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1-88.酔っ払いごっこ

 協会・休憩スペース。


 静かな午後。

 珍しく穏やかな時間が流れていた。


 雫はソファに座り、資料を読んでいる。


 そこへ――

 とてとてと歩いてくる足音。


「しずくおねえちゃぁん……」


 間延びした声。


 雫が顔を上げる。


 綾芽がいた。

 片手に――紙パックのいちご牛乳。

 ストロー付き。


 頬がほんのり赤い。


 いや、違う。

 これは演技だ。


「……どうしたの?」


 綾芽はふらっとテーブルに手をつき、

 大きく息を吐いた。


「ぼくだってさぁ……」


 間。


「魔法少女になりたいんですよぉ……」


「え?」


「わかりますかぁ、しずくおねえちゃん……」


 ストローをちゅーっと吸う。


「男の子だから、なれないんですよぉ……」


 肩を落とす。


「まったくもう……」


 一拍。


「うぅ……ひっく!」


 雫、瞬きをする。


(いま、“ひっく”って言った?)


 いちご牛乳で?


 綾芽はそのまま、よろよろと隣に座った。


 距離が近い。


「ところでぇ……」


 雫が少し身構える。


「しずくおねえちゃぁん……」


「なに?」


 ぐいっと顔を覗き込む。


「彼氏とかぁ……恋人とかぁ……」


 一拍。


「好きな人、いないんですかぁ?」


 雫、固まる。


「え……?」


 止まらない。


「しずくおねえちゃんと、いっしょにいたーい……」


 袖を軽く掴まれる。

 子供の手。


 なのに言ってることがおかしい。


「どんな人が好みなんですかっ!」


 急に声が大きい。


「年下とか、何歳まで大丈夫ですか!」


 雫の思考が追いつかない。


「ぼくなんか、大丈夫ですか!」


「え、えぇ!?」


 思わず声が裏返る。


 綾芽は真剣な顔で頷いた。


「ぼく、がんばりますよぉ……」


 ストローを吸う。


 ちゅー。


「……いちご味です」


「知ってる!」


 雫はなんとか体勢を立て直す。


「えっと……綾芽くん?」


「はいぃ?」


「それ、誰に教わったの……?」


「テレビです……」


 妙に説得力がある。


 雫は小さく息を吸う。


(落ち着いて答えればいいのよ)


「私はね――」


 その瞬間。


 綾芽の視線が、ふっと雫の後ろに向いた。


 固まる。


 一秒。


 二秒。


「うわっ……やべっ」


 酔いが消えた。

 声も普通。


 椅子からぴょんっと立ち上がる。


 雫が振り返る。


 遠くの廊下。

 主任の姿。

 こちらに向かっている。


「じゃっ!」


 小声。


「失礼します!」


 とててててっ。


 全力で逃走。


 速い。


 さっきまでの酔っ払いはどこへ。


 途中で振り返る。


 小さく手を振って、


「しずくおねえちゃーん!」


 雫、まだ固まっている。


「また遊んでくださいねー!」


 そのまま角を曲がって消えた。


 静寂。


 数秒後。


 主任がやってくる。


「……いまの、綾芽か?」


 雫はゆっくり瞬きをした。


「……はい」


「何してた」


 間。


 雫は答えられなかった。


 頭の中が、まだ追いついていない。


 主任が首をかしげる。


「……?」


 雫は視線を落とす。


 テーブルの上。


 飲みかけのいちご牛乳。


 ぽつん。


 さっきまで嵐だったみたいに、

 周囲だけ静かだ。


 雫は小さく息を吐いた。


 そして、ようやく思う。


(……なに、あれ)


 胸の奥が、少しだけ騒がしい。


 資料の文字が、全然頭に入ってこない。


 ページをめくる手が止まる。


 しばらくして。


 ぽつり。


「……遊ぶって、なにを……?」


 誰に聞くでもなく、呟いた。


 答える人は、もういない。

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