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数学教師の僕がダンジョンの公理を証明したらバズった件  作者: ぎょぴちゃん


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19/22

第十九話 空欄通知は、誰の警告だったのか

管理局の面談室に戻った時、九条真のノートは、いつもより重く見えた。


紙の重さではない。


そこに写した七行のせいだった。


『私は、警告ではない』


『残った、条件だ』


『誰かが戻るために』


『誰かを戻さないために』


『境界に残された』


『証明の、残り』


『名は、まだない』


九条は、その七行を何度も見返していた。


紀三井寺南の補強壁。


半年前に見たQ.E.D.


黒石の微弱な反応。


七瀬の撤退判断。


璃子の声。


麻里の布袋。


三枝の紙台帳。


全部が、まだ地下の冷たい空気をまとっている気がした。


向かいの席では、璃子が録音データを三つに分けて保存していた。


映像。


音声。


紙記録。


外部コピー。


彼女の手元だけが、面談室の中で妙に正確に動いている。


麻里は猫柄の布袋を膝に乗せ、紐の端を指先でいじっていた。


七瀬朱は壁際に立っている。


黒石の遮蔽ケースは、管理局の保管用ボックスに入れられ、七瀬の足元に置かれていた。


三枝羊子は紙台帳を開き、今日の撤退判断を淡々と書いている。


麻里「警告じゃないなら、何だったの?」


誰もすぐには答えなかった。


答えがないから、ここにいる。


璃子が画面から顔を上げた。


璃子「まず、警告だったものと、警告ではないと言ったものを分けます」


九条「資料名は」


璃子「空欄通知照合表」


九条「そのままだな」


璃子「分かりやすい方が残ります」


麻里「空欄さん?」


璃子「名前を付けないでください」


麻里「でも、名はまだないって言ってた」


九条「だから、今は付けない」


麻里は口を閉じた。


拗ねたのではない。


本当に慎重になっている顔だった。


璃子はノートパソコンに、これまでの通知を並べていく。


『この証明、誰に教わった?』


『Mを混ぜるな。式が壊れる。』


『Mを深く連れていくな。』


『空洞を戻すな。まだ、中身が同じとは限らない。』


『記録者を守れ。次に消えるのは、記録とは限らない。』


『赤いベンチを基準点にするな。』


『まだ、本人に戻すな。』


『記録者を守っただけでは、人は戻らない。』


『再接続を確認。だが、観測者を増やせ。』


『ただし、まだ戻すな。』


そして、最後に今日の七行。


麻里「いっぱい怒られてる」


九条「怒られた記憶はある」


璃子「全部を怒りとして読むと間違えます」


三枝「禁止、注意、要請、報告は分けるべきです」


九条「急に行政になった」


三枝「ここは行政の部屋です」


九条「逃げ場がない」


麻里「現実、四方から来るね」


璃子「今は現実に囲まれていた方が安全です」


短いやり取りで、少しだけ空気が戻った。


けれど、七瀬は笑わなかった。


七瀬は通知の一覧を見たまま、静かに言った。


七瀬「敵の命令には見えません」


九条「理由は」


七瀬「本当に敵なら、何度も止める必要がありません。もっと早く壊せばいい」


麻里が布袋を抱きしめた。


麻里「でも、璃子ちゃんは消えかけた」


璃子「そこは許しません」


短い声だった。


それだけで、面談室の温度が少し下がった気がした。


璃子「通知が結果として助けになった部分はあります。でも、記録者を消す処理、麻里を外すように見える言葉、人を戻さない命令。そこは別です。正しい情報を含んでいても、人を消す側につながるなら信用しません」


