114爪
なぜかこの2日、寝つきが悪くて、1話しか上げられませんでした。
20時間ぐらい、布団に入っていたような…。
困ったもんです。
偽壁づくりがパイプに視線を走らせたのと同時に、井口は床を転がった。
俺が戦うのか!
井口は絶望の叫びを心の中で喚いた。
井口は探査班であり、探査班であることを心の底から喜んでいたのだ。
レディや美鳥は戦闘を厭ってはいないようだが、井口は殺し合いは嫌いだった。
殺し合いとは、本来、神聖なもののはずなのだ。
例えば井口が渓流で魚を狙うなら、釣った魚は必ず食べる。
大量に釣ったとしても、アユが好きな祖父や父にお土産に持ち帰るぐらいの事で、それ以上を取ったりはしない。
食べる、事が最低限、相手を殺す、という行為に対する礼儀のように井口は思えていた。
が、言っては悪いがやや中年域に達しかけの、この白人男を食べる気には、井口はなれない。
かと言って、無論殺されるのも嫌なのだが…。
床を転がったのは相手の標準から逃れるためだ。
戦い慣れた相手なら、一旦目を放しても、銃を向けた相手を撃つ事が出来る。
それぐらいが出来なければ、狩りや戦場で命を張った戦いは不可能だ。
情報は、事が難しい局面に差し掛かった時程、交錯していくものだ。
味方の情報、敵の情報、天気模様、日没時間、風向き、匂い、全てが頭に入っている必要がある。
当然、通信機に、時計に、周囲のありさまに、戦士は情報を探っていく。
その度、標準を見失っていたら戦いは全く進まない。
だから移動をする。
床を、柔道の受け身の練習のように、しかし静かに、井口は横に二回転がり、足を捩って片膝を立てた。
グレーのズボンの裾をめくると、靴下の中にナイフを固定してある。
それを引き抜き、三羽のトンビを飛び立たせた。
白人は慌てて銃を構えなおした。
トンビを銃で撃とうというそぶりだ。
俺同様、こいつも戦い慣れていないな…。
井口は勘づいた。
影を銃で撃っても仕方がない。
それは、言葉通りに影なのだから。
だから、せめて偽壁づくりは、前の戦闘時のようにノコギリを出せば良いのに、咄嗟、拳銃を向けてしまった。
おそらくこいつは、優秀な影繰りではあるが、戦闘支援のエキスパート、といったところらしい。
むろん、俺よりは殺人経験はあるのだろう。
壁を作って驚かせ、銃を背中から撃つ、など戦闘パターンをいくつか持ってもいる。
だが、まぁ…。
井口は思った。
俺だって、相手が影繰りじゃなけりゃあ、殺しが出来ない訳じゃな無いけどな…。
小田切少年は、今現在、煩悶を繰り返している最中のようだが、井口はずっと前にバージンは捨てていた。
最初の相手は山に逃げた殺人犯だった。
ニュースでは逃げる途中に滑落し、死亡したことになっているが、真実は、山中で井口と殺人犯は偶然に出くわしてしまい、相手は逃亡途中で手に入れたらしいゴミのような包丁を構えて薄笑いをした。
殺すつもりなのは、それで判った。
なので、三羽の漆黒のトンビが暗い森の中から、殺人犯をなぶり殺しにしたのだ。
鳥は、鋭い嘴で攻撃するイメージがあるが、本当に戦うとき使うのは、足である。
鶏が嘴でつつくのは戯れであり、闘鶏の軍鶏ならば、問答無用でとてつもなく狂暴な蹴りが繰り出されてくる。
三羽のトンビも、背後から猛禽の爪が殺人犯の眼球を抉り出した。
顔中を切り裂かれた殺人犯は、そのまま滑落し、滑落死と報道されたが、井口は内調の車の中で、ブラックの缶コーヒーを抱えて、呆然としていた。
なにも感じなかったし、自分の感情はどこか自分には預かり知らない場所に消えてしまったようだった。
そういう違和感は、一月も経つと少しづつ、深い根雪が溶けていくように無くなったが、それから井口は、釣りに没頭すると、時折、あのときの自分が目を覚ますのを感じる事がある。
そういうときは、決まって大漁だった。
トンビが、パイプを出ると同時に巨大化した。
そのトンビに驚き、偽壁づくりは銃を向けたのだったが、発砲まではさすがにしなかった。
だが、本来偽壁づくりがすることは、背後を気にすることだった。
井口のトンビは三羽いるのだから。
後ろに回った一羽が、首筋に鋭い爪を突き刺した。
キャー、とかオオゥ、とかに近い、英語の叫びをあげると、偽壁づくりは血みどろの後頭部に手をやった。
慌てて振り向くが、トンビは飛び去っており、正面のトンビが高速で蹴りを男の首に振り下ろす。
鳥の爪は獲物を捕らえるために内側に曲がっており、これが肉に食い込むと高速で舞い上がるために、刺した肉を抉る動きになる。
深く、激しい裂傷になるのはこのためだ。
男はギャーと叫んだが、井口の思いがけない行為に及んだ。
井口に飛びかかってきたのだ。
銃を持っている相手が、屈んだ井口に飛びかかってくるものなのか?
井口は、虚を突かれてしまった。




