第1話 もう我慢するのはやめた
「神崎。悪いんだけど、これ今日中に頼める?」
午後八時四十二分。
帰り支度をしていた神崎ハヤトは、机の上に置かれた書類の束を見て、それから上司の顔を見た。
「今日中、ですか?」
「うん。俺も頼まれたばっかでさ。悪いね」
悪いと思っている顔ではなかった。
ハヤトは一瞬だけスマートフォンを見る。
大学時代の友人たちとの飲み会は九時開始。久しぶりに全員の予定が合ったからと、二か月前から決まっていたものだ。
画面にはすでにメッセージが来ていた。
『ハヤト間に合いそう?』
指が返信欄の上で止まる。
断ればいい。
今日は無理です、と言えばいい。
自分の仕事は終わっているのだから。
「……分かりました」
結局、口から出たのはいつもの言葉だった。
三時間後。
終電間際の電車に揺られながら、ハヤトは友人たちから送られてきた楽しそうな写真を眺めていた。
誰かを恨むほどのことじゃない。
会社が地獄というほどでもないし、給料だって普通にもらえている。
ただ――。
「俺、これ何回やってんだろ」
小さく呟いて、スマートフォンを伏せた。
行きたい店があっても、他人が別の店を希望すれば合わせる。
休みたい時でも、人手が足りないと言われれば出る。
何か言われても、「まあいいか」で流す。
二十九年間。
そうやって生きてきた。
別に後悔しているわけじゃない。
ただ最近、ふと思うことが増えた。
俺はいつ、自分のやりたいことを選んだ?
電車がトンネルに入る。
車窓が真っ暗になり、ハヤトは目を閉じた。
そのまま数秒。
次に目を開けた時――。
「……は?」
電車が消えていた。
座席も、吊り革も、乗客もいない。
頭上には巨大な木々。
湿った土の匂い。
聞いたことのない鳥の鳴き声。
そして足元には、会社帰りの革靴。
「…………いやいやいや」
疲れている。
そう思った。
かなり疲れている。
だから夢でも見ているのだろう。
ハヤトはポケットからスマートフォンを取り出した。
圏外。
時刻表示は午前零時十三分のまま変わらない。
地図も開かない。
何度再起動しても同じだった。
「マジかよ……」
頬をつねった。
痛い。
十分ほど歩いてもビルどころか電柱すら見つからない。
代わりに見つけたのは、自分の太腿ほどもある巨大なキノコだった。
さらにその十分後。
茂みから姿を現した生き物を見て、ハヤトはようやく認めた。
灰色の毛。
犬ほどの体格。
額から伸びた一本の角。
少なくとも、動物園で見られる生物ではない。
「……異世界?」
角の生えた獣が低く唸った。
ハヤトはその場で固まる。
ゲームなら戦うところだ。
だが自分はただの会社員。
剣も魔法も持っていない。
「いや、無理無理無理……!」
獣が地面を蹴った瞬間、ハヤトは全力で逃げた。
枝をかき分け、革靴を泥まみれにしながら走る。
後ろから足音が迫る。
「転移特典とか先に寄越せよ!」
叫んでも何も起きなかった。
ところが森を抜けた瞬間。
「伏せろ!」
怒鳴り声が飛ぶ。
反射的に身体を沈めると、頭上を一本の矢が通過した。
短い悲鳴。
振り返ると、先ほどの獣の首に矢が突き刺さっている。
街道に停まった馬車。
その横に立っていた革鎧姿の男が、弓を下ろした。
「大丈夫か?」
「……たぶん」
ハヤトはその場に座り込んだ。
男の後ろから、髭を生やした中年の商人らしき人物が顔を出す。
「その格好……どこの人間だ?」
「それを俺も知りたいです」
二人が顔を見合わせた。
それから約一時間後。
ハヤトは馬車の荷台に座っていた。
事情を話したところで、当然ながら誰も日本など知らない。
代わりに分かったことは三つ。
ここはアルディア王国。
近くにラーデンという街がある。
そして、魔法は本当に存在する。
護衛の男が掌に小さな火を灯した時には、さすがに声が出なかった。
「すげえ……」
「火種の魔法くらい珍しくもないぞ」
珍しい。
俺の世界じゃ大事件だ。
馬車の向こうに、巨大な石壁が見えてくる。
その先には赤や青の屋根が並び、見たこともないほど巨大な鳥が空を横切っていった。
異世界。
本当に来てしまったらしい。
仕事もない。
家もない。
金もない。
知り合いなんて一人もいない。
普通なら絶望するところなのかもしれない。
なのに。
ハヤトの胸に最初に浮かんだ感情は、少し違った。
会社に連絡しなくていい。
明日の予定を確認しなくていい。
誰かの顔色をうかがう必要もない。
誰も自分を知らない。
ここなら――。
「……好きにしていいのか」
何気なく漏らした言葉に、商人が振り返った。
「何か言ったか?」
「いえ」
ハヤトは街を見た。
二度目の人生と呼べるのかは分からない。
けれど、もし本当にここで生きることになるのなら。
今度くらい。
「もう我慢するの、やめるか」
誰に聞かせるでもなく、そう決めた。




