第33話 三葉の若手技術者を引き抜く
数日後の休日。
相馬直人が、西原鋼業へ見学に訪れた。
「工場へ入る前に、確認していただきたいことがあります」
俺は、見学可能な範囲と禁止事項を記載した書面を差し出した。
「工場内の写真撮影は禁止。非公開の製造工程や、配合条件を扱う区画には入りません」
「承知しています」
「相馬さんは、現在も三葉物産の社員です。こちらの試験に対する助言や、作業への参加も認められません。三葉の業務情報についても、一切話さないでください」
「ええ。今日は転職先候補を、自分の目で確認するために来ただけです」
相馬が署名し、西原も見学条件を確認した。
案内したのは、公開比較試験で使った変形済みの試験モデル。
外部への開示が認められているKUJO-G規格案。
そして、通常の取引先にも見せている製造区画だけだ。
三葉物産の巨大な研究施設と比べれば、設備は古く、規模も小さい。
空調の整った専用研究室も、最新鋭の分析装置もない。
相馬は設備の古さに驚いた様子だったが、やがて別の場所で足を止めた。
西原と職人たちが、次の試験体の形状について図面を囲んでいる。
その横では、芽衣が利用者から寄せられた質問を読み上げ、警告表示の見せ方について意見を伝えていた。
「柄に近すぎると、戦闘中に手で隠れませんか?」
「じゃが、負荷が出やすい場所を無視して線の位置を決めるわけにもいかん」
「なら、線の位置を固定するんじゃなくて、使用者が確認しやすい角度を説明書に入れた方がいいかも」
現場の疑問が、その場で製造側と利用者側の担当へ届いている。
大企業なら、技術部門、営業、法務、品質管理を経由して何度も会議を重ねるような話を、彼らは図面を囲んだまま進めていた。
「……ここで決めるんですか」
相馬が小さく呟いた。
「検討を始める判断は、ここでできます」
俺は答えた。
「ただし、各社の費用や責任が変わる話は別です。見積もりと書面を作り、関係する工場の承認を取らなければ動かしません」
「思いついたその日に、全部変えるわけではないんですね」
「判断が速いことと、手続きを省略することは違います」
相馬は、もう一度図面を囲む職人たちへ視線を戻した。
彼が求めているのは、無責任な速さではない。
仮説を立てた後、実物へ触れるまでの距離が短い環境だ。
*
見学を終えた後。
西原鋼業の応接室で、俺は相馬へ正式な雇用条件書を渡した。
給与。
社会保険。
勤務場所。
研究と検査の担当範囲。
試験を開始する際の承認手順。
秘密保持、知的財産の帰属、三葉の情報を利用しない義務。
安全確認を省略しないこと。
入社日は、三葉物産での退職手続きがすべて完了した後とする。
口約束でも、無償の協力要請でもない。
給与と責任を伴う、正式な雇用の提案だった。
「一度持ち帰り、ご家族と専門家、それから三葉の人事や法務にも確認してください」
相馬は条件書をめくり、ある項目で手を止めた。
「資金留保条件……?」
「相馬さんを迎えるための人件費と、最低限の検査環境を維持する資金を確保できた場合に限り、契約を発効します」
俺は正直に説明した。
「現在の九条補給店には、工場への支払いを守るために借りた短期資金と、個人保証があります。その金は用途が限定されているので、あなたの給与や設備費には一円も使えません」
「つまり、条件を提示できても、今すぐ雇えるとは限らない?」
「はい」
夢だけを見せて退職させ、入社後に給与を払えないような真似はできない。
「少なくとも、六か月分の給与、社会保険料、設備のリース料、必要な外部分析費を別口で確保します。それができるまでは、三葉を辞める判断をしないでください」
相馬はしばらく黙って俺を見ていた。
「そこまで、先に書くんですね」
「生活を捨てて飛び込めとは言えませんから」
相馬は条件書を閉じ、鞄へしまった。
「分かりました。私も、条件が整うまでは退職届を出しません」
採用の意思だけでは、人は雇えない。
ここでも必要なのは、約束を実行するための資金だった。
*
俺が資金を確保するために組み直したのは、桐生陽菜向けの専用供給契約だった。
無制限の供給や、将来の製品代を先に受け取るのではない。
彼女の高出力環境に合わせた試験計画。
使用後に回収した装備の破損解析。
赤線発生条件の記録。
外部機関による成分分析と負荷試験。
これらを製品代とは分けた、有償の『専用仕様検証業務』として契約書へ追加する。
陽菜と装備担当者、協会の連絡担当者へ、費用の内訳と検証範囲を提示した。
得られた結果をKUJO-G規格案へ利用する場合は、陽菜個人の魔力特性や非公開の戦闘情報を除き、匿名化した製造データに限る。
検証が失敗しても、完成品の供給を保証するものではない。
その条件を確認したうえで、陽菜は契約の追加条項へ同意した。
これは出資でも、好意による援助でもない。
陽菜が安全に使用できる専用装備を検証するための、正当な業務委託だ。
検証費は専用の口座へ前払いされ、使途も記録する。
相馬の人件費についても、陽菜向けの解析業務へ従事した時間分だけを、この検証費から支出する。
