第29話:魔女と夜を見上げる塔
陽が傾き、空の色が藍へと移ろいはじめる頃、私たちは星見塔へ向かっていた。
観測部門からの依頼。内容は、器材の搬入と設置、そして夜間における周囲の警戒支援。緊急性も危険度も高くはない。けれど、塔での観測というのは少し珍しい気もする。
彼女は私の少し前を歩きながら、ふと足を止めた。
「……ここ、思ったより高い場所にあるんですね」
言葉の調子はいつも通り。けれど、視線の先には、斜面の先に浮かびはじめた塔の姿があった。
「ええ。観測には都合がいいのでしょうね」
私も立ち止まり、塔を見上げる。まだ日没前だというのに、その外壁には淡く青白い光が浮かび始めていた。魔法陣や装飾のような模様が、ほんのりと呼吸するように明滅している。
初めて目にする塔だが、奇をてらったものではない。むしろ構造は簡潔で、古い時代の設計様式を思わせる。
(……この文様、どこかで見た記憶があります)
浮かぶ刻印のひとつに、私は見覚えがあった。星座をかたどった線と、その周囲を巡る魔力円。かつて研究塔の一角に、似たような装飾があったはずだ。天文と魔法を結びつけて研究していた時代──遠い記憶が、ほんのわずかに胸をかすめる。
「……行きましょうか」
彼女はうなずき、再び歩き出す。相変わらず表情には変化はないけれど、その横顔に、わずかな観察の光が差していたようにも見えた。
塔の入口には、すでに数名の職員が待機していた。
全員が白を基調とした軽装に身を包み、それぞれの手には測定具や魔導板が収められている。
一人の青年が私たちを認めると、軽く頭を下げた。
「依頼の補助員の方ですね。今夜は観測機材の搬入と設置、それと魔力異常への警戒をお願いしています」
「承知しました」
「塔の上層は階段移動になりますが、一部の器材は転送術式で先に搬送済みです。 そちらの設置と点検をお願いします。詳細はこの魔導板に」
渡された板に簡易な見取り図と作業手順が表示されていた。私はそれを受け取り、内容に目を通す。
「階段、多そうですね」
「たしかに。けれど、そのぶん空に近づけるとも言えますね」
私の言葉に、彼女は返事をしなかった。ただ一歩だけ、私の隣へ歩み寄る。
そのまま、二人で塔の内部へと足を踏み入れる。
そこに何があるのか、まだよくは分からない。けれど、ほんの少しだけ、好奇心が前に出る。
* * *
塔の内部は、外観から想像するよりも静かだった。
石造りの壁に沿って続く螺旋階段は、ところどころに魔法灯が設けられており、黄味がかった光が足元を照らしている。音を吸うような空気の中、靴音だけが反響していた。
私たちは最上層を目指していた。観測機材の搬入と設置、そして夜間の監視任務。依頼内容は明確だが、塔の内部をここまで上るのは初めての経験だ。
途中、いくつかの踊り場が設けられていた。古い塔らしく、通路の幅は狭いが、段差や傾斜に不安定さはない。管理はきちんとされているらしい。
時折、壁面の文様が魔力に反応するように淡く光を帯びるのが目に留まった。何かを感知しているのか、それとも……。
「……静かですね」
「ええ。街の音も、もう聞こえません」
その事実に、私は少し遅れて気づいた。塔の高さと、この静けさ。
街の喧騒が遠ざかった分、耳に入るのは自分たちの息遣いと、石のきしみだけだ。
やがて、最上層の扉が見えてくる。
重厚な魔力封鎖が施された扉は、職員の魔法印で解錠されたあと、わずかな音を立てて開いた。
その先に広がっていたのは、想像よりもずっと広く、そして静かな空間だった。
天井は高く、中央には巨大な望遠鏡。周囲の床には魔力測定器や転送機材が配置されており、いくつかの職員が黙々と調整作業を進めている。窓のない外周には、魔法陣を応用した観測スリットが並び、空と連動するように淡く開閉していた。
私は、転送術式で届いた機材の箱を魔法で浮かせ、所定の場所へと運ぶ。配置図と照らし合わせながら、注意深く並べていくと、近くの職員がこちらに目を留めて小さく頷いた。
