第9話 養女としての立場
「おかえりなさい。どうだったかしら、うまく演奏できたかしら」
馬車から降りてエントランスホールまで行くと、義理の母のイザベラが心配そうな顔で出迎えた。
「大丈夫よ。とても広いお屋敷で、マリア夫人はとても優しかったわ。ね、フリージア」
「え、えぇ…一生懸命願いをこめたので、ご友人のお父様は、これから少しの間は楽になると思うんだけれど…」
「そう、それなら良かったわ。マリアは、ずっとお父様の状態に心を痛めていたから……。ありがとう」
俯いていたフリージアが顔をあげると、イザベラと目が合った。
(えっ…今のありがとうは、私に言ったの…??)
いつものように、ダリアに言っているのかと思っていたフリージアは困惑する。
そんなイザベラとフリージアの様子を、無表情で見つめていたダリアが静かに口を開く。
「フリージア、演奏で体調を悪くしてたじゃない。休んだ方がいいと思うわ」
「あっ、そうね。自室で少し休むわ」
予定通り、屋敷にはお昼前に戻ってきていたため、フリージアはファビウスとの約束の時間まで、少し休むことにした。
◇◇◇◇
(ん…ゆっくり寝られた…わっ!?)
ベッドで目を覚ましたフリージアは、自分がどれだけ寝てしまったか確認するために、慌てて窓の外を見る。
幸いにもまだ外は暗くなっておらず、少しずつ日が暮れ始めもうすぐ夕方がくる、そんな時間に奇跡的に起きられた。
「良かったわ、寝過ごしたかと思ったわ…」
フリージアは、店のファビアスへ出かけるために準備を始める。
外出用の華美すぎないドレスに着替えると、フリージアはエントランスホールを歩いていたセバスチャンを小声で呼ぶ。
「セバスチャン、ちょっといいかしら」
「フリージア様、どうされましたか」
「あのね、これからちょっと街に出てくるわ。暗くなる前には戻るから」
「また、お1人で行かれるのですか?今日は奥様のご友人宅へ行かれて、フリージア様はお疲れのご様子とお聞きしました。今日は行かれるのは、おやめになった方が宜しいのではないでしょうか」
セバスチャンは、本当に心の底からフリージアを心配しているようだった。
「分かってるわ。だから、そんなに長くは外にいないでまた戻るから…お願いっ!家族の誰かに聞かれるまで、私が外出していることを内緒にしてて…!」
セバスチャンは要求を受け入れていいものか悩んだが、このシード家の中で肩身の狭い思いをしているフリージアを思うと、街でのびのびできるのであれば、それはそれで良いことなのかもしれないと、フリージアの思いを受け入れる。
「分かりました。それでは必ず暗くなる前に帰ってきてくださいね。それから、ご家族の誰かに聞かれましたら、私は正直に話しますよ」
「うんっ、ありがとう!」
フリージアは心配そうに見送るセバスチャンに手を振り、屋敷を出て街へと徒歩で向かう。
まだ疲労感は残っていたが、少し寝たおかげでピアノの演奏はやめておけば大丈夫なくらいには体調が戻っていた。
(今日はファビウスと話すだけにして、その後帰れば大丈夫だわ)
ファビアスに着くと、なんと今日は店内が人で溢れかえっていた。昨日と一昨日の2日間の演奏だけで、こんなにも人が来るのかと、願いの効果をかけたフリージア自身も驚いた。
中に入ろうとするが、出入口の扉にまで人がごった返しており、フリージアは店内に入ることもできず外で途方に暮れる。
(ファビウスは、もうお店に来ているのかしら…)
店内にいるのか探そうにも、多過ぎる人のせいで中が全く見えない。
フリージアは体を左右にゆらゆらさせながら、爪先立ちになりどうにか中を覗こうと奮闘する。
ファビウスは背が高いので、人混みからも頭1つ、2つは抜きん出ているだろう。
少しでも中が見られれば、いるかどうか確認できるはず。
すると、フリージアの肩をトントンと指で叩かれる感覚があった。
振り向くと、そこには笑うのをこらえているファビウスの姿があった。
「あっ、良かった!ファビウスさん、会えた!中にいらしてたら、どうしようかと思っていたんです。たくさんの人で私、中に入れなくて」
「あぁ、それで爪先立ちでぴょんぴょんしながら、中を覗いていたんですね」
クスッと楽しそうに目を細めて笑うファビウスに、フリージアは自分の行動が恥ずかしくなってくる。
「ずっと後ろで見ていたのですか?それなら、声をかけてくださればいいのに」
「すみません、わざと声をかけなかったわけではないんですが、様子があまりにも可愛くてつい」
(か…可愛…!!?)
