Part 21
アランは緩やかに揺れていた。
柔らかな温もりと嗅いでいて落ち着く香りは、アランの中に残存している。
死の淵を彷徨う彼は、精神を自身の原風景へと遡らせていた。
草原には両親が立ち、アランは母親の腕の中で揺られていた。
母は、どんな時でも無条件の愛を与えてくれた。叱るのは父の役目だった。
父は厳格だが理不尽は無く、少なくとも記憶の中には、暴力も無かった。
父と母がそれぞれ何処で生まれ、どのように出会ったのかは分からない。
そういった話を聞こうとした頃には、彼らはこの世にいなかったからだ。
家族は見知らぬ土地の草原に家を構え、近くに小さな野菜畑を開墾した。
また知り合いから安く買えた家畜から乳や卵を採って、細々と生活を始めた。
基本は自給自足だったが、父は他の家の畑仕事を手伝うほかに、
街の製材所で木材の加工や、大工の助手をして生活費を稼いだりした。
母は家事の傍らで教会にある孤児院へ通い、熱心な信者ではないようだったが、
子供たちに読み書きと計算を教え、持て余した野菜などを寄付したりした。
裕福な家庭ではなかったがひもじいという感覚も無かった。
全てにおいて満ち足りていたし、純粋に毎日が楽しかったのだ。
アランに過去の大戦の顛末を教えてくれたのは、
家族が懇意にしていた行商人の娘、二つ年上の女の子だった。
口数の少ない、今となっては声も顔も、名前すらも曖昧な彼女は、
この土地には、かつて十数世紀に渡って繁栄を続けた大帝国があり、
やがて海の向こうから現れた異民族との争いが始まると、
支配からの解放を望む多くの少数民族が名乗りを上げ、戦争は泥沼と化し、
最期には、帝国は空から降った星屑により、塵になって消えたということを、
少女は、まるで怯えさせるような口調で、アランに話し込んでくれた。
いつしかアランも過去に興味が湧いて、もっと詳しい昔話が知りたいと、
あくる晩に、生き証人である両親にも戦争のこと尋ねた。
しかし二人は多くを語らなかった。もとい、語りたがらなかった。
何も話したくない様子で、それ以上はアランも追及することを止めた。
苦しそうな顔をする父と母を見るのは彼の本意ではなかった。
やがて、アランの戦争への興味も薄れた。
母がリリィを産んでから、父が剣術を教えてくれるようになったからだ。
父は別の話題でもって、息子の関心を逸らそうとしたのだ。
お前は兄として強さを身につけるべきだ。と言って、
彼は表面の滑らかな木剣を二本拵え、一本をアランに渡した。
思惑通り、アランは剣に夢中になった。
難しいことを考えるより、身体を動かすほうが彼の性に合っていた。
筋が良いな。と、打ち合いの後、父は額に汗を浮かべて笑った。
傷だらけの木剣、マメだらけの掌、稽古の後には父が薬を塗ってくれた。
リリィを抱える母もまた、夕陽に立つ二人の姿を見守っている。
アランは妹と視線を交わした。
幼い彼女は無垢な瞳で、ただ兄をじっと見つめていた。
水中を悠々と泳いでいた魚たちが、気配を察知して方々に散らばった。
運悪く恰幅のいい一匹が銛に貫かれ、川底の土砂を巻き上げて。
リリィは獲物を腰の網の中へ放り込み、ふぅと一息ついた。
「やるじゃない」
キリアが川上から雪の残る岩々を歩き伝ってやって来た。
「いいね。でっかいヤマメだ」
「まだまだ。やっとで二匹目だし」
リリィは鼻の穴を大きく開けて白煙を吹かせてみせた。
鼻の頭や頬、指先は赤く霜焼けて、顔には玉の汗を浮かべていた。
「競争じゃないんだ。大事なのは獲った瞬間の感覚を忘れないことだよ」
キリアは彼女の髪の乱れを、ついと直した。
「なんだか動き回って、活き活きとしてるね」
「そうかしら」リリィは水面を見つめながら、
「身体を動かすの意外と好きなのかも、私」
二人は墓標の前で、腰の高さにある真新しいそれを見下ろしていた。
石柱にはマディソン・ヤングとあり、数週間前の日付が刻まれている。
墓の周囲には白のユリや古い硬貨など様々な物が重なるように供えられており、
それは此処に眠る男が、町から信頼され愛されていた証でもあった。
「信じられるか?“狂犬”なんて言われてた男が、いまや町の英雄だ」
フーゴは、懐から取り出した紙巻き煙草にマッチで火を付けると、
それを蝋燭のように墓標の前の地面に立たせて、フッと笑った。
「お前、そりゃ怒られるだろう」
「奴の好きだった葉っぱさ。南方の土産にやるつもりだった」
「ルスティカか」ビショップは懐かしむように腕を組んだ。
「ロメオ爺さんは元気だったか?」
フーゴは振り返らずに、わずかに首を振った。
「甥っ子の家族が農園を引き継いだらしい」
後ろに控えるビショップは、フーゴの丸くなった背中を見ていた。
彼は屈んだまま煙草から立ち昇る紫煙を眺めていた。
「この巻き方、教えてくれたのはマディなんだ」
「戦地で煙管を無くした時には、葉っぱで器用に巻いてたな」
フーゴは立ち上がって、笑顔で振り返った。
「土手っ腹に穴が開いても吸うのだけは止めなかったんだぜ?」
「そりゃあ、ルーディじゃなかったか?」
「いや、マディさ。隊長にニオイを言われて、殴り合いの大喧嘩をしたんだ」
そうだったか。と、ビショップは呆れ笑いをして懐かしんだ。
「馬鹿な連中だ」
「そうさ。俺たちゃ、どうかしてる集団さ」
目を開けると、アランはベッドに仰向けの状態でいた。
部屋の端にある数本の蝋燭の灯りで部屋は仄かに明るい。
リリィが視界に入り込んできた。彼女は彼の顔を覗き込んだ。
表情を曇らせていた彼女は、兄の視線を感じ取りグッと顔を寄せた。
「兄さん?ねぇ、起きてる?」
アランは一瞬、目を見開いて顔をしかめた。
口内が一体化したようにピッタリくっ付いて開かない。
「あっ。水ね。水なのね」
リリィは急いで茶碗に水を注ぎ、口もとへ近付ける。
少しずつね。と言って、彼女が上から茶碗をわずかに傾けると、
アランは餌をせがむ雛鳥のように頭を動かして雫をすすった。
最初は乾いた唇に馴染ませて、途中何度も咳込みながら、徐々に嚥下していく。
リリィは優しく言葉をかけながら、決して兄を急がせなかった。
「気分はどう?」
「俺は、どれくらい寝てた?」
「三日、いや、もうすぐで四日かな」
ああ。と、言葉を待たずにアランは呻いて、
「身体中、酷い臭いだ。どこもかしこも」
リリィはクスクス笑いながら「そうだ」と言って立ち上がり、
「みんなに知らせてくる」と言って、小走りで部屋を出て行った。
ほどなくして、騒がしく無遠慮な足音が廊下にこだまし、
山賊の連中が嬉々としてアランのもとに集った。
「ちょいと寝坊が過ぎるんじゃねェのか、お兄ちゃん」
「見た目は蚕だけどな」
アランは頭からつま先まで、鼻と口を除いて全身を包帯で巻かれており、
その姿は一匹の細長い芋虫も同然であった。