「……手慣れてますね」
「昔、似たような設備のある場所で暮らしていたことがあるんです」
「む、昔……」
そう答えながら、私は箱をそっと床に下ろす。
魔力の流れが安定しているかを確認し、封印札を調整してから離れた。
一方、彼女は測定器に並ぶ記録板の整理をしていた。
複雑な符号と魔力単位が記された表を読み取るのに、特別な訓練は必要ないが、ある程度の素養は問われる。それを迷いなく処理している姿は、やはり只者ではないと感じさせる。
やがて、観測担当らしき学者が、私たちのもとに歩み寄ってきた。
年齢は三十代後半ほどだろうか、薄手の外套に、額には魔力眼鏡をかけている。
「協力、感謝します。今夜は魔力潮汐に変動の兆しがありましてね。珍しい星の配置が観測される予定なんです」
「それが、魔物の出現と関係しているのですか?」
私が尋ねると、彼は一度頷き、記録板を一瞥してから続けた。
「直接的な因果は証明されていませんが、星の軌道と魔力波長の揺らぎが一致することは、過去にも例があります。とくに夜行性の個体には注意をしてください」
「了解しました」
言葉を交わす間にも、室内の測定板が静かに動いていた。
魔力の流れを示す細針が、肉眼では捉えられないほどわずかに震えていた。
私は、その均衡が僅かに崩れはじめていることに気づいていた。
測定板の針が示す微細な揺れ。魔力潮汐の波が、通常よりわずかに深く振れている。
私はそっと観測スリットのひとつに近づき、遠くの夜空を見下ろした。
──あった。
星明かりの届かぬ街の外縁、その先に広がる黒い森の中。
空気の揺らぎを裂くように、光の粒子がいびつに集まりはじめている。
まだ具現には至っていない。それでも、あれは魔物として成ろうとしている魔力の渦だ。
私は誰にも気づかれぬように袖口をすべらせ、指先を前に翳した。
幾重にも折りたたまれた空間座標に狙いを定め、術式の解放を最短で完了させる。
(……封界式・終段、射線確定)
視界の先、具現直前だった魔物の気配が、ひとしずくの光とともに弾けた。
何もなかったように、森は静寂を取り戻す。
私は深く息を吐き、何事もなかったかのように席へ戻った。
魔力の残滓も、空気の歪みも、もうどこにも残っていなかった。
* * *
塔の最上層。観測作業は終盤に入り、記録板の数値も安定していた。
職員たちの声は落ち着き、魔力測定器も最後の調整を終えた。
私は外縁の観測スリットに立ち、夜空を見上げていた。
闇はまだ濃いけれど、東の端にごく僅かな光の気配が滲んでいる。
「……終わりましたね」
後ろから聞こえた声に振り向くと、彼女が肩掛けの外套を直しながらこちらへ歩いてきていた。
普段と変わらぬ表情ながら、どこか目元が和らいで見える。
「はい。静かな夜でしたね」
私がそう答えると、彼女は隣に立ち、スリットの外を覗き込むようにして言った。
「こうして見ると……この街、夜でもちゃんと生きてるんですね」
眼下に広がるのは、静まり返った星見の街。
街路に沿って並ぶ魔法灯のきらめき、広場の噴水に反射する淡い光。
人の気配は遠くにあるはずなのに、その全てが、どこか確かに息づいていた。
私は小さく頷いた。
「ええ。昼とは違った形で……でも、変わらず、ここにあります」
星々がまだ空に浮かんでいた。けれど、それもあとわずかだろう。
空の高みにひときわ明るい星が残り、それに続くように淡い白光が東の地平を染めていく。
「こういう依頼、悪くないですね」
ぽつりと彼女が言ったその声音は、わずかに柔らかかった。
私は視線を空へ戻しながら、そっと言葉を返す。
「……夜の街も、静かで。それでいて……とても、豊かです」
風が過ぎていく。塔の高みで感じるそれは、どこか透明で、冷たくて、それでも心地よい。
誰も気づかなかった魔力の揺らぎも、もうどこにも残ってはいない。
けれど、その静けさのなかで何かが守られ、そして過ぎ去っていったことを、私は知っている。
夜が明ける。世界がまた、日常の姿に戻っていく。