フリージアは、ファビウスの言葉につい顔がニヤけてしまう。
「本当に店内は多くの人で、これでは私たち2人は入れませんね。どうしますか…」
ファビウスは、周りをキョロキョロと見渡す。
明るいうちに店外でファビウスに会ったのは今日が初めてで、改めてファビウスを見つめその端正な顔立ちに思わず魅入る。
瞳は黒い髪よりはやや薄いグレーの色をしており、見ていると吸い込まれそうなほど綺麗だ。そして、服から出ている少し筋肉質な腕、それに反して美しく長い指、そして大きい手。
2人とすれ違う女性が、次から次へとファビウスの方を振り替えり、目を潤ませたり口をあんぐり開けたり、立ち止まってじっと見つめたりしている。
フリージアは、見惚れる女性達の気持ちがよく分かった。自身も、こんなに見た目の良い男性を今まで見たことがない。
(どこのお家柄の方なのかしら…)
フリージアもファビウスも、出会ってから今まで互いの家のことを話したことも聞いたこともない。
気にはなるが、聞いてしまうとなんだか一気に現実に引き戻される感じがして、今はまだこの宙ぶらりんな関係でいたい思いがあった。
「店のファビアスが空くまで、あそこの店に入って話しませんか?」
ファビウスは、店ファビアスの斜め向かいのスイーツ店を指さす。
そこは1席1席が半個室になっており、周囲の目を気にせずゆっくり休めそうだった。
「少し個室のようになっているので、私と2人になるのが嫌でしたら他の店に…」
「ぜんぜんっ!嫌ではないです!むしろ、半個室になっていた方が私は都合がいいので、かえって良かったです」
(誰かにファビウスといる所を見られると、あとあと面倒くさいことになりそうだし)
フリージアは、ダリアとの演奏を依頼した人や、シード家の知り合いに出くわすことは避けたかった。
店ファビアスでも同様のことが言えるが、あそこは外観からは何の店か分かりにくいこともあり、身分の高い人は入るのを警戒しそうなため、あまり心配していなかった。
だが、スイーツ店ともなると多種多様な人が集まるため、注意深くなってしまうのだ。
2人はスイーツ店に入り席に座ると、注文を取りに来た店員の女性がファビウスを見るなり、ボーッと見惚れとろけそうな顔で見つめていて、注文を取ることを忘れているようだった。
そういう女性は今までたくさんいたのか、ファビウスは全く気にする素振りを見せず、普通に注文をする。
思わず店員の女性を見いるフリージアにも、何を食べたいのか聞いてくれ、注文をしてくれた。
注文を終えた後も、女性はなかなか立ち去ろうとしなかったが、ファビウスに注文は終わりです、と淡々と言われ、ハッと顔を赤くして慌てて下がって行った。
フリージアは、まじまじとファビウスの顔を見る。女性なら誰しもが振り返るような、その煌びやかな容姿。
(なんでファビウスは、私なんかと一緒にいるんだろう…)
平凡な自分とは釣り合っていない気がして、自信を失うフリージア。
「どのケーキも美味しそうでしたので、食べるのが楽しみですね」
「そうですね…」
「…どうしました、気分がすぐれませんか?」
ファビウスが手を伸ばし、フリージアの手を優しく握る。
グレーの瞳が、フリージアを心配そうに見つめている。
「あっ…ごめんなさい、大丈夫です!」
フリージアは自分の気分だけで、ファビウスを振り回してはいけないと、気持ちを切り替えようとする。
「当初はファビアスの店でという話だったのに、無理やりここに連れてきてしまい、すみません」
「そんな、私は気にしていないので大丈夫です…!」
「そうですか、良かったです。…半個室の方が都合がいいと言われてましたが、理由をお聞きしてもいいですか?」
「私が個室の方がいいと言ったのは…、私が、ファビウスさんと一緒にいるところを、知り合いに見られるのを避けたかったから…です」
「見られると、何か不都合があるのですか」
「えっと…、その、家族に知られたくないというのがまず一つありまして…あっ、あの、それは、私の家族事情が関係していまして」
「家族事情、ですか?」
「私は実の父と母を事故で亡くしまして、それで父の弟方の家族に養女として引き取っていただいたのです。育てていただいているご恩を考えると、その…男性と勝手に…」
「会ったり恋愛関係になるのは気が引ける、ですか」
「はい…」
公爵家の令嬢ともなると政略結婚が一般的で、自由恋愛で結婚などほぼないに等しかった。
先日のソフィアの結婚式は、本当に珍しかったのだ。
だからこそ、ソフィアは藁にもすがる思いでフリージア達に演奏を頼んできたのだ。
「あと…ピアノを人前で演奏することも、よく思わないかもしれなくて…」
「なぜです?」
「それは…」
フリージアが言い淀んでいると、注文したケーキセットが届き会話を阻んだ。