九条「同意だ」


麻里「じゃあ、味方じゃない?」


九条「万能の味方ではない」


七瀬「敵とも決めない方がいいです」


麻里「中間?」


九条「壊れた標識、くらいが近いかもしれない」


璃子はその言葉を打ち込んだ。


『仮説一:敵ではなく、壊れた標識』


三枝「仮説として記録します」


麻里「標識って、曲がってても見た方がいいやつ?」


九条「そうだ。ただし、曲がった標識の言う通りに進むと、崖に出ることがある」


麻里「やだ」


璃子「だから照合します」


九条はノートを開いた。


九条「第005項で見る」


璃子の指が止まる。


璃子「証明ではありませんね」


九条「ああ。既存定理で標識するだけだ。通知の真偽は決めない。差異を見る」


璃子「なら進めてください」


麻里「空欄さん、差異される」


九条「動詞にするな」


九条は万年筆を持たず、ノートに視線を落とした。


通知そのものは映像には残っていない。


だが、九条の読み上げ音声がある。


璃子の時刻記録がある。


三枝の紙台帳がある。


麻里の反応メモがある。


七瀬の撤退判断がある。


直接見えたのは九条だけでも、外側の記録は増えていた。


視界に、薄い緑色の文字が浮かぶ。


『通知記録群』


『同一発生源候補:高』


『人格主体:未確定』


『警告文型:多数』


『自己言及文型:初出』


『差異標識可能』


九条「出た」


璃子「読み上げてください」


九条「同一発生源候補は高い。ただし人格主体は未確定。警告文型が多い。自己言及文型は今日が初めて」


麻里「自己紹介?」


九条「自己紹介めいているが、名前はない」


三枝「これまでの通知と、今日の通知は、同じ系統の可能性が高いということですね」


九条「はい」


七瀬「では、最初の問いも同じ系統です」


九条は一覧の一番上を見た。


『この証明、誰に教わった?』


深夜の部屋。


公開前に届いたコメント。


一分で来た、あり得ない問い。


あの時は、誰かが自分を見張っているのだと思った。


今も、その可能性はある。


だが、別の読み方が見え始めていた。


九条「これは、問いではなかったのかもしれない」


璃子「どういう意味ですか」


九条「ぼくは最初、出所確認だと思った。誰かがぼくに証明を教えたのか、それを聞いているのだと」


三枝「今は違うと?」


九条「半分は同じです。でも、こうも読める」


九条はノートに一行書いた。


『この証明は、誰のものとして成立している?』


麻里「誰のもの?」


九条「ああ。ぼくが勝手に証明したのか。誰かの残した条件を読んだだけなのか。境界に残った証明の続きを、ぼくが自分の証明として進めているのか」


璃子は黙った。


七瀬が少しだけ目を細めた。


七瀬「半年前の壁」


九条「はい。あそこにはQ.E.D.があった。ぼくは読めなかった。でも、最後の三文字だけは見た」


七瀬「誰かの証明が、終わりかけていた」


九条「あるいは、終われなかった」


面談室が静かになった。


麻里が、ゆっくり言った。


麻里「証明の、残り」


九条は頷いた。


九条「今日の通知はそう言った。残った条件。証明の残り。名はまだない」


璃子が新しい行を打ち込む。


『仮説二:通知は、半年前の境界に残った未完了条件』


三枝「九条さん由来の可能性はありますか」


その言葉で、九条の手が止まった。


自分では、そこを避けていた。


璃子が三枝を見る。


三枝は表情を変えない。


三枝「半年前、九条さんは救助直前まで壁の奥を見ていました。事故後、九条さんだけに公理表示が強くなった。通知も九条さんにしか直接見えていません」


九条「つまり、ぼくの何かが残した可能性がある」


麻里「真先生が、真先生に言ってるの?」


九条「断定はできない」


麻里「それ、ちょっと怖い」


九条「ぼくも怖い」


璃子「ただし、先輩の未来人格とか、万能の別存在として扱うのは早いです」


九条「そこまでは言っていない」


璃子「考えそうなので先に止めました」


九条「信用がない」


璃子「ここでは警戒です」


七瀬が続けた。


七瀬「斬る対象ではありません」


九条は七瀬を見た。


七瀬「通知も、境界も、たぶん敵の本体ではない。壊せば終わるものではありません。近づきすぎると巻き込まれる。だから距離を取る」


麻里「世界三位、斬らないのも強い」


七瀬「必要です」


九条「昨日、それを見ました」


七瀬は半年前の壁を斬らなかった。


斬れなかった壁の前で、今度は斬らないことを選んだ。


九条には、その判断がずっと残っていた。


璃子「三つ目の仮説を整理します」


三枝が紙に書く。


『仮説三:通知は、九条真の観測と半年前の境界が接続した結果生じた、壊れた条件表示』


麻里「長い」


三枝「正確にすると長くなります」


麻里「行政っぽい」


