第1話 渋谷区在住のおじさん、魚になる
目を覚ますと、海だった。
暗い。青いというより、黒い。頭上を見上げると、遥か上に水面らしき光が揺れている。
水深は五十メートルくらいだろうか。
なぜ分かるのか。釣り人だったからだ。
いや、釣り人でもあったからだ。
前世の俺は、東京都渋谷区に住む四十代のおじさんだった。
職業は――自分でもよく分からない。
名刺には「コンサルタント」と書いてあったし、SNSでは「投資家」を名乗っていた。月に一度はホテルの会議室を借りて人生について語り、オンラインサロンもやっていた。
何を教えるサロンだったのかは、今となってはよく覚えていない。
参加者からは、いつの頃からか「教祖」と呼ばれていた。
別に宗教を始めた覚えはない。
ただ俺は、「高級なものには魂が宿る」とか、「新宿駅の半分は渋谷区だ」とか、そういうことを説いていただけだ。
高級時計、高級車、高級ホテル、高級寿司。
値段が高いものには、それだけの魂が宿っている。
新宿駅については……まあ、渋谷区民として譲れないものがあった。
そんな話をしていた。
情報商材っぽい?
失礼な。
思想だ。
そんな俺にも、仕事より真面目にやっていることが一つだけあった。
釣りだ。
伊豆半島。静岡県伊東市、川奈。
俺は暇さえあればそこへ通い、海にコマセを撒いていた。
コマセとは、魚を寄せるために海へ撒く餌のことだ。俺が使っていたのは、小さなアミエビを凍らせたもの。それを海中へ撒けば、匂いと餌につられて魚たちが集まってくる。
俺はそれを、「福音」と呼んでいた。
魚たちは信者。
海は集会場。
そして俺は教祖。
……こうして並べてみると、やっぱり宗教だったのかもしれない。
まあいい。
問題はそこではない。
俺はいま、その海の中にいる。
しかも息ができる。
口を開けても苦しくない。身体を動かそうとすると、腕がない。脚もない。
代わりに、ひらひらしたものが動いた。
ヒレだ。
「…………」
声も出ない。
嫌な予感がした。
身体をひねって、自分の姿を確かめる。
赤い。
俺は赤かった。
しかも目がでかい。
異様にでかい。
この姿を、俺は知っている。
釣り人なら――いや、釣り人でも知らない人のほうが多いかもしれない。
チカメキントキ。
キンメダイではない。
キントキダイでもない。
チカメキントキだ。
なんでよりによって。
もっとあるだろ。
マダイとか。ブリとか。
せめて知名度のある魚にしてくれ。
俺はチカメキントキになっていた。
意味が分からない。
いや――最近、釣りたいと思っていた魚ではある。
伊豆の深い海にいる赤い魚。
いつか釣ってみたいと思っていた。
思ってはいたが。
自分がなるとは言っていない。
しかも、死んだ記憶もない。事故に遭った覚えもない。トラックにも轢かれていないし、女神にも会っていない。
なのに俺は、伊豆の海でチカメキントキになっていた。
そのときだった。
上から、何かが降ってきた。
赤みがかった小さな粒が、暗い海の中を雪みたいに舞いながら沈んでくる。
身体が勝手に反応した。
腹が減っている。
ものすごく、うまそうだ。
そして、この落ち方。
間違いない。
コマセだ。
さっき自分で思い出していた、あのアミエビのコマセ。
人間だった頃は撒く側だったものが、今は頭上から降ってきている。
俺は反射的に泳いだ。
一粒食う。
うまい。
もう一粒。
うまい。
止まらない。
俺は夢中でコマセを食った。
そこで、ふと思った。
待て。
これ、人間だった頃に俺が魚へ撒いていたやつじゃないか。
魚になって初めて分かった。
コマセって、めちゃくちゃ嬉しい。
これは餌じゃない。
恵みだ。
救済だ。
天から降り注ぐ――福音だ。
…………。
いや。
俺、魚になっても同じこと言ってるな。
その瞬間。
水面の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「来ましたぞーーーー!!」
聞き間違えるはずがない。
この声。
俺は水面を見上げた。
白い船体が見える。
ただの船じゃない。
あれは――海上レクサス。
俺がそう呼んでいたプレジャーボート、いや、クルーザーだ。
その船上に、一人の男が立っていた。
白装束。サングラス。片手にはコマセ。
もう片方には、なぜか分厚い本を抱えている。
表紙には、『海の経典』と書かれていた。
男は満面の笑みで海を覗き込んだ。
「信者が来ましたぞーーー!」
俺は固まった。
知っている。
誰よりも知っている。
あの顔。
あの声。
あの服。
あの意味不明な言動。
あの男を、俺は知っている。
あれは教祖だ。
違う。
そうじゃない。
もっと正確に言えば――
あれは、俺だ。
俺は魚になった。
なのに。
俺が、まだ人間のまま海の上にいる。
どういうことだ。
考える間もなく、目の前にコマセが落ちてきた。
俺は食った。
…………うまい。
いや、食ってる場合じゃねえ。
こうして、渋谷区在住の四十代のおじさんだった俺の、魚としての生活が始まった。
そしてこの時の俺はまだ知らなかった。
なぜ俺がチカメキントキになったのか。
なぜ人間だった俺が、まだそこにいるのか。
そして――
この海で俺が、自分の撒いた福音を食い続けることになるとは。
【教祖と海の経典】
■ オキアミ
釣りでよく使うエサですな。
撒けば魚が寄り、針につければ付けエサとしても使える逸品ですぞ。
海の者にとっては福音でも、人間にとってはただのエサですな。
ちなみに私はコマセアレルギーになってしまったので、皆さんもお気をつけくだされ。
あと、とても臭いますぞ。
■ 海上レクサス
レクサスの高級クルーザーですな。
無論、わたくしの私物ですぞ。
■ チカメキントキ
キントキダイ科の海水魚ですな。
全長はだいたい三十センチほど。
目が大きいのが特徴で、深いところにもおります。
主人公のくせに、世間での知名度はいまひとつですな。
■ キンメダイ
伊豆半島では名の知れた魚ですな。
煮付けは実にうまいですぞ。
旅行で食べるなら、ここで節約して小さいものを頼んではいけませんぞ。
せっかくなら大きいやつを食うべきですな。




