第1話:ごちゃまぜファミリー、始動
第1話:ごちゃまぜファミリー、始動
1
朝の光が差し込むリビングには、静けさではなく、かすかな悲鳴と焦燥感が満ちていた。
「ステラ、その服は裏返しだ。ルチア、魔法学園の提出書類はどこへやった? ミシェル、お願いだから靴下を口に入れないでおくれ……!」
宮廷医師ダニエル・エルランドは、鏡の前で娘の髪を結いながら、片手で分厚い医療手帳をめくっていた。シルバーフレームの眼鏡が、鼻筋からツルリと滑り落ちそうになる。
妻のセレーナが事故でこの世を去ってから、三ヶ月。
王宮での執務を終えて帰宅し、幼い三人の娘を風呂に入れ、食事をとらせ、寝かしつける。深夜、静まり返った家の中で一人、妻の残した衣類が収められたクローゼットを前に、ダニエルは一度もそれを開けることができずにいた。
(……限界、か)
胃のあたりに走る鈍い痛みを、自作のハーブ薬で散らす。宮廷医師としての責任。父親としての責任。どちらも完璧にこなさなければならない。自分が倒れることなど、絶対に許されないのだから。
そのとき、玄関のドアが「ドカン!」と激しい音を立てて開いた。
「やあダニー! 今日から君の家事負担を七割カットしに来た男、ジョシュア・ギアハート騎士団副官だ! 文句は受け付けないぞ!」
「うわ、なにこれ!? おじちゃん、なにかすごい大きな箱持ってる!」
次女のステラが目を輝かせて駆け寄る。爽やかな笑顔で土足のまま踏み込んできたジョシュアは、腕に抱えた怪しげな真鍮製の機械を掲げていた。
「これは我が隊の技術班に作らせた『全自動・卵割り&目玉焼きマシーン試作一号』だ! これさえあれば朝食の準備は——」
「ジョシュア。靴を脱げ。それと、その怪しい鉄くずを今すぐ我が家の敷地外へ撤去しろ」
ダニエルの冷徹な声が飛ぶ。しかしジョシュアは「つれないなあ」と笑いながら靴を脱ぎ、さっそく台所へ向かった。そして、生卵をパックから取り出そうとして——ツルリと手を滑らせた。
「おっと」
「あー! たまごが!」
パカッと床で弾ける黄身。ジョシュアは騎士団仕込みの超絶的な反射神経を発揮し、靴の先でそれをキャッチしようとして——余計に床一面へ飛散させた。
「……ジョシュア・ギアハート。衛生管理の観点から言わせてもらうが」
「待てダニー! 事故だ! これは不可抗力だ!」
頭を抱えるダニエルの背後で、今度は重厚な足音が響いた。影がリビングを覆う。見上げるほどの大男が、巨大な革袋を背負って立っていた。
「……邪魔するぞ」
義弟であり、Sランクを目指すハンターのジェラルド・ヴァルハイトだった。長髪を後ろで束ね、黒革の鎧を纏った男は、部屋を見回すとボソリと言った。
「しばらくここに住む。……狩りの訓練にもなる」
「ジェラルド、お前まで……。ここは狩場ではない、我が家だ」
「同じだ。……お前、顔色が悪い」
ジェラルドは背中の巨大な荷物をドスンと床に置いた。家全体が揺れる。その荷物の影から、三女のミシェルがとてとてと歩み寄り、ジェラルドの太ももに抱きついた。
「おっきいおじちゃん! たかい、たかいして!」
「……む」
外では『死神』と恐れられる巨漢のハンターが、不器用に身をかがめ、ゴツゴツした手でそっとミシェルを持ち上げた。ミシェルがキャッキャと声をあげて笑う。
「見ろダニー、ミシェルも喜んでる! 賑やかでいいじゃないか!」
ジョシュアが床の生卵を雑巾で拭きながら(そしてさらに引き伸ばしながら)親指を立てる。
賑やか、どころではない。ダニエルはこめかみを強く押さえた。だが、彼らが自分を心配して押し掛けてきたことくらい、分かっていた。
2
「わたし、お料理手伝う!」
事件は、ダニエルが王宮からの緊急要請で、小一時間ほど書斎に籠もらざるを得なくなった時に起きた。
ジョシュアが床の清掃(という名の二次被害)に追われている隙を突いて、七歳のステラが台所の椅子に飛び乗ったのだ。
「ステラ、ダメだよ! お父様に怒られるよ!」
長女のルチアが止めに入るが、聞き分けのない妹は聞く耳を持たない。
「大丈夫! ジョシュアおじちゃんが卵ダメにしちゃったから、わたしがすごいお肉料理作るの! ミシェルも食べるでしょ?」
「にーく! にーく!」
ミシェルが万歳して応援する。
そこへ、庭で刃物の手入れを終えたジェラルドがやってきた。彼はステラの意気込みを見るなり、無言で腰の袋から何かを取り出した。
「……肉なら、これを使え」
「ちょっとジェラルド!? それ今日仕留めてきたばっかりの角猪の塊肉じゃない!?」
戻ってきたジョシュアが叫んだ時には、すでに遅かった。ステラは笑顔で、その人の顔ほどもある巨大な肉塊を、なみなみと油を注いだ大鍋にドボンと投入したのである。
ジュワァァァァァッ!!
