立ち止まる場所
トルカの門が見えたとき。
最初に足を止めたのは、セラだった。
「……戻ってきた」
旅立ったときと、町並みは何も変わっていない。
門の前を荷馬車が通り、少し離れた畑では誰かが土を耕している。冒険者らしい一団が笑いながら町へ入り、門番がいつものように声をかけていた。
何週間も離れていたのに。
ここだけ時間が止まっていたように見える。
「セラ」
ハヤトが隣へ並ぶ。
「緊張してる?」
「ちょっと」
「マーナさんに?」
「本、借りたままだったし」
「返しに来る理由になるって言われてたじゃん」
「そうなんだけど」
セラは鞄へ手を当てた。
中には、旅の間に何度も開いた古い治療記録が入っている。
最初に借りたときより。
少しだけ角が柔らかくなっていた。
「行こ」
レグが二人を追い越す。
「ディンいるかな」
「そっちが先なんだ」
「弓見せる」
「先に宿じゃない?」
セラが聞くと、レグは止まった。
「……荷物置く」
「よし」
クロはその横を当然のように歩いている。
ハヤトは町を見た。
追っていたものは、もうない。
レグの父親も見つかった。
北東の仕組みも、全部ではないにしろ動き始めた。
今度は。
何かに追われてここへ来たわけではなかった。
「行くか」
「うん」
三人と一匹は。
トルカの門をくぐった。
◇
マーナは、治療室にいた。
以前と同じ。
袖を肘まで上げ、年配の男の腕へ包帯を巻いている。
「そこ、今日は濡らすんじゃないよ」
「分かってるって」
「前もそう言って濡らしただろ」
「……気をつけます」
「最初からそう言いな」
セラが入口で立ち止まる。
マーナはまだ気づかない。
患者を送り出し、使った道具を片づけて。
ようやく顔を上げた。
「次――」
声が止まる。
「……あら」
「戻りました」
セラが少しだけ笑った。
マーナはしばらく彼女を見る。
それから。
「遅かったね」
「すみません」
「謝るところじゃないよ」
以前と同じ口調だった。
セラの肩から、見て分かるほど力が抜ける。
「本」
「持ってます」
「読んだ?」
「何回も」
「分からないところは?」
「いっぱいあります」
「なら返すには早いね」
「え?」
セラが目を瞬く。
マーナは笑った。
「続きをやるんだろ?」
少しの間。
セラは何も言わなかった。
そして。
「はい」
はっきり答えた。
「やりたいです」
「なら明日から来な」
「今日じゃないんですか?」
「旅帰りに働こうとするんじゃないよ。今日は休む」
ハヤトが横で吹き出した。
「セラも言われてる」
「うるさい」
「いつも俺が言われる側だからさ」
マーナがハヤトを見る。
「そっちは?」
「俺も少し教わってみたいんですけど」
「治癒?」
「はい」
セラが横から口を挟む。
「使えることは使えるんです。でも、知識は全然です」
「セラより?」
「多分かなり下」
「多分じゃなくて下」
「即答?」
マーナは二人を見比べ。
「いいよ」
「本当に?」
「ただし」
指を一本立てる。
「使えるからって、勝手に治すのは禁止」
「……それ、最近すごく聞きます」
「なら覚えるの早そうだね」
◇
ギルドへ行けば。
ディンもいた。
「お」
レグを見る。
「帰ったのか」
「うん」
「弓は?」
「持ってる」
「見せてみろ」
挨拶より先に訓練場へ連れていかれた。
「レグ嬉しそう」
セラが笑う。
「分かりやすいな」
しばらくして。
十本。
レグが矢を放つ。
以前より。
明らかにまとまっていた。
全てが的に当たるわけではない。
外す。
端に刺さる。
それでも。
中央近くへ入った矢が三本。
「旅の間もやってたな?」
ディンが聞く。
「うん」
「誰かに習った?」
「自分で。あと、追い払うのに使った」
「獣を?」
「殺さないで」
ディンが少し笑う。
「そうか」
「上手くなった?」
「なった」
レグの顔が明るくなる。
「でもまだ下手だ」
「うん」
「そこは認めるんだな」
「知ってる」
「なら続けろ」
「やる」
即答だった。
◇
最後にベルドを訪ねた。
ハヤトが訓練場へ入るなり。
木剣が飛んできた。
「うわっ!」
慌てて横へ避ける。
木剣が地面へ落ちた。
「何するんですか!」
「避けたな」
ベルドが腕を組んでいる。
「そりゃ避けますよ!」
「前なら受けようとしてた」
言われて。
ハヤトも止まった。
「あ」
「旅先で続けたか」
「まあ」
「なら構えろ」
「今!?」
「戻ってきたんだろ」
「旅帰りなんですけど!」
「動けない?」
「動けます」
「ならやる」
容赦がない。
少し離れたところで、セラが笑っている。
