プロローグ:久しぶりの長い休み
初連載です!至らないところもあると思いますが、読者の皆様に楽しんで頂ける様に頑張って書きたいと思います。
よろしくお願いします!
会社を辞めてから、一週間。
佐藤海斗、二十九歳。
俺は今、空港の出発ロビーにいた。
目の前には、大きなスーツケース。
数週間分の着替えと、両親への土産、それから旅行先で使う予定の細々としたものが詰め込まれている。
仕事を辞めた。
理由は、単純だった。
少し疲れたのである。
仕事そのものが嫌だったわけじゃない。
人間関係も、特別悪かったわけではない。
それなりに真面目に働いて、それなりに毎日を過ごしてきた。
けれど、気がつけば生活のほとんどが仕事中心になっていた。
朝起きて、仕事へ行く。
帰ってきて、飯を食って、風呂に入って寝る。
そしてまた仕事。
そんな毎日を何年も繰り返しているうちに、ある日ふと思った。
『……俺、何のために働いてるんだろうな』
別に人生に絶望したわけじゃない。
ただ、一度くらい立ち止まって、自分の好きなことをしてみてもいいんじゃないか。
そう思ったのだ。
幸い、少しばかり貯金もある。
両親は海外勤務で家を空けているし、俺が子供の頃から世話になっている祖母の梅子も、
『若いうちにしかできないことがあるんだから、好きなことをやりなさい』
と背中を押してくれた。
七十二歳になった今でも、祖母は昔と変わらない。
俺が何か迷っていると、いつも最後は笑って背中を押してくれる。
その言葉にも後押しされて、俺は会社を辞めた。
そして、まずやることにしたのが――旅行だった。
行き先はアメリカ。
海外勤務中の両親に、久しぶりに会う予定だ。
「……さて」
スマートフォンを取り出して、搭乗時刻を確認する。
まだ少し時間がある。
俺は空港のベンチに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「会社……辞めたんだよなぁ」
声に出してみても、いまいち実感がない。
明日の朝、目覚ましが鳴っても起きなくていい。
月曜日だからと憂鬱になる必要もない。
仕事のメールを確認する必要もない。
そう考えると、妙に笑えてきた。
「……しばらく、のんびりするか」
せっかくできた時間だ。
今までやりたくてもできなかったことを、少しずつやってみよう。
旅行から帰ってきてからのことは、その時に考えればいい。
そう思いながら、俺は搭乗口へ向かった。
◇
「こちらのお席になります」
飛行機に乗り込み、座席を確認する。
窓側。
悪くない。
俺は荷物を収納し、席に座った。
しばらくすると、隣の席に一人の女性がやって来た。
「あ……すみません」
「いえ」
女性は二十代前半くらい。
大きめのバッグを抱え、少し慌てた様子で荷物を収納している。
どうやら飛行機に慣れていないらしい。
「よいしょ……」
なんとか荷物を収納すると、女性は小さく息を吐いた。
俺はシートベルトを締めながら、窓の外へ視線を向けた。
しばらくして――
「……海外旅行、久しぶりなんですか?」
隣から声を掛けられた。
「え?」
「その……慣れてる感じがしたので」
「ああ」
俺は少し考えてから答える。
「いや、海外はそんなに経験ないですよ。今回は両親に会いに行くんです」
「ご両親が海外に?」
「はい。仕事で向こうにいて」
「へえ……」
女性は少し羨ましそうに笑った。
「私は海外旅行、初めてなんです」
「そうなんですか」
「はい。ちょっと緊張してます」
「まあ、飛行機に乗ってしまえば、あとは座ってるだけですから」
「それもそうですね」
彼女は笑った。
「武藤唯衣です」
「佐藤海斗です」
これが、俺と武藤唯衣との最初の会話だった。
◇
飛行機が離陸してから、しばらく。
「お客様、機内では――」
通路の向こうから、客室乗務員の声が聞こえた。
「はいはい、分かってますって」
妙に明るい男の声。
何気なく見ると、三十歳くらいの男性が、客室乗務員と楽しそうに話している。
「お飲み物、追加でいかがですか?」
「もちろん。いやぁ、空の上で飲む酒って最高ですよね」
「ほどほどになさってくださいね」
「もちろんです!」
男性は機嫌よく自分の席へ戻っていった。
その手には、しっかりとビールが握られている。
「……あの人、すごいですね」
唯衣が小声で言う。
「何がです?」
「まだ離陸したばかりなのに、もう飲んでますよ」
「確かに」
思わず笑ってしまった。
すると――
「お兄さんたちも飲みます?」
「え?」
いつの間にか、さっきの男性がこちらを向いていた。
どうやら俺たちの会話が聞こえていたらしい。
「いやぁ、せっかくの旅行でしょう?」
男性は楽しそうにビールの缶を掲げる。
「飲まなきゃ損ですよ」
「俺は別に……」
「まあまあ」
男性がニヤリと笑う。
「酒は道連れって言うじゃないですか」
「それを言うなら、旅は道連れ世は情けですよね?」
俺がそう返すと、男性は一瞬ぽかんとした。
「……そうだっけ?」
「そうですよ」
「まぁ、いいや」
