待ち人来たる
入り口にふと影が差した。また、散歩中の人でも迷い込んだのかと顔を上げる。珍しく若い女性だ。平日の昼間だからか、これまではお年寄りの方が多かった。
彼女はつかつかと受付に向かって歩いてくる。今までに来た人たちとは、なんだか様子が違う。
「あのっ、坂田さんですか?」
「え?」
和季に向かって突然聞かれて一瞬何と答えればいいのかわからなくなる。よほど慌てて来たのか、息を切らしている。
「ち、違います。坂田さんはこの方です」
和季は隣に座っている坂田を示す。
「あ、す、すみませんっ。私、慌てて」
女性はぺこぺこと頭を下げてくる。そして、坂田に向き直る。
「あ、あの。ええと、SNSで見て、坂田さんが生き返ったって知って……。その、伝えたくて、坂田さんの絵が好きだと伝えたくて来ました。リプで書き込もうかと思ったんですが、それじゃ足りない気がして、もう直接来ようと思って」
女性の顔は和季から見てもわかるくらいに緊張している。
坂田は坂田で、一言も発さずにただぽかんと女性を見ている。
「あの、あの……、ええと、高校生の頃に坂田さんの絵を見てなんだか救われたような気分になったんです。わたしの心の中みたいで。坂田さんの描かれる街が」
今言ってしまわないと、もう二度と伝えられないと彼女は知っている。だから、一生懸命声を振り絞って、勇気を振り絞っているのだとわかった。なんとなくだが、話し方が坂田に似ているなとも思った。描いた絵を好きになってくれる人は、描いた本人と似ているものなのだろうか。
「ええと、何言ってるんでしょう、私。えっと、とにかく、坂田さんの絵が大好きです!」
そこまで言って、彼女は下を向いてしまった。
「あれ?」
横から声がして振り向くといつの間に帰ってきたのか白瀬が立っていた。目の前の光景に目を奪われていて気付かなかった。
「萩本君、まさか本当に友達呼んだ? ファンの役をやって欲しいとか言って」
「そんなことしてませんよ」
ひそひそと小声で言い合う。白瀬に言われたから思いとどまったのに、誤解されているのは心外だ。
小声で無くとも、坂田と女性にはお互いしか見えていないように見える。和季たちの会話なんか耳に入っていなさそうだ。
女性が顔を上げる。
「ごめんなさい。いきなり、こんな。迷惑ですよね。でも、好きなんです。伝えたかったんです」
「……いえ」
ようやく発された坂田の声は、震えていた。
「すごく、嬉しいです。ありがとうございます」
坂田の声に涙が混じる。それは抑えきれないように、堰を切ったように彼の中から流れ出す。部屋の中に泣き声が響く。
そんな坂田を驚いた顔で見つめていた女性の表情がくしゃりと崩れた。そして、坂田と同じように泣き出す。
「萩本君」
映画ならすごくいい場面であろうところなのに、白瀬に名前を呼ばれる。そして、白瀬は突然和季に向かって手を合わせた。
「ごめん! 誤解だったみたい」
「え、あ、あの」
急に謝られて和季の方が狼狽えてしまう。目の前の場面との落差がすごい。年上の女性に、しかも仕事の先輩に、こんな風に謝られるとどう反応していいのかわからない。
「朝あんなこと言ってたからもしかしてと思っちゃって。疑ったりして申し訳ない」
「……そんな」
真っ直ぐに見つめられると、さっきまで本当に呼ぶつもりだったとは言い出しにくい。
白瀬は号泣している二人を見て、嬉しそうに微笑む。和季に向かって頭を下げたことなど、白瀬にとってはなんでもなさそうだ。
「やっぱり、いたじゃない。坂田さんのファン」
呟く白瀬を見て、いい人だなと思った。
ひとしきり泣いた後、女性は一度お手洗いに行くと言って行ってしまった。
坂田はひどい顔のまま、あの新しい絵の前に立っていた。
女性は戻ってくると坂田の方へ向かって軽く頭を下げた後、展示してある絵をゆっくりと見始めた。坂田は少女の様子を緊張した面持ちで見守っている。
自分の絵を観て回っている女性を見つめる坂田の顔は幸せそうだ。彼は、涙でひどい顔をしていることなんか全く気にしていない。そんなことよりずっと、今起こった出来事が嬉しくて堪らないに違いない。
「よかった。本当に」
和季のすぐ隣で、小さく独り言のように白瀬が言った。横目でちらりと白瀬を見る。彼女は目を細めて、坂田の幸せそうな顔を見つめている。
嘘なんか吐かなくてよかった。




