真尋が『父が存在しなかった世界』に逃げ込んでいた中で、一方では母は、『夫が失踪した世界』を一人で息を潜めるようにして生きていた。
真尋が『父が存在しなかった世界』に逃げ込んでいた中で、一方では母は、『夫が失踪した世界』を一人で息を潜めるようにして生きていた。
あの夜、母が手にして家を出たスーツケース。あのスーツケースをどこに捨ててきたのか、そして今どこにあるのか、真尋は知らない。だけど母は、あのスーツケースがいつ発見されるかに怯えながら毎日を送っていたのだと思う。あのスーツケースが発見されないことをひたすら祈りながら、今日という日を生き続けていたのだと思う。
その日々は、母にとってどのような意味を持つものだったのだろうか。
『父が存在しなかった世界』を一人で生きてきた真尋には、想像することすらできなかった。
あの日を境に、母と真尋の進む方向は全く違うものになっていた。一日を経るごとにそれぞれの心は離れていき、それに伴ってそれぞれの生きる世界はますます乖離していくしかなかった。
いつからか母は、真尋が父親の記憶を無くしていることに気づいていたのだと思う。
だけど母は、それでも構わないと思ったのだと思う。
だって、母にとっても父の存在は、忘れるべきもの以外の何ものでも無かったのだから。ある意味では、母自身も『夫が存在しなかった世界』を生きようとしていたのかもしれない。
そのような日々の中で、自分の父親の記憶を消した真尋が、小学生の時に母に問いかけた言葉。
「どうしてうちにはパパがいないの?」
その言葉を母はどんな思いで聞いたのだろう。
母の胸に去来した思いは悲しみだったのか、絶望だったのか、後悔だったのか、あるいは憎しみだったのか。
そして、その後に母が真尋にぶつけた言葉。
「あなたさえいなければ、私はこんなところから逃げられるのに……」
その言葉は、『夫が失踪した世界』でじっと息を潜めるように生きるしかなかった母の、本心から溢れた言葉だったのかもしれない。今になって、その言葉の本当の意味を真尋は知った気がした。
母は、自分の人生を投げ捨ててまで真尋を守ってくれた。
だけど同時に、そのような人生を生きるしかなかった自分の運命を呪っていた。
それは、真尋自身を呪っていることと同じだった。
その七年後、母は真尋の知らないところで父の失踪届を出すことになる。
『父が存在しなかった世界』を生きていた真尋に、母は失踪届のことを話すことは無かった。
真尋は、自分の目の前の壁に描き殴られた『全て、お前がやったんだ』という文字を隠すように、手に持った絵を再び壁に掛け直した。これ以上、その文字を見ていられなかった。
部屋は、耳が痛いくらいの静寂に満たされていた。
その静寂の中で、真尋の心の中で蘇った過去の記憶、そしてその過去の記憶が一緒に引き連れていた、心が壊れそうなくらいの悲しみと絶望が少しずつ引いていく。
真尋は冷静に、今の自分の状況を考え始めていた。
ふと、真尋は重要なことを今更ながら気づいた。
この絵には、なぜ、私の過去が描かれているのか……。
真尋自身すら失っていた自分の過去の記憶だった。
当然、その自分の記憶について他の誰かに話したことなんて一度もない。自分のしたことを知られることを恐れていたはずの母が、そのことを誰かに漏らすということも想像しにくかった。
それなのに先ほどの絵には、あの夜の、母が家を出ていくのをじっと見つめている真尋自身がモチーフとなった絵が描かれていた。そして今、目の前にある絵には、ベッドに横になった父を感情を失った顔で見下ろしている真尋自身がモチーフとなっている絵が描かれている。
確かにこの絵は色々とデフォルメされて、中世ヨーロッパのような雰囲気を湛えている。もしかしたら、全く別の何かを描いた絵なのかもしれない。だけど真尋には、この男の姿は父であり、この女性の姿は母であり、そしてこの少女の姿は自分であるとしか思えなかった。
素直に考えて、そのような絵がこの場所にあること自体が異常だった。
真尋は首をゆっくりと横に振る。
そもそもとして異常なのが、今、真尋は、見知らぬ部屋に閉じ込められているという状況なのだ。
私はなぜこのような部屋に閉じ込められているのか……。
おそらく、この絵が関係しているはず。
そしてこの絵が関係しているということは、真尋の過去が関係していることになる。真尋が自分の父親を殺したという過去が。
例えば、真尋の過去を何らかの方法で知った誰かが、真尋にそのことを思い出させるためにこの二枚の絵を用意し、そして真尋をこの部屋に閉じ込めたということはないだろうか。だけど、わざわざそのような手の込んだことをする目的が分からなかった。少なくとも真尋にはその目的を推測することもできなかった。
真尋に罪を突きつけるだけであれば、それこそこんな場所に真尋を閉じ込める必要なんてない。ただ真尋の前に現れて、
「お前は、自分の父親を殺したんだ」
と告げればいい。
だけど、この絵を見るまでは真尋はその自分の過去を忘れていた。無理やりその記憶を心の奥底に閉じ込めていた。
もしかして、私自身に自分のしたことを思い出させるために、わざわざ私をこの部屋に閉じ込めて、そして私の過去の過ちを描いた二枚の絵を私に見せたの……?
その『誰か』は、記憶を失った真尋に言葉で言ったところで何も通じないとでも思ったのだろうか。
あるいは、真尋自身が思い出さなければ意味がない、と、その『誰か』は考えたのだろうか。




