明日には彼はいない
金曜日の午後なのがプラスに働いたのだろうか。坂田の展示を見に来たのはさっきの女性だけではなかった。昨日は告知したばかりで、さらになんでもない平日というのが足を運ぶハードルを上げていたのかもしれない。
「会社、早退して来ました」
「いつも見てます」
「前から見てました」
来てくれた人数が多いわけではない。和季も数回は美術館に足を運んだことがある。有名な画家の展示だったというのもあるのだろうが、これほど閑散としてはいなかった。
でも、きっと人数なんてどうだっていい。訪れた人たちは躊躇いがちに坂田に話し掛ける。少女の時のように号泣したりはしなかったが、坂田は一人一人に驚いた顔で答えていた。よほど、誰にも認められていないと思っていたのかもしれない。
「ありがとうございます」
坂田はただ、その言葉を繰り返す。それ以外の言葉なんか持たないように。思いつきもしないといった様子で。
「大丈夫ですか?」
あまりに上気した顔で足取りもおぼつかない様子の坂田が心配になったのか、白瀬が声を掛ける。
「びっくりしてしまって。……今までこんな風に声を掛けられたことなかったんです。だから、本当は僕の絵なんて誰も見ていないと思っていて。こんな……」
「坂田さんのファンはみんなシャイだったんですね。きっと本当は話し掛けたくて、でもなかなか出来なかったんですよ」
「……はは。そうかもしれませんね」
涙の跡が残る顔で坂田が笑う。
「坂田さん、今日の夜は予定あります?」
「はい? ここの片付けですか?」
「いえ、せっかくだからファンの皆さんを飲みに誘いませんか?」
「え?」
「ゆっくり話す機会があってもいいんじゃないですか?」
「……すみません。僕、そういうのは苦手なんです」
「多分、坂田さんのファンの方も同じでしょうね。でも、最期ですよ」
「……」
「私がもしファンだったら嬉しいと思います。というか、すでにチラシ作りました。坂田さんを囲む会」
白瀬がポケットの中から折り畳まれたチラシを取り出す。
「……こんなの、いつの間に」
「さっきです」
そういえば、お昼の後にも白瀬は少し席を外していた。どこに行っていたのかと思った。
「坂田さんさえよければ、そこらへんに貼りますよ」
「あ、えっと……、ごめんなさい」
困ったように、もう一度坂田が断った。今度は白瀬も、無理に勧めようとはしなかった。
「今夜はやりたいことがあるんです」
はっきりと、坂田が言った。
「それと、もう一日ここを借りることは出来ますか?」
「元々片付けの為に一日は余分に取っていたので、展示も大丈夫だとは思います」
白瀬が頷く。
「助かります。……出来れば、明日もお二人に受付をお願いしたいのですがいいでしょうか? 僕はもういませんので」
坂田が付け足した言葉が、和季の胸にずしりと響く。
「任せてください」
「ありがとうございます」
坂田が両方の口角を上げた。
「あの、明日のことだけじゃなくて、その、全部……、ありがとう、ございました」
彼は、本当に笑っていた。
* * *
「よかったんですか?」
坂田が席を外している間に、和季は白瀬に聞いてみた。
「何が?」
白瀬が首を傾げる。
ちらりと見えたチラシは短時間で作った割には、イラストもしっかり入っていて手の込んだ作りだった。
「飲み会、出来なくてよかったんですか? チラシまで作ったのに」
「あれは私が勝手にやったことだから。一番大事なのは、坂田さんの気持ちでしょ?」
努力が無駄になるのは、もったいない。もし和季がチラシを作ったのなら、そう思っていたかもしれない。
けれど、白瀬の言うとおり無理に飲み会に誘っていたら、きっと坂田はあんな風に笑ってくれなかった。
白瀬がしているのは坂田の意思を尊重することで、自分の意見を押しつけることではない。