一般向けの研究開発費まで、陽菜へ負担させることはできない。
それでも、専用検証業務と、手元に残るわずかな販売収入を組み合わせることで、相馬の給与と最低限の設備費について、六か月分の留保資金を確保できた。
俺は入金と資金使途を確認した後、初めて相馬へ契約発効の通知を送った。
*
それから数週間後。
相馬は三葉物産での引き継ぎと、正式な退職手続きを終えた。
貸与端末、資料、試料、記録媒体をすべて返却。
秘密保持、知的財産、競業条件についても、人事と法務の確認を受けた。
「三葉の機密は、一切持ち込んでいません」
西原鋼業へ合流した初日。
相馬は、俺たちの前で改めて宣言した。
「分かっています。こちらからも、三葉在籍中の研究内容は聞きません」
これから使うのは、公開情報。
九条補給店が権利を持つ試験記録。
西原鋼業が製造した試験体。
そして、今後自分たちで取得するデータだけだ。
相馬の研究場所として、西原鋼業の空き部屋を借りた。
既存設備で使えるものは、所有者と利用条件を確認したうえで借用する。
不足するものだけを、中古購入かリースで補った。
中古の実体顕微鏡。
試験片の切断・研磨器具。
硬度計。
画像記録用カメラ。
データ管理用のパソコン。
小型の試験治具と、安全保管庫。
高度な成分分析や大型の負荷試験は、外部の専門機関へ委託する。
大企業の研究所には遠い、最低限の環境だった。
「人を一人雇うっちゅうのは、給料だけでは済まんのじゃな」
西原が、機材と安全設備の見積書を見ながら頭を掻いた。
相馬の給与と社会保険。
設備のリース料。
試験片と消耗品。
外部分析費。
今後増加する検査費用。
六か月分を確保できたからといって、資金問題が解決したわけではない。
期限が、少し先へ延びただけだ。
短期借入と個人保証も、そのまま残っている。
相馬を迎えた月から、売上の有無にかかわらず固定費は発生する。
新しい能力を維持するには、六か月以内にG0と点検事業を、実際の収益へ変えなければならなかった。
*
「最初の提案があります」
合流して間もなく、相馬が俺たちを簡易研究室へ呼んだ。
「現在、赤線の発生判定は、職人の目視と撮影者ごとの写真に依存しています。このままでは、工場や照明によって判断がぶれます」
パソコンの画面には、九条補給店側で撮影した試験体の画像が並んでいた。
同じ赤色でも、照明の強さや撮影角度によって、見え方が大きく異なる。
「照明、撮影距離、角度を固定し、画像上の色差を数値化します」
相馬が、仮の条件表を表示した。
「『赤線が出たかどうか』を、撮影者の感覚だけで決めない。どの数値から警告表示ありと判定するかを、試験手順として揃えるんです」
対魔鋼の配合を劇的に変える発明ではない。
だが、赤線という機能を、職人ごとの感覚だけに頼らず判定するための重要な改善だった。
「必要なサンプル数と、試験条件を出してください」
俺が言うと、西原が手を上げた。
「試験体を作れるかと、追加工数はわしが確認する。勝手に炉の予定へ入れるなよ」
「もちろんです」
相馬が頷く。
「見積もりと承認が出るまで、試験は始めません」
相馬が試験計画と判定方法を作る。
西原が製造可能性と試験体の準備を確認する。
俺が予算上限と、外部検査先を決める。
芽衣が、判定基準を利用者へ誤解なく伝える方法を考える。
その日のうちに、見積もりと準備資料の作成が始まった。
「……もう、動くんですね」
相馬が少し驚いた顔をした。
「試験を始めるための検討は、今日からできます」
俺は答えた。
「ただし、結果が出る前に規格へ入れることはしません。速度は武器ですが、品質確認は省略しない」
相馬は一瞬だけ言葉を失い、それから嬉しそうに頷いた。
「はい」
*
同じ頃。
三葉物産本社。
新規事業部長の御堂龍之介は、相馬直人の退職完了報告へ目を通していた。
引き継ぎに問題はない。
機密を持ち出した形跡もなく、競業条件にも違反していない。
法的に責める理由は、どこにもなかった。
九条は製造拠点だけでなく、研究解析の能力まで自分の側へ加えた。
「部長。海外メーカーの候補資料が上がってきました」
担当者が、御堂の机へファイルを置いた。
海外で製造されている、魔力耐性装備の候補一覧。
九条側の想定価格より、大幅に安く供給できる可能性がある。
赤色の警告表示に似た機能をうたい、現地で取得された試験資料も存在する。
一方で、国内ダンジョン環境におけるデータは不足していた。
複数ロット間の品質差についても、追加確認が必要だ。
「調達交渉と、国内試験、法務審査を並行させますか」
担当者が尋ねた。
「進めろ」
御堂は資料を閉じた。
「ただし、価格だけで飛びつくな。国内試験を最優先で回せ」
「市場投入を急ぐのでは?」
「急ぐことと、確認せずに売ることは違う」
御堂は冷たく言い切った。
「必要な条件を満たしたと確認できたものだけ、輸入と販売の検討へ進める」
海外製品は、まだ国内市場へ出ていない。
だが三葉物産は、圧倒的な調達力と価格差を武器にする、次の選択肢を動かし始めていた。