「きゃあ!?」
猛烈な勢いで跳ね飛ぶ高温の油。
「熱っ!? 待て、水だ! 水をかけろ!」
パニックになったジョシュアが水バケツを構えた瞬間、ジェラルドの怒号が飛んだ。
「馬鹿者! 油に水をかけるな!!」
だが、時すでに遅し。跳ねた油が魔導コンロの種火に引火し、一気に炎が天井まで吹き上がった。黒煙が台所を包み込む。
「きゃああああん!」ステラとルチアの悲鳴、ミシェルのギャン泣き。
「何事だ!?」
書斎から飛んできたダニエルが見たのは、地獄絵図だった。
「ダニー、下がってろ!」
ジェラルドが身を乗り出し、着ていた厚手の外套を脱ぎ捨てると、炎の上がる鍋へ一気にかぶせて空気を遮断した。一瞬遅れて、ジョシュアが娘たち全員を両腕に抱え上げ、部屋の外へ退避させる。
ポンッ!!
不完全燃焼を起こした鍋の蓋が、銃声のような音を立てて弾け飛び、天井に深々と突き刺さった。
3
しん、と静まり返るリビング。換気魔法で黒煙こそ薄れたものの、台所は惨状を極めていた。壁は煤け、天井には鍋の蓋が突き刺さり、床には謎の焦げた物体が転がっている。
その中心で、ステラが膝を抱えて号泣していた。
「ごめんなさい……! わたし、お手伝いしようとしたの……お家、壊しちゃって……ごめんなさい……!」
ルチアも不安そうにダニエルの顔を見上げている。ジョシュアは青ざめた顔で「すまんダニー、俺が目を離したせいだ」と頭を下げ、ジェラルドも気まずそうに目を逸らした。
ダニエルは、無言でステラに近づいた。
(叱らなければならない。危険な火を扱ったことを、厳しく教え込まなければ——)
そう思いながら、ダニエルは膝をついた。そして、差し出した腕で、泣きじゃくるステラの小さな身体を、折れんばかりに強く抱きしめた。
「……ダニー、パパ……?」
「よかった……」
ダニエルの声が、微かに震えていた。眼鏡の奥の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ケガはないか? どこも熱くないか?……よかった。神様、ありがとうございます……」
妻を亡くしたあの日の光景が、一瞬だけダニエルの脳裏をよぎっていた。もう二度と、大切な家族を失いたくない。家などいくらでも建て直せる。だが、この温もりだけは、絶対に失うわけにはいかないのだ。
「ごめんなさい……パパ、ごめんなさい……!」
ステラはダニエルの首に強く抱きつき、声を上げて泣いた。ミシェルも、ルチアも寄り添い、ダニエルは三人まとめて愛おしそうに抱きしめた。
その様子を、ジョシュアとジェラルドは静かに見守っていた。
「……ダニー」
ジョシュアが、ぽつりと呟いた。
「一人で背負うなよ。俺たちは、そのためにここに居るんだ」
ジェラルドも、無骨な手でダニエルの肩をぽんと叩いた。
「……火消しなら、俺が得意だ」
ダニエルはゆっくりと顔を上げ、呆れたように、けれど心底救われたような溜息を吐いた。
「……二人とも。明日から我が家の防犯および火災対策マニュアルを全面的に改訂する。覚悟しておけ」
「へいへい、名医様」
その時、くぅぅ、と可愛らしい音が響いた。ミシェルがお腹を押さえて、泣き顔のままニカッと笑う。
「ミシェル、おなか減った!」
惨状を極めた台所で、ジェラルドが焦げた鍋の蓋をひょいと持ち上げた。中から、真っ黒に焦げた……しかし、どこか香ばしい匂いを放つ肉塊が現れる。
「……削れば、食える」
「食えるか! 表面全部炭だろそれ!」
ジョシュアが即座に突っ込み、ルチアとステラが思わず吹き出した。
ダニエルは頭を押さえながら、妻の遺品がある奥の部屋をそっと振り返った。
セレーナ。君のいないこの家は、今日からとんでもなく騒がしくなりそうだ。
けれど——止まっていた我が家の時計が、確かに動き始めた音がした。