三枝「はい」


九条は一覧を見直した。


『Mを混ぜるな。式が壊れる。』


胸の奥が痛んだ。


九条自身ではない。


その一文を見ないようにしている麻里の横顔が、痛かった。


麻里は布袋の紐を強く握っていた。


九条「麻里」


麻里「うん」


九条「この文は、君を外せという意味ではない」


麻里「分かってる」


答えは早かった。


早すぎた。


璃子が、少しだけ眉を寄せる。


麻里は布袋を抱えたまま、小さく続けた。


麻里「分かってるけど、痛いのは残ってる」


九条は何も言えなかった。


麻里「Mを混ぜるなって、私がいたらだめみたいだった。深く連れていくなって、私だけ置いていかれるみたいだった」


璃子「麻里」


麻里「でも、外れない」


その声は、いつものふわふわしたものではなかった。


麻里は顔を上げた。


麻里「私を入れると危ないかもしれない。でも、私がいない方が安全って勝手に決められるのも嫌。だから、距離を決める。手順を守る。くろまるにも近づきすぎない。でも、外れない」


七瀬が頷いた。


七瀬「良い判断です」


麻里「世界三位に言われると、ちょっと強くなる」


九条「ぼくが言うより効くな」


璃子「今は効く方を採用します」


九条「合理的で少し傷つく」


麻里は少し笑った。


痛みは消えていない。


だが、痛いままそこにいることを選んだ。


九条はノートに書いた。


『Mを混ぜるな=麻里排除ではない』


『閉じた式へ無理に代入するな』


『麻里本人の意思を条件から外さない』


書き終えた時、視界の右下が白く揺れた。


全員が九条を見た。


璃子「出ていますか」


九条「ああ」


九条は読み上げる前に息を整えた。


『排除ではない』


麻里の肩が、少しだけ下がった。


九条は続ける。


『代入するな』


『閉じるな』


『戻すな』


文字が乱れた。


一度消えかけ、また現れる。


『まだ戻すな』


『全部戻すな』


『戻る判断だけを残せ』


面談室の音が消えた。


璃子の指が、キーボードの上で止まる。


三枝のペンも止まった。


七瀬の視線が鋭くなる。


麻里が小さく言った。


麻里「全部戻すな」


九条は、その言葉をゆっくり繰り返した。


九条「戻る判断だけを残せ」


璃子が顔を上げた。


璃子「危険です」


九条「分かっている」


璃子「通知が正しいことを言っているように見えても、その通りに人や記録を削る理由にはなりません」


九条「分かっている」


璃子「全部戻すな、という言葉は、誰かの記憶や場所を戻さない理由に使えます。戻る判断だけを残せ、という言葉は、他の痛みを切り捨てる理由にもなります」


九条は璃子を見た。


璃子の声は怒っていた。


冷静な形をしているだけで、確かに怒っていた。


九条「だから、この通知を命令として扱わない」


三枝「扱いは」


九条「照合対象です」


七瀬「斬る対象でも、従う対象でもない」


九条「はい」


麻里「友だちでもない?」


九条は少し考えた。


九条「まだ分からない」


麻里「じゃあ、迷子?」


九条「迷子の条件だな」


璃子「また変な言い方を採用しないでください」


九条「今回は少し良いと思う」


璃子「良くありません」


それでも、空気は少しだけ戻った。


九条は通知を書き写した。


『全部戻すな。戻る判断だけを残せ』


その一文は、危険だった。


あまりに核心に近い。


赤いベンチ。


探索をやめたい。


戻る判断も探索技術。


救助継続中。


保存された境界。


すべてがそこへ向かっている。


だからこそ、危険だった。


正しい言葉は、人を傷つける理由にもなる。


九条は、初めてはっきり思った。


証明できることと、証明していいことは違う。


今までも、そう感じたことはあった。


空洞を戻さなかった時。


璃子を記録媒体にしなかった時。


麻里を単独条件にしなかった時。


けれど今は、それが感覚ではなく、条件として見えていた。


視界に薄い文字が浮かぶ。


『命題候補:境界記録の選択的復元』


『効果予測:保存された境界内の一部記録を復元可能』


『副作用予測:未確定』


『対象語句:救助継続中/未帰還/戻る判断』


『注意:証明可能』


『注意:証明推奨せず』


九条の呼吸が止まった。


璃子がすぐに気づく。


璃子「何が見えました」


九条「証明できる、と出ている」


麻里「できるの?」


九条「ああ」


三枝「何をですか」


九条「境界記録の選択的復元。保存された境界内の一部記録を戻せる可能性がある」


七瀬「副作用は」


九条「未確定」


璃子「証明推奨は」


九条「されていない」


璃子「では、しません」


即答だった。


九条は机の上の万年筆を見た。


手を伸ばせば届く。


半年前のQ.E.D.


