体の知れない恐怖を聡子はこの男に感じるのだ。聡子は恐怖に屈してしまいそうになる己を叱咤し、その手を振り払って後ずさるのだが、壁際に追い詰められ、手首を掴まれる。
闇色の美しいけど空虚な瞳が、じっと聡子を見つめる。
「東雲聡子、宝生グループ関西支社の窓際OLにして、宝生グループ総帥、宝生彰の想い人……か」
触れるほど近くに男の顔がある。吐息が顔にかかるくらいの距離で、聡子は顔を顰めて身体を捩る。
「前半はその通りです。しかし後半は大きく間違っていますよ?」
聡子はようやくのことで声を絞り出した。
「はあ? 私が宝生社長の想い人だと? なにそれ? ちゃんちゃら笑っちゃいますよ。しかもへそでお茶が沸きます。宝生社長はあれでも日本屈指の財閥の総帥で、私はただの窓際の三流OLなんですってば。なにをどうすればそんな愉快な話になるのかがわかりません」
聡子は全身全霊でその言葉を打ち消したのだが、なぜだか胸が痛んだ。瞼裏にあまりにも鮮やかに蘇る金髪の面影が、わけもなく切なくて、なんだか泣きたい気持ちになった。
「いや、間違ってなどいないのだよ」
ひどく落ちついた様子で淡々と告げるその声色に、なぜだか聡子の胸がトクンと高鳴った。
車のエンジン音が店の前でとまった。
「どうやら、迎えが来たようだ。ご同行願おうか? レディー」
差し出された手を聡子は払いのける。
「嫌です。絶対嫌! 飴玉貰ったって一緒に行くもんか」
そう言って聡子は必死の抵抗を試みたが、黒尽くめの屈強な男が三人ほど部屋に入り込んできて、白いハンカチを口に宛がわれ、そこで意識が途切れた。
◇ ◇ ◇
「もう、こうなるんだったら、最初から聡子姉に頼めばよかったんだよ」
新之助が鼻を膨らます。
「だけどよう、富雄の大将が倒れて大変なんじゃねえのか? 聡子ちゃん」
梅さんはなんだか申し訳なさそうな表情で、考え込むように腕を組んだ。
「っていうか、こっちもすでに非常事態だっつうの。富雄さんは別に命に別状があるわけでもないんだし、そもそも明日負けちまったら商店街がなくなっちまうんだぞ。聡子姉も話せばきっとわかってくれるよ」
商店街の野球チーム『ボロ勝ち』のユニフォームを着たままで、金髪とちびっことおっさんが三人が、商店街の豆腐屋『東雲』の前に佇む。
宝生が店の奥の和室の引き戸を開ける。
「お~い、聡子~? 聡子さ~ん」
家の中はシンと静まり返ったままだった。
「あれ? 病院かな」
宝生はきょろきょろと部屋の中を見回す。
部屋の奥に割れたコップの破片がそのままであった。
宝生の背中に戦慄が走る。
「聡子!」
宝生が狂ったようにその名を叫んで、夕闇に染まる商店街を走り抜けた。
◇ ◇ ◇
覚醒しきらない意識の中で、水音がしていた。やわらかく温かいこの場所は一体どこなんだろう……。ゆっくりと聡子の瞳が開かれ、思考回路がストップする。
「だから、ここはどこ?」
あまりに現実離れしたこの状況に、聡子は軽く怒りさえ込み上げてくる。
巨大なベッドにはたくさんのクッションが置かれ、半ばそのクッションに埋もれるようにして聡子は眠っていたのだった。むっくりと起き上がり、聡子は周りを見回した。やわらかで温かいと感じたのは、この超高級布団の所為だったのだと合点する。黒を基調とした豪奢でおしゃれな部屋なのだが、どこか冷たく、寂しい感じがした。
(ここはどこかのホテルなのだろうか、それともマンションの一室なのだろうか)
聡子はふらつく足取りで窓辺に向かう。ブラインドの隙間から宝石をちりばめたような夜景が広がっていた。車が渋滞して長蛇の列を作っている。おそらく人の往来の多さから察するに市内の中心地に位置するのであろう。
「やっと起きたか」
タオルで髪の水滴を拭いながら、黒髪の男が佇んでいた。ゆったりとした濃紺の綿のズボンに上半身は裸のままで、ミネラルウォーターのペットボトルを手にもっている。
「ひっ」
見慣れぬ若い男の半裸に、聡子は怯んでしまう。
「あの……ここはどこですか?」
「俺の別宅だ。ちょっとお前と話がしたくてな」
「話、ですか? 話をするためにわざわざ薬で眠らせて、こんなところに連れてくる必要が? その辺のカフェで充分でしょうに」
聡子の声色にそこはかとない怒りが籠る。
「誰にも邪魔されたくなかったものでね。あれはあんたに惚れている。どんな手を使ってでもあんたを探し出すだろうよ」
「あなたもしつこいですね。それはとんだ誤解ですって何度言ったらわかるのですか?」
いい加減苛立ってくる。
「違わないさ。宝生は三年前のあんたの入社試験の日以来、ずっとあんたのことを想い続けている」
「三年前?」
聡子は鸚鵡返しに呟いた。