「休めって止めてよ!」
「本人が動けるって言ったから」
「そこだけ聞く!?」
レグはすでにディンのところへ戻ろうとしている。
「頑張って」
「置いてくの?」
「弓やる」
クロまでレグについていった。
「味方いないんだけど!」
「早くしろ」
「はい!」
ハヤトは木剣を拾った。
◇
トルカへ戻って三日。
宿を取るだけのつもりだったが。
「長くいるなら、こっちの方が安いよ」
宿の主人にそう言われ。
町の外れにある小さな貸家を見ることになった。
古いが。
手入れはされている。
居間。
小さな台所。
寝室が三つ。
裏には少しだけ庭もある。
「クロもいける」
レグが真っ先に庭を見る。
クロはすでに匂いを嗅いで回っていた。
「三部屋か」
ハヤトが呟く。
セラが横から見る。
「ちょうどいいね」
「何が?」
「ハヤト。私。レグ」
「ああ。そういうことね」
「何だと思ったの?」
「何も」
「顔」
「最近みんな顔読むの上手くない?」
レグが家の中から顔を出す。
「ここがいい」
「即決?」
「台所ある」
「そこ?」
「みんなで食べられる」
それを聞いて。
ハヤトとセラは少し黙った。
宿ではない。
旅の途中に数日泊まるだけでもない。
しばらく。
ここから朝出て。
夕方に戻る。
「借りる?」
セラが聞く。
ハヤトは家を見る。
「俺はいいと思う」
「私も」
二人でレグを見る。
「レグも」
「じゃあ決まり」
◇
その日の夕方。
最低限の荷物を運び込んだ。
家具もほとんどない。
食器も足りない。
寝具は明日買うものもある。
それでも。
レグは居間の床へ座り。
トルにもらった木彫りの鳥を、窓際へ置いた。
その隣に。
ガルドからもらった木札。
ルクアの白い飾り。
「飾るの?」
セラが聞く。
「うん」
「全部持ってきたもんね」
「見ると分かる」
「何が?」
レグは並べたものを順番に指す。
「帰るところ」
ソルド。
竜の谷。
そして。
今いる場所。
「ここも?」
ハヤトが聞いた。
レグは少し考えた。
「まだ分からない」
「そっか」
「でも」
居間を見る。
クロ。
セラ。
ハヤト。
「なるかも」
ハヤトは笑った。
「それくらいでいいんじゃない?」
「うん」
◇
夜。
最初の食事は簡単だった。
買ってきたパン。
肉と野菜のスープ。
セラが作ったものに、ハヤトが少し手を出し。
「そこ違う」
「何が?」
「切り方」
「食べたら同じじゃない?」
「火の通り方変わる」
「料理も専門家いるな……」
「セラ、火得意」
レグが当然のように言う。
「魔術の話じゃないからね」
それでも。
温かい食事が並ぶ。
三人で食べる。
クロは足元。
特別なことは何もない。
ハヤトはふと。
前の世界を思い出した。
仕事を終えて。
遅い時間に一人で帰り。
次の日も同じ場所へ向かっていた頃。
あのとき。
自由になりたいと思っていた。
何にも縛られず。
好きな場所へ行って。
好きなことをする。
それが自由だと思っていた。
「ハヤト?」
セラの声で戻る。
「何?」
「止まってた」
「ちょっと考えてた」
「何を?」
ハヤトは二人を見る。
「自由って、立ち止まってもいいんだなって」
セラが少し目を丸くする。
レグはパンを食べながら言った。
「当たり前」
「そうなの?」
「行きたいなら行く。いたいならいる」
「……シンプルだな」
「うん」
でも。
多分それが一番近かった。
◇
翌朝。
窓から光が入る。
ハヤトが起きると、台所から音がした。
セラが先に起きている。
「おはよう」
「おはよう」
「レグは?」
「まだ寝てる」
「珍しいな」
「昨日遅くまで飾り動かしてたから」
ハヤトは水を飲み。
窓を開けた。
トルカの朝。
遠くで荷馬車の音。
誰かの声。
鳥。
普通の町。
「今日は?」
セラが聞く。
「午前ベルド。午後マーナさんのところ行っていい?」
「いいよ。私は一日マーナさん」
「夜は?」
「帰ってくる」
その答えに。
ハヤトは少し笑った。
「俺も」
セラも笑う。
旅をやめたわけではない。
ずっとここにいると決めたわけでもない。
明日。
一か月後。
その先。
また行きたい場所ができれば、出ていく。
それでも今は。
ここにいたい。
自分で選んで。
ここへ戻ってくる。
奥の部屋から。
「おなかすいた」
レグの声がした。
「起きたな」
「朝ごはん作る?」
セラが聞く。
「手伝う」
「切り方ちゃんとね」
「昨日のまだ言う?」
レグが寝ぼけた顔で居間へ出てくる。
クロもその後ろ。
新しい一日が始まる。
知らない場所へ向かわない朝も。
悪くなかった。




