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三日後にあなたがいなくても

 和季は握り込んでいた手を開く。手の中にあるのは、あのマグネットだ。手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。

 これを渡せば、白瀬はきっと喜んでくれる。

 白瀬のことだ。絶対に恥ずかしがって受け取りたがらないに決まっている。いらないと言っても押しつけよう。

 笑ってくれるかもしれない。

 その笑顔を何度想像しただろう。

 恥ずかしそうに微笑む。

 笑顔を堪えて、下を向く。

 耳だけが赤くなっている。

 それとも、ポーカーフェイスを貫く。

 そんな想像を何度繰り返しただろう。すでに、想像の中ではなく本当にあったことのように頭の中に思い描ける。

 きっと、白瀬は目を開く。

 そして、和季に笑いかけてくれる。

 閉じたままの白瀬の頬にそっと触れる。

 和季は立ち上がる。

 何度も何度もシミュレートした。

 人工呼吸器、そのモニターがついた機械の方に手を伸ばす。本来ならただお見舞いに来ただけの和季が触れていいものではない。

 今の白瀬は、この機械に生かされている。であれば、逆もまたあるのだ。この機械を止めれば、白瀬は死に至る。

 当たり前の事に気付いたとき、和季は震えた。

 たったそれだけ。

 たったそれだけで、望みが叶う、かもしれない。

 確率は、低い。

 それでも、ただ、白瀬に会いたい。

 なんて単純な願いだろう。

 白瀬の両親は、もう一つの奇跡に賭けた。

 そして、和季は。

 タッチパネルを操作する。操作の仕方はネットで調べた。

 白瀬の顔から機器を取り外してしまえば、警報が鳴る。そうすれば、すぐにスタッフの誰かが駆けつけてしまう。

 警報の音を最小限にする。そして、鳴った瞬間に音を止める。院内がざわついているときに実行する。

 やってはいけないことだとわかっている。

 まだ指はタッチパネルに触れていない。

 白瀬の顔を見る。

 タッチパネルに触れる。操作できたことに安堵する。

 そのままの勢いで、白瀬の顔を覆うマスクに手を掛ける。指が白瀬の頬に触れる。

 温かい。

 初めてだった。

 こんなにも白瀬を見てきたのに。

 触れたのは初めてだった。

 生きている。

 白瀬は今、生きている。

 手が止まる。

 こんなことは、やめよう。

 間違っている。

 少し赤みがある白瀬の頬を、そっと撫でる。彼女はただ眠っているように見える。ここで止めれば、まだ長い眠りが続くだけだ。

 一体それは、あと何年続くのだろう。

 本当に彼女は苦しんでいないのか。

 こんな状況を打破して欲しいと彼女自身が願っていたら、それをどう伝えられるのだろう。

 どんなに考えたところで、和季にはわからない。そしてそれは、自分に対しての言い訳にしかならない。

 彼女の両親は、悲しむだろう。

 胸が痛まないと言ったら嘘になる。

 けれど、それは和季を止める理由にはならない。

 マスクを、外す。

 久しぶりに見た素のままの白瀬の顔を見ていたくなるが、急いで鳴りだしたアラームを止める。

 白瀬の顔に自分の顔を近付ける。

 呼吸の音は無い。

 安堵する。

 もしも自発呼吸があったら、白瀬は死ねない。

 死ねなければ、生き返りになることも出来ない。

 首を絞める。

 刺し殺す。

 色々考えたが、白瀬に傷を付けるようなことはしたくなかった。生き返りになれば傷は消える。それでも、彼女には綺麗なままでいて欲しかった。

 部屋の外のざわめきが、全て和季を責めている気がした。

 誰かの話す声が、足音が、何かの機器を運んでいる音が、全てこちらへ向かってくるような錯覚を起こす。

 事実、アラームを止めても誰かが気付くかもしれない。

 ベッドの傍らに置かれた心電図の波が、直線へと近付いていく。和季は白瀬の鼓動が静かに止まっていくことを、ただ祈った。

 やがて、波が直線になる。静かに。

 もうすぐだ。

 もうすぐ。

 誰かが廊下を走っている。走ってくる。足音が近付く。

 うるさい。

 もうすぐ彼女が目を開くのに。

 ドアが開いた。

 看護師だ。

 廊下に向かって何か叫んでいる。

 白衣を着た医師が入ってくる。

 彼女に触れようとする。

 弾けるように和季の身体が動いた。


「何をするんだ!」


 医師が驚いたような声を上げる。

 彼は、彼女を蘇生させようとしている。

 羽交い締めにする。

 医師が暴れる。

 看護師が、何かよくわからない大声を上げながら和季を引き離そうとする。

 人が集ってくるような、足音がする。

 すぐ近くにいる人間が、何を叫んでいるのかわからないのに、感覚だけは研ぎ澄まされている。


「どうしたの? 何を騒いでいるの?」


 不意に、忘れるはずのない声がした。

 幻聴かと思った。

 信じていた。

 少しだけ疑っていた。

 奇跡は、手の届くところに、本当にあるのか。


「萩本君?」


 懐かしい声が、和季の名前を呼んだ。

 確かに、その声を聞いた。

 その声は、和季の名前を呼んだ。

 奇跡は今、ここにある。

 和季は顔を上げる。

 ずっと待ち望んでいた笑顔が。

 夢に見た、彼女の姿が。

 目の前に、あった。


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