まったく気にした様子もなく、男性は笑う。
「ほいっ!」
そして、どこから取り出したのか、未開封のビールを一本、俺に差し出してきた。
「いや、これをどうしろと?」
「もちろん、一緒に飲むんですよ」
「初対面ですよね?」
「そうですね!」
満面の笑みだった。
妙に押しが強い。
俺は苦笑しながらビールを受け取った。
「……まあ、一杯だけなら」
「おっ、話が分かる!」
男性は嬉しそうに自分のビールを掲げる。
「それじゃ――乾杯!」
「乾杯」
「か、乾杯……」
唯衣も困惑しながら、手にしていたジュースのカップを軽く掲げた。
こうして、なぜか機内で見知らぬ男と乾杯することになった。
「いやぁ、やっぱり旅行はこうでなくちゃ!」
男はご満悦だ。
俺も一口飲む。
飛行機の中で飲むビールというのも、確かに悪くない。
「俺、佐藤慎之助。三十一歳。酒好きです!」
ようやく男が自己紹介をした。
「佐藤……?」
唯衣が首を傾げる。
「海斗さんも佐藤ですよね?」
「そうですね」
「親戚ですか?」
「違います」
「ですよね」
「ですよねって……」
俺が苦笑すると、慎之助が豪快に笑った。
「ははは! 同じ名字ってだけで親戚扱いか!」
「だって、珍しくないですか?」
「まあ、確かにな!」
そんなやり取りをしていると、今度は後ろの席から声がした。
「佐藤さんが二人って、ややこしいですね」
振り返る。
眼鏡をかけた細身の青年が、苦笑していた。
「すみません。話が聞こえてしまって」
「いや、別にいいけど」
「僕、真田蝉丸です。よろしくお願いします」
「佐藤海斗です」
「武藤唯衣です」
「佐藤慎之助! 酒好き!」
「そこはもう聞きましたよ」
蝉丸が苦笑する。
「ですよね!」
慎之助はまったく気にしていない。
そんなやり取りをしているうちに、自然と四人で話をするようになった。
年齢も性格もバラバラ。
旅行の目的も違う。
ただ、たまたま同じ飛行機に乗っていただけ。
この時の俺たちは、そんな偶然を特別なものだとは思っていなかった。
◇
飛行機は順調に飛んでいた。
俺は窓の外を眺めていた。
雲の上。
どこまでも続く青空。
会社を辞めて。
これからしばらく自由に過ごして。
両親に会って。
日本に戻ったら、今度は何をしようか。
そんなことを考えていた。
唯衣は眠っている。
慎之助は酒を飲んでいる。
蝉丸は本を読んでいた。
ごく普通の、海外旅行の途中。
少なくとも――その瞬間までは。
ドンッ!
「――っ!?」
突然、機体が大きく揺れた。
「な、何!?」
唯衣が飛び起きる。
「乱気流……じゃないですよね?」
蝉丸が周囲を見回す。
慎之助もさすがに酒を置いた。
「おいおい……なんだこれ」
機内にざわめきが広がる。
さらに大きな揺れ。
照明が一瞬消えた。
そして――
窓の外が、真っ白になった。
「なんだ……?」
雲ではない。
光だった。
機体全体が、その白い光に包まれていく。
悲鳴が上がる。
誰かが祈り、誰かが叫ぶ。
俺も座席にしがみついた。
「海斗さん!」
「大丈夫! シートベルトを!」
何が起きているのか分からない。
墜落するのか?
機体トラブルか?
それとも――。
次の瞬間。
世界が、反転した。
◇
静寂。
「…………」
俺は目を開けた。
「……生きてる?」
身体を動かしてみる。
痛みはない。
座席もある。
飛行機も――ある。
ただし。
「……なんだ、これ」
窓の外を見て、言葉を失った。
そこには空港も、雲も、街もなかった。
見渡す限りの草原。
遠くには森。
さらにその向こうには、見たこともない巨大な山。
「ここ……どこだ?」
周囲からも次々と声が上がる。
「外に出られるぞ!」
「怪我人はいないか!」
「乗務員さん!」
「家族は!?」
混乱する四百八十八人。
乗客四百七十六人。
乗務員十二人。
その全員が――無事だった。
しかし、俺たちの目の前には、飛行機が着陸したはずの滑走路など存在しない。
草原の真ん中に、まるで空から落ちてきたかのように機体があるだけだった。
「……こんな場所、地図に載ってるわけないよな」
俺が呟いた、その時。
遠くから地響きが聞こえた。
ドドドドドッ――!
「何か来る!」
誰かが叫ぶ。
草原の向こうから、何頭もの馬がこちらへ走ってくる。
馬に乗っているのは――人間。
鎧を身に着け、腰には剣。
先頭の男が手を上げた。
「止まれ!」
いや。
止まれと言われても、俺たちの方が止まっている。
男たちは警戒しながら、こちらへ近づいてくる。
その中の一人が、信じられないものを見るような顔で飛行機を見上げた。
「……何だ、あれは?」
俺も同じ気持ちだった。
「……こっちが聞きたい」
この時の俺は、まだ知らなかった。
ここがどこなのか。
なぜ俺たちがここに来たのか。
どうすれば帰れるのか。
そして――。
これから始まる生活が、俺の想像していた「のんびりした休暇」とは、あまりにもかけ離れたものになることを。
ただ一つ確かなことがある。
俺たち四百八十八人の人生は、この瞬間を境に、大きく変わってしまった。




