第十二話
黒髪の美丈夫を、とりあえず店の奥の和室に引っ張り上げて、聡子は途方に暮れていた。
「どうしよう……警察に連絡したほうがいいんやろうか?」
黒髪の男の眉毛が微かに動き、ゆっくりと瞳を開いた。ぼんやりと霞む視界の先に聡子の姿を認め、
「み……水を……」
男の唇が苦し気に開いた。
「あっ、はい」
聡子が台所で水を汲んで、男に渡した。水を受け取り、男がうっとりと聡子を見つめて呟いた。
「人魚姫」
「は? 誰が魚類だと?」
冷水を飲んで、男の目はようやく生気を取り戻した。
「いかん、いかん。二日酔いの辛さのあまりとんでもない幻を垣間見てしまったよ」
そういって黒髪男は軽く頭を振った。
(そいつは一体どんな愉快な幻だよ)
聡子は男に思いっきり突っ込みたい衝動に駆られたが、そこはなんとか大人としての理性で我慢した。
男は全身黒尽くめで、やたらと高そうなシルバーアクセを身につけている。聡子は男に密かにセフィロスとあだ名を付けた。セーターは手触りからすると、おそらくカシミヤだろう。ノーメイクでビジュアル系のロックバンドのボーカルがつとまりそうな美貌の人なのだが、どうやらこの人にもあまり近づいてはいけないと、聡子のなかでひどく警鐘が鳴っていた。
「あなた、店の前で倒れていたんですよ。覚えていますか?」
聡子が恐る恐る、男に尋ねた。
「そうか……堤防でなんか野球の練習を見ていて、それでその後、この商店街に立ち寄ったのだったな。車を待たせて歩いている最中に意識を失ってしまったんだっけ」
まだどこかぼんやりとした表情で、男が言った。
「ああ、商店街の野球チームの練習を見てこられたのですね。みんなとっても上手いんですよ」
聡子がにっこりと笑って、男を振り返えると、男は氷の微笑を浮かべた。
「ああ、でも明日にはなくなる。野球チームもこの商店街も」
この男の言っていることがわからない。
「はい? あなた一体何をいっているんですか?」
男から受け取った硝子のコップが、聡子の手から落ちた。
◇ ◇ ◇
「新之助、な~にむくれてんだ」
商店街の寿司屋『すし善』の大将の梅さんが、なんとか新之助を宥めようと新之助の隣に腰かけた。厳つい体格に、発達したアゴ。握り鉢巻きを額に締めた梅さんは、まるで『ど根性ガエルの梅さん』みたいな顔をしているのだが、頭にちらほらと白髪がまじり、胡麻塩になっている。
「みんな、嘘つきだ」
吐き捨てるように新之助が呟いた。
梅さんの大きくて骨ばった手が、無言のままに新之助の肩に置かれると、ビクッと震えて、新之助がその手を払いのけた。
「離せやい! 梅さんだってそうだ。なんでダケさんを止めてくれなかったんだよ! この商店街が無くなっちまうんだぞ! みんなが大切だったこの場所が……父ちゃんが大好きだったこの場所が……」
新之助の瞳から涙が盛り上がり、とめどなく流れた。
若さとは、時にあまりにも残酷であると梅さんは思う。わかっているのだ。誰もがそれを嫌というほどわかっていて、それでも苦渋の決断を迫られる。抗うことの出来ない時代の波に翻弄され、潮の間に漂う小舟のような自分たちに一体なにができるというのだ。
「じゃあ、一体どうすればいい?」
梅さんが新之助に問う。それは静かな口調だった。
「なんで戦わないんだよ! ここは俺たちの場所だって、なんで命がけで戦って守ろうとしないんだよ! 」
新之助も商店街が不利な状態であることはわかっている。だけどたとえ相手が大型スーパーだったとしても戦いもせずに諦めることは納得がいかない。大手企業からみれば自分たちひとりひとりは、ちっぽけな蟻みたいな存在かもしれない。だけどみんなで心を一つにして立ち向かえば、きっと道は開ける。それは新之助の切なる願いなのかもしれない。
「父ちゃんがいたら……、父ちゃんならきっと……」
新之助が泣きながら、梅さんの襟首を掴み揺さぶる。
涙で滲む視界の先に、新之助は亡き父の頼もしい背中を思う。父がいたなら、きっとこの状況に否と言ってくれたはずだ。そして、この商店街を、身体を張って守ってくれたはずだ。
「はっはっは~! その通りだ少年。『諦めてはそこで試合終了だよ』と、安西先生も三井君に言っただろう?」
その声に新之助の心臓がトクンと鳴った。涙で霞む背番号十八番が、在りし日の父の姿に重なる。
「父ちゃん……」
新之助が呟いた。
金髪が新之助の顔を覗きこむ。
「生憎俺は君のお父さんではないが、特別に君の『憧れのお兄さんカテゴリー』になら入れてくれてもかまわないぞ」
アメジストのような不思議な色の瞳が優しさに滲み、その指先が新之助の涙を拭った。
「要は明日の試合に勝ちゃあいいわけだ」
そういって金髪が自信満々に笑うのを、梅さんはきょとんとした顔をして見つめた。
(馬鹿か、こいつは。新之助は子供だ。だけどなんで大人のこいつはこの状況で諦めない? チームの誰もが、もう明日の試合を勝とうなんて思っちゃいない。『寿』の持ってきた条件には、俺たちの新しく建設されるスーパーへの出店も認められている。『寿』の傘下に収まるのは癪だが、生き残って生活を守るには決して悪い条件じゃねえ)
そう思って、梅さんはもう一度自問する。
――――本当ニ ソウ カ?――――
「さあ、ぼーっとしてないで練習しようぜ。よっしゃー! 明日は何が何んでも絶対勝つぞ!」
宝生はベンチに置いてあったグローブを取り、意気揚々とマウンドに向かう。
梅さんはそんな宝生を目を細めてじっと見つめた。
(まったく不思議な男だ。この商店街のメンバーでもないこの男が、他人の俺たちのためにこんなに必死になっている。この男を見ているとなぜだかその根拠のない自信に、ふと未来を賭けてみたい気持ちにすらなる)
梅さんはキャッチャーマスクを被った。
「そうかい、なら投げてみなよ」
宝生にボールを放ってよこす。
「ふっ」
一陣の風が吹き抜け、宝生は笑った。
セットポジションから、放たれる剛速球……なのだが……?
ガッシャーン!
派手な音を立てて、ボールは梅さんの後ろの金網に食い込んで回転している。
「ノ……ノーコン」
「殺人ボール」
梅さんと新之助が同時に口を開いた。
「うわ~ん。散々かっこいいこと言っておいて……期待しちまったじゃねえか。脱げ、今すぐそのユニフォームを脱いで、父ちゃんに謝れ~」
自棄を起こした新之助が暴れて、梅さんに取り押さえられる。
「無理~、こんなんじゃ絶対負けるし」
哀れ、新之助の悲痛な叫びが夕闇に染まりゆく、球場に空しくこだました。




