第30話:魔女と名残の朝
星見塔を出たとき、空はすでに朝の光を帯びはじめていた。
高台に立つ塔の足元から見下ろす街並みは、昨日とはまるで違って見えた。
灯りの消えた魔法灯。ゆるやかに開きはじめた店の扉。屋台の棚にパンを並べる老夫婦の姿。
目覚めたばかりの空気が、街の隅々にゆっくりと満ちていく。
「……まだ、静かですね」
仮眠したとはいえ、夜通しの依頼で眠気が残っているのか、彼女の声は少し低く、どこか安らいで聞こえた。
「ええ。目覚めたばかりの街は、どこか柔らかいですね」
私もそう返しながら、肩にかけた外套を少し整える。
夜の冷えが残る空気は心地よく、歩くたびに靴音が石畳に小さく響いた。
塔からの帰路、私たちは言葉少なだった。
けれど、その沈黙に居心地の悪さはない。
ただ、ひとつの夜を無事に越えたという静かな余韻が、私たちのあいだに流れていた。
やがて、通りの向こうに小さな商店が灯りをともす。パンの焼ける香りと、甘いミルク茶の匂いが朝の空気に混ざっていた。
「……あの、ルシアさん」
不意に彼女が立ち止まり、私の方を見上げる。
「少し……寄っていきませんか? 朝ごはん、まだですよね」
その言葉は、ごく自然だった。
それでも私は一瞬だけ、返答に迷い、そしてゆるやかに頷いた。
「ええ、そうですね。せっかくですから」
彼女の表情が、ほんのわずかに明るくなった気がした。
朝の街を抜けて、小さな食堂へと向かう道すがら。
路地裏では猫が伸びをしており、街角には新聞を配る魔導鳥が降り立っていた。
人々がそれぞれの朝を迎えるなか、私たちもまた、静かに歩いていく。
星の夜が明けて、今はただ、穏やかな朝の光が私たちを照らしていた。
* * *
小さな食堂は、通り沿いの角にひっそりと佇んでいた。
内装は簡素で、木の壁と床に朝の光が差し込み、温かな色に包まれている。まだ客は少なく、私たちは窓際の席に通された。
注文を終え、ミルク茶の湯気が立つ。
「お疲れさまでした」
彼女がそう言って、カップを手に取る。
乾いた喉に、温かい液体が染み込んでいく。ふたりの間にあった静けさは、今はごく自然なものになっていた。
「ルシアさんって……すごく魔法が上手ですよね」
私はスプーンの動きを止めて、彼女の方を見る。
けれど、彼女は伏し目がちのまま、テーブルの縁に視線を落としていた。
返答を待たず、次の問いが続く。
「いろんな街を旅してるんですよね? どうしてですか? 何か、探してるものがあるとか」
「……そんなに気になりますか?」
私は問い返すように、やわらかく微笑んだ。
彼女ははっとしたようにこちらを見て、そして、ほんの少しだけ頬を染めた。
「すみません……なんか、変ですよね。わたし、あんまり普段は人に興味とか持たないのに」
俯いたまま、言葉を継ぐ。
「でも……ルシアさんの魔法って、なんていうか、すごく……静かで、強くて。それで、なんだか安心するというか……」
私は黙って、その言葉を受け取った。
──不思議な子だと思う。
クールで、言葉少なで、それでいて観察眼は鋭い。
けれど今は、その壁が少しだけ開いて、内側から言葉があふれている。
(……この子、こんなに喋る子だったのですね)
私は静かにそう思いながら、スプーンをひと口分だけすくう。
味噌とハーブの効いた、やさしい味が口の中に広がる。
「ありがとうございます。でも……本当に、特別な理由があるわけではありません。ただ、長く生きて、たくさんのものを見てきただけです」
「長くって……あっ、いえ、すみません、変な意味じゃなくて……」
慌てたように言い添える彼女の声が少しだけ上ずっていて、私は思わず、口元に手を添えて笑ってしまった。
「大丈夫です。深い意味で受け取っておきますね」
気まずそうに視線を逸らしつつも、どこか満足げだった。
彼女の言葉は、決して軽いものではなかった。
それが分かるからこそ、私の中にじんわりと温かさが広がっていく。
(……自分を慕ってくれる子ができるというのも、悪くないものですね)
朝の光が、テーブルに射し込んでいる。
カップの縁に、淡い光の輪が浮かんでいた。
食堂の奥では、店主がゆっくりとパンを焼いていた。
香ばしい匂いが、次の一日を告げているようだった。
朝食を終え、私たちは通りへと出た。
陽はすでに高く、街のあちこちに人の気配が満ち始めていた。
開いたばかりの店先には買い物客が集まり、通学服姿の子どもたちが笑い声を上げて駆け抜けていく。
昨日までと同じ、けれどどこか色濃く、確かな日常の匂いが街を包んでいた。
私と彼女は並んで歩いていた。けれど、歩幅はほんの少しだけずれていた。
次の交差点で、私の進む道と、彼女の向かう道が分かれる。
温泉のある街へ行く彼女と、次の街へ行く私とは、そこで別れることになる。
何も言わずに分かれることもできた。
けれど、私がそのまま角を曲がろうとしたとき、彼女が立ち止まった。
「……ルシアさん」
振り返ると、彼女がこちらを見ていた。
目元に影はなく、けれど、普段より少しだけ表情が硬い。
「また……どこかで依頼、一緒に受けてくれますか?」
少し探るような言い方だった。けれど、それは興味というより、もっと素朴な感情に近かった。
私は短く考えてから、ゆるやかに笑う。
「ええ。またどこかで」
その言葉に、彼女はふっと息をついたように見えた。
そして、ごく小さくうなずく。
「……楽しみにしてます」
彼女はそれだけを言い残し、背を向けた。
歩き出した背中は、昨日までの彼女と変わらず凛としていた。
けれど、その足取りはどこか名残惜しそうで──私はそれを、黙って見送った。
交差点の先、人混みにまぎれていく彼女の姿が、小さく、小さくなっていく。
私はその姿が見えなくなるまで、立ち止まったまま目を離さなかった。
街の通りをひとり歩く。
人々の声が増え、馬車の車輪が石畳を軋ませる音が響く。
けれど、その喧騒さえどこか柔らかく耳に届いていた。
旅支度を整え、私は街の外縁へと向かっていた。
次の街へ向かう道のりは、半日ほど。急ぐ必要はない。けれど、だからといって、ここにとどまる理由もない。
朝の風が、外套の裾をゆるやかに揺らす。
その香りの中に、ほんのかすかに甘い匂いが混ざっていた。
焼き菓子か、それとも朝市で売られていた蜜入りのパンか。
街は動いている。夜の観測も、朝の食事も、すべてを飲み込んで、新しい一日が始まっていた。
私はふと、足を止めて振り返る。
石段をいくつか下った先、高台の向こうに──まだ、星見塔の尖塔が見えていた。
夜を見上げた場所。風が吹いていた場所。そして、誰かと沈黙を分け合った場所。
私は再び歩き出す。
背中に朝日が差し込み、影が伸びていく。
もう振り返ることはない。けれど──
もしまた、どこかで彼女に会うことがあれば。
今度は、もう少しだけ言葉を交わしてもいいかもしれない。
そう思いながら、私は新たな街へと足を踏み出した。




