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東京壁  作者: 朝月
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審判

1945年、太平洋戦争の終結。日本は米ソ両国によって南北に分断された。

南にはアメリカの影が落ちる「日本立憲王国」、そして北にはソ連の傀儡政権「日本人民共和国」。1957年、両国の境界線である東京の街に、巨大な「反ファシスト東京隔離壁」——東京壁が築かれた。


1960年代、東日本の浦安製鉄所で働く職人・秀雄。

過酷な政治闘争の中で命を絶った先輩の娘を引き取り、血のつながらない子どもたちを含めた家族を守るため、彼はただ愚直に汗を流していた。


しかし、激化する政治運動と食糧難の波が、平穏な日常を容赦なく呑み込んでいく。

ある日突然下された、幼い兄妹たちを散り散りの僻地へと強制移送する命令。

役人の陰謀により家族の絆は引き裂かれ、連絡すら断たれてしまう。


絶望の淵で、父・秀雄は家族を守り抜くため、冷酷な体制の「内側」へと深く足を踏み入れる決意をする。

一方、劣悪な農場を脱出した長男は、妹弟たちを救い出し、壁の向こう側へ逃れるべく極寒の地を彷徨い始めていた。


暗躍する秘密警察、迫りくる追手、そして背後で揺らめく巨大な陰謀。

分断された国家の闇のなか、それぞれの「逃亡」と「生存」をかけた選択が、やがて家族の運命を狂わせていく——……。

高さの知れぬ「東京壁」が、巨大な傷口の如く暮色の中に横たわっていた。

壁の根元に広がる浦安製鉄所。数十高炉が吐き出す黒煙は夕日を覆い隠し、随所に残る錆は冷気の中で血の塊のように禍々しく赤く佇んでいる。

工場中央の広場には、灰色の作業服を纏った数万の労働者が押し寄せていた。掲げられた赤本が拳とともに振られるたび、地鳴りのような怒号が夜気を震わせ、鉄の塵を降らせる。

「糾弾せよ!社会主義の害虫を!」

「反革命走資派を叩き潰せ!」

「国家の財産を盗みし者に、容赦はいらん!」

広場の中央には、二メートルほどの雑な高台が組み上げられていた。荒縄で吊るされた白布には、黒漆の歪な文字が躍る。——『反革命分子・旧帝国残党 佐々木正雄 糾弾大会』。

中央の冷え切ったコンクリートの上に、一組の中年夫婦が両手を後ろ手に縛られ、膝をつかされていた。

背には二指ほどの厚みがある木板が刺し込まれている。首から腰にかけてを貫くその板には、赤漆で「人民の公敵」「国家の盗人」「旧帝国の走狗」と殴り書きされ、鮮血のようなバツ印が刻まれていた。綿服のあちこちにも、墨と罵詈雑言が浴びせられている。

男の名は佐々木正雄。四十を少し過ぎたばかりだが、顔面は煤と乾いた血にまみれ、太枠眼鏡の右レンズはとうに砕け散っていた。空洞となったフレームだけが耳に引っかかり、痛々しい知性を痛切に留めている。その傍らで低く頭を垂れる妻の綾子。旧華族の血を引くその女は、乱れた髪とボロを纏いながらも、唇を噛みしめ、痩せた背筋を密かに伸ばしていた。

高台の奥、長机の後ろにはソ連式の高襟軍服を着た幹部らが居並ぶ。中央に座すのは国家計画経済委員会から派遣された特派員・中村誠。その冷徹な面持ちの隣で、浦安製鉄所所長・長谷川隆が太った体に精明な目を光らせていた。

中村誠がゆっくりと立ち上がり、赤い鉄皮の拡声器を掴む。耳を刺すハウリング音が静寂を切り裂き、群衆の喧噪が一瞬で引いた。

「浦安製鉄所の労働者階級の同志諸君!」

中村の声が沈痛な夜空に響き渡る。

「見よ!これが我が工場がこの二ヶ月で鍛え上げた鋼だ!」

中村は机の上から一本の鈍色の鋼条を掲げ、高台の縁へ力任せに叩きつけた。甲高い音とともに、鋼条は乾燥した木切れのように三つに砕け散り、破片が最前線の労働者の足元へ跳ねる。

「同志諸君!いまこの瞬間も、我らが社会主義の兄弟国は、前線で米帝国主義の火器と血を流して戦っている!彼らは我が方の鋼を、銃砲を、陣地を築くための鋼を渇望しているのだ!然るに後方にいる我々が、このような触れれば砕ける豆腐の粕を作り出してどうする!このような武器を抱えて敵に立ち向かう兵士たちの姿を思い、君たちの胸は痛まぬのか!」

群衆の中に動揺が走り、激高した低音の唸りがうねりとなって膨らんでいく。

中村は間を置き、言葉の調子を宥めるように変えた。

「無論、党と組織は理解している。純朴なる労働者同志が汗を流し、全力を尽くしたことを!」

長谷川隆がすかさず拡声器を引き継いだ。滑らかな官僚口調が、扇情的な熱を帯びて広場を包み込む。

「中村特派員の言う通りだ!本日の大会は、決して広範な労働者同志の責任を問うものではない!諸君は規定に従い、愚直に汗を流した社会主義の建設者である!だが、廃鋼が山と積まれたのは厳然たる事実!これは決して単なる生産事故などではない。極少数の階級敵による、計画的な破壊工作なのだ!我が新政権に対する、旧帝国の残党めらの陰湿な復讐なのだ!」

長谷川は跪く二人へ向き直り、その指先を佐々木正雄の鼻先へ突きつけた。

「佐々木正雄!前帝国海軍兵学校の出身であり、学もあり、技術も知る男!組織は寛大な心をもって、お前を浦安製鉄所に留め、製鋼の責任者を任せた。にもかかわらず、恩を仇で返し、上質な鋼水に炭粉と鉱滓を大量に混ぜ込んだな!一トンの良鋼を二トンの廃鉄に変え、産出量を偽って私腹を肥やす……前線の兄弟が死闘を繰り広げるこの時に、貴様の行いは明白なる通敵!国家への裏切りだ!——佐々木正雄、この罪を認めるか!」

佐々木正雄は重い頭をゆっくりと持ち上げた。

右目の砕けたフレームが目角を刺し、ぼやけた視界には歪んだ人影と黒ずんだ赤旗だけが映る。息を荒らげ、その声は干からびた紙やすりのように擦れていた。

「……罪は認めます。屑を混ぜ、産出量を偽った……すべて、私のやったことです」

歓声が沸き立とうとしたその時、佐々木は両膝に力を込め、背の重い木板を揺らして激しく立ち上がった!喉の筋を浮かみ上がらせ、全身の絞り出すような声で叫ぶ。

「だが、服さぬ……!私は決して服さぬ!!」

傍らの監視兵が青ざめ、佐々木の膝裏を容赦なく蹴り飛ばした。骨の砕けるような音とともに膝から崩れ落ち、コンクリートへ激突しながらも、佐々木は顔を上げたまま叫び続けた。

「目標……目標とは、上が机上で叩き出した数字ではないか!高炉の限界は月八千トンだというのに、計画部は二万トンを強いた!年を追うごとに狂気は増すばかり!材料学の客観的法則など、端から歯頭にも引っかけていない!」

「数字だけを上に報告し、高炉が吹き飛ぼうが炉壁が焼き切れようがお構いなしだ!紙の上の数字を合わせるため、炭粉を混ぜて目方を増やす他に、私に一体何が出来たというのだ!科学を無視した……唯物論を冒涜する狂気だ!」

「黙れ!この反革命の狂人が!」

長谷川隆の顔色が変わり、取り繕った官僚の皮が引き千切れた。

「己の手抜きと売国を棚に上げ、党の路線と計画に泥を塗るか!これぞまさに社会主義体制への悪質な攻撃だ!」

台下の群衆の感情は、狂熱と怒りの絶頂へと達した。

「打倒せよ、旧帝国の走狗を!」

「社会主義の生産計画を死守せよ!」

「反革命分子を銃殺せよ!」

無数のレンガ、鉄屑、泥水が雨あられと高台へ投げつけられる。飛来した焦炭が佐々木の額を打ち、破れた眼鏡の隙間から鮮血が伝い落ちた。

その熱狂と混乱の渦中、高台の端にいた作業員たちの列から、ひとりの若い男が身を乗り出した。全身を油に塗れさせたその男は、血を流す男を凝視し、絞り出すような声で叫んだ。

「先輩——!!」

佐々木の体が、かすかに震えた。

声のした方へわずかに顔を傾ける。その無事な左目が、喧噪の海の中で一瞬だけ痛切な絶望を宿したが、やがて何も語ることなく再び頭を垂れた。冷たいコンクリートの上に、血が滴り落ちていく。

糾弾という名の茶番劇は、夜の八時を回る頃にようやく幕を閉じた。

今夜も緊急の生産ノルマが控えており、作業時間を潰すわけにはいかなかったからだ。木板を外された佐々木夫妻は、まるでゴミのように敷地の隅にある職員宿舎へと追い払われた。

月もない、凍てつく夜であった。

産業廃棄の煙が星空を覆い隠し、冷たい夜風が高聳する東京壁を吹き抜け、獣の啜り泣きのような低い唸りを上げている。

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