第一章1 『珈琲の香り』
「どうして、こんなことに……誰か……」
何も聞こえない。呼吸が乱れる度に絶望的に冷たい空気が喉を痛めた。全身を駆け回る錆びた鉄のにおいが鼻を歪める。目に映る惨状が無残にもシェリーに現実だと伝えた。
──幸せは簡単に崩れるのだ。
◇◇◇
背中に背負っている鹿は完全に冷たくなっていた。首に空いた穴も血で固まり、自然の力を改めて実感する。
……鼻に血の香りが微かに纏う。昔は大嫌いだったにおい。匂いと表したくないようなにおい。命を奪ったことを実感させるにおい。
シェリーは昔から鼻が効いた。いや、鼻に限らず五感に優れていた。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚全てが人一倍敏感である。狩人として恵まれた能力はシェリー本人にとってはいらない能力だった。
獲物が死んだ瞬間を鮮明に映す瞳、獲物の最期の声を正確に拾う耳、殺した獲物から漂ってくる死臭、調理した獲物の味を一生忘れない舌、獲物を捌く際に手に伝わってくる全ての感覚、気持ち悪くて仕方がない。
でも、狩人として生きていくしかないのだ。
この残酷で美しい世界で幸せに暮らすには何かを捧げなければいけないのだから。
◇◇◇
「ただいま」
シェリーは年季が入った木製の扉を引いて開けた。結構ガタが来ているのか、ギィィと耳にあまりよくない音が上がる。
「おかえり、シェリー」
暖炉で暖かい部屋の中で編み物をしていたのはシェリーの血の繋がっていない母親であるシャンディだ。クローバーの姓は彼女の実家のものである。
「今日は大物取ってきたよ」
「ありがとうね、後で捌くのをお願いね」
「うん」
シェリーとシャンディは調理担当をしっかりと決めていた。シェリーは肉や魚の処理と保存、シャンディはそれ以外。負担は圧倒的にシャンディの方が多いが、狩りにシェリーが出ることでお互い平等に負担を背負っている。
◇◇◇
「シャンディさん、何か飲む?」
「ウォッカを一杯」
「昼から飲むな」
「……じゃあ、シェリーと同じの」
「わかった」
鹿の解体を終えたシェリーは着替えてリビングでくつろぐシャンディに聞いた。ひと仕事終えた後のコーヒーはシェリーの日課である。
ブラックは苦手なので砂糖とクリームを少々。多すぎると甘くなりすぎてしまうので絶妙なバランスが美味しいコーヒーを淹れるコツだ。
「……あれ?シャンディさん、豆ってまだ残ってる?」
「いや、そこにあるのが最後だね」
「じゃあ、明日買ってくるよ。あと数日で無くなりそう」
「本当?お願いしてもいい?後でお金渡すから」
余った分で好きな物買ってきな、とシャンディが付け加える。
「オシャレとかしたい年頃でしょ?」
「そりゃしたいけどさ……したところでよ」
血のにおいが付いて離れない自分にいい服を着せるべきではない。そう自分を評価しているシェリーにシャンディが否定の語を述べる。
「カシスとはいい感じのくせに」
と、シャンディは突然にシェリーと同い年の青年の名を挙げた。高齢化が進むこのパトリアの村で唯一の同い年の二人は結構仲がいい。
「ま、待って、何でそこにカシスが出てくんの!?」
「シェリーわかりやすいからさ」
シェリーはカシスに寄せる密かな恋心が親にバレていたことにテンパりつつも否定を試みる。
「別に、カシスとはそんな関係じゃ──」
「恋愛マスターのこの私に見抜けぬ恋はない」
「じゃあ、早く結婚しなよ」
「……言うようになったじゃないか」
そんなやり取りをしつつ、コーヒーを淹れ終えたシェリーはシャンディの元へカップを二杯持っていき、彼女のそばで膝をつく。
シャンディはシェリーが調節したコーヒーを一杯飲んでこう言う。
「……シェリー、将来はコーヒー淹れ師になってみない?」
「道せっま!え、カフェのマスターとかじゃなくて!?」
冗談よ冗談、とシャンディは微笑んでもう一杯口にする。
「あなたは、器用だから極めれば道は広いわよ。たぶん、直接的な英雄じゃないにしろ、誰かの役には経つのかもね」
「シャンディさん……」
そんな時だった。つまらないニュースを垂れ流していた白黒のテレビが突如番組を変えた。こちらからは操作していないのでテレビ局が行ったのだ。
[オリオーにて、共産党のクルーガー・バーク氏が遺体として発見されました。遺体は全身が酷く焼かれていて、持ち物で判別をされたとのことです。警察はこれをジゼルの仕業として見ています]
「ジゼル……」
シャンディがまたか、と呆れた溜息を含めてそう呟く。それは、ジゼルという単語が出てきたからだ。
この国、ヴェルグランは十年前の事件で時間が止まった。
王家惨殺事件。当時、絶対王政国であったヴェルグランの王家がジゼルという集団に惨殺された事件だ。
この事件を機に王国は崩落し、全てが変わった。未だに政権が安定しないヴェルグランは他国からこう揶揄される。
『法のない国』
その事件の主犯であるジゼルの首にはS級の賞金が掛けられているが、未だに彼らの足跡は掴めていない。
当時、財政の不安定さから子を捨てた親も少なくはなかった。その子の一人がシェリーである。