読めなかった式。


救助継続中。


未帰還。


戻る判断。


そのどれかを、もしかすると戻せる。


けれど。


戻したものが、本当に戻るべきものか分からない。


戻したせいで、誰かが消えるかもしれない。


戻る判断だけを残すつもりで、戻らなかった何かまで引きずり出すかもしれない。


九条の指が、ほんの少し動いた。


璃子は何も言わなかった。


止める声を出さなかった。


その代わり、九条を見ていた。


麻里も見ていた。


七瀬も。


三枝も。


誰も、万年筆を奪わなかった。


奪われて止まるのでは意味がない。


九条が、自分で止めなければならなかった。


九条は、伸びかけた手を膝の上に戻した。


九条「しない」


麻里が、息を吐いた。


璃子は黙って頷いた。


七瀬は壁際から少しだけ離れた。


七瀬「良い距離です」


九条「まだ手が震えているので、あまり良くはないです」


七瀬「震えていても、止まっています」


三枝は紙台帳に書いた。


『命題候補あり。証明せず』


『理由:証明可能性と実施妥当性が一致しないため』


九条は、その文を見た。


行政文書のくせに、やけに正確だった。


九条「三枝さん」


三枝「はい」


九条「それ、採用します」


三枝「どこに」


九条はノートを開いた。


最後の行に、ゆっくり書く。


『証明できることと、証明していいことは違う』


書き終えた瞬間、空欄通知は消えた。


警告もない。


褒め言葉もない。


ただ、面談室の白い照明だけが残った。


麻里「消えた」


璃子「はい」


麻里「怒ってない?」


九条「分からない」


麻里「寂しい?」


九条は少しだけ黙った。


九条「少しだけ」


璃子「先輩」


九条「分かっている。寂しさで命題は書かない」


麻里「それ、すごく大事そう」


三枝「記録しますか」


九条「しなくていいです」


三枝「もう書きました」


九条「行政が早い」


七瀬「今日はここで終わりです」


その一言で、全員が少しだけ息を吐いた。


九条は万年筆を閉じた。


今日は、証明しない。


半年前のQ.E.D.は、まだ読めない。


保存された境界も、まだ閉じたままだ。


空欄通知の正体も、分からない。


それでも、ひとつだけ分かった。


分からないものを、すぐ答えにしないこと。


証明できる命題を、あえて保留すること。


その二つは、逃げではない。


たぶん、次に進むための条件だった。


麻里は布袋を抱え直した。


麻里「じゃあ、今日も帰るの勝ち?」


九条「ああ。今日はかなり勝ちだ」


璃子「勝ちという表現は雑ですが、採用します」


三枝「管理局記録には、撤退判断および命題提示保留と記載します」


麻里「行政、勝ちって書かない」


三枝「書けません」


七瀬「現場では、それで十分です」


九条はノートを閉じた。


表紙の端に、さっきの一文が少しだけ透けて見える気がした。


『証明できることと、証明していいことは違う』


世界はまだ雑だった。


雑で、残酷で、時々正しいことを言う。


だからこそ、全部を信じてはいけない。


全部を疑ってもいけない。


九条は椅子から立った。


足元は、まだ少し頼りない。


けれど、倒れなかった。


璃子「先輩」


九条「何だ」


璃子「帰ります」


九条「ああ」


麻里「柿の葉寿司は?」


三枝「管理局の面談室では不可です」


麻里「行政、最後まで強い」


九条「外で食べよう」


麻里「勝ち寿司」


璃子「名前を増やさないでください」


七瀬「封印確認後なら問題ありません」


麻里「世界三位が許した」


璃子「七瀬さんが許すと麻里が増えます」


九条「今日は増えてもいい」


璃子「よくありません」


そんな会話をしながら、面談室の扉が開く。


白い廊下。


廊下の自動販売機。


紙台帳を抱えた三枝。


保管ボックスを持つ七瀬。


猫柄の布袋を大事そうに抱える麻里。


ノートパソコンを閉じた璃子。


そして、万年筆を胸ポケットに戻した九条。


誰も、半年前の壁を開けなかった。


誰も、空欄通知を名前で呼ばなかった。


誰も、戻らなかった何かを無理に戻さなかった。


それでも、全員で帰った。


その判断だけは、消えなかった。


――第十九話 了。

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