5
左右のこめかみを万力に挟まれているような圧迫感から、僕は解放された。瞼を開けたはずなのに、瞳には一切の光が入ってこなかった。カーテンを閉め切り、灯りも消された僕の寝室は、まったくの暗闇に支配されていた。まだ夜は明けていないようだった。時間と場所の感覚が乖離している気がして、僕は心細さを覚えた。自分の存在を確かめるように、大学から帰ってきてからの自分の行動を思い返そうとした。しかし鈍い頭痛に遮られた。
ベッドに横たわったまま、ズキズキと痛むこめかみのあたりを、指先でマッサージした。僕はときおり、悪夢を見るようになっていた。いつも同じような夢だったと思う。ハッキリと言えないのは、目が覚めれば、僕がその夢の内容をいつも忘れていたからだ。それなのに気持ちのよくない夢だとわかるのは、起きたときの息苦しさと頭の痛さのためだった。
液晶画面を伏せて枕元に置いていた携帯電話が、着信音を鳴らさず、リズミカルