第十一話
「なに? 九時とな」
東雲家二階の客用羽布団の中で、金髪が目覚めた。急な階段を派手な音を立てて転がるように降りると、そこに聡子の姿があった。
「あっと、ユニフォームここに置いておきますね。父の着ていたヤツだとちょっと小さいかなと思って、自治会長さんのところで大き目のユニフォームを借りてきました」
ユニフォームにはきちんとアイロンが当たっていて、ハンガーーに吊るしてあった。黒地に左肩だけが赤い。ズボンは白で細身の赤のラインが入っている。
「背番号十八番って、ひょっとしてエース……ナンバー?」
宝生が呟くと、聡子がその横に立ち懐かしそうに目を細めた。エースナンバーのゼッケンにそっと触れる。
「そのユニフォームは特別なんです。米屋の上田さん……本当にすごい投手だったんですよ」
「だった……とは? っていうか、やべぇ時間ねぇし」
宝生が服を脱ぐと、その上に聡子が『ボロ勝ち』のユニフォームを着せかけた。
(この人には、このゼッケンを背負うに足りる度量がある)
なぜなのかはわからないが、聡子にはそんな確信めいた予感があった。
「ごはん食べてる時間がないだろうなって思ったから、在り合わせのものだけどお弁当に詰めておきました」
そういって包みを渡すと、宝生はにっこりと微笑んだ。
「サンキュ」
スパイクを履いて駆けだし様に、宝生は聡子を振り返り大きく手をふる。
「ほんと、子供みたいな人ね」
そう呟いて、思わず聡子も微笑んだ。
「さあ、私もお父さんの着替えを病院に届けなきゃ……」
届けなきゃって……、そう言って伸びをしたときだ。
視界になにやら蠢くものがある。
店の前に置いてある大きなゴミ箱の横。
「っていうか、人?」
聡子がそっと覗きこむ。
(ひいい、黒髪のとっても綺麗なお兄さんが行き倒れていますぅ――――)
◇ ◇ ◇
「すみません。遅れてしまいました」
宝生が走りながら、メンバーに謝ろうと帽子をとった。確か試合は明日のはず。しかしそこにはユニフォームを着た『寿ファイターズ』のメンバーがいる。宝生は人垣をこえて、背伸びをした。
「さあさ、ほんならこの書面に実印を押してね」
見覚えのある男が、ダケさんに書類を手渡している。
(あの男たしか寿コンツェルンの営業マンで、名を二宮といったか)
「あの……一体なにが?」
『ボロ勝ち』のメンバーに事の詳細を聞いて、宝生が柳眉を顰めた。口約束だけならば、そんなのは勝手に反故すればいい。だがしかし既に書面を交わし、あまつさえ実印を押したのだという。書類の内容は見ていないが『寿』のことだ。そこに手抜かりはないだろう。
「それでは明日の試合が楽しみですなあ。なあに、私たちだって何もただで商店街の立ち退きを迫るつもりは、ありません。それ相応のものは支払わせていただくつもりですので、ご心配なく」
二宮がひらひらと掌を振って背を向けた。
「あいつら……」
だぼだぼのユニフォームを着た少年が、さも悔し気に『寿ファイターズ』のメンバーを睨みつけていた。
「ダケさん!」
宝生が咎めるようにダケさんを呼び止めた。
「ああ、金髪の兄ちゃん」
ダケさんは寂しそうに笑って肩をすくめた。メンバーから少し離れた土手の上を一緒に歩きながら、宝生はダケさんの真意を問う。
帽子を脱いだダケさんは、ロマンスグレーのなかなかの美男だ。年のころなら六十を少し超えたところか、薄く筋肉のついた理想的な体をしている。魚屋の大将として培った粋な性格と人情。飲み屋に行ったらさぞモテるであろうが、本人曰く下戸なのだそうな。そんなダケさんが、今日はしょんぼりと肩を落としている。
「今回のことは、別に売り言葉に買い言葉で、衝動的にやってしもうたことやないねん。わしらもここが引き際かなって、本当はもうずっと思っていた」
ダケさんは雲ひとつない秋晴れの空を、眩しそうに目を細めて見つめている。
「近年の大型スーパーやショッピングモールの進出で、わしらの商店街に来てくれるお客さんも激減した。寂れた商店街の店を継ぐという、物好きな後継者なんているはずもなく、うちも息子も『早く店をたたんでしまえ』って矢の催促や。『寿』は、やり方はともかくそれでも金はきっちり払ってくれるつもりでおる。悪い条件やないんやで」
土手の土の上に腰をおろし、ダケさんは膝を抱いた。そんな仕草にだけさんがいつもよりなんだか頼りなくて小さく見えた。
「お店を処分して、それからどうするんですか?」
宝生がそう問うと、
「息子夫婦が暮らすマンションを買って、毎日孫の顔を見て……そんな幸せもあるよ。古き良き時代にしがみつくだけが幸せじゃあない」
ダケさんはまるで自分に言い聞かせているようだった。
宝生の瞼裏に聡子の面影が過った。聡子に泣かれる気がした。どんな高価なプレゼントをやっても、聡子はきっと喜ばない。たとえ近代型の億ションをプレゼントしたところで、聡子は笑わない。それでは意味がないと宝生は思った。宝生が見たいのは聡子の心からの笑顔だった。
そして気付く。店を手放してしまったなら、きっとダケさんも笑えなくなるのだと。富雄も女将も、きっともう笑わない。
泣きたいと思うほどに優しく温かかった人との触れ合いが、もう永遠に損なわれてしまうのだ。
「俺は嫌ですよ。聡子が泣きますからね。惚れた女を泣かせるつもりはない。どんな手を使ってでも俺は絶対に勝ちますから」
土を払って立ちあがり、金髪が笑った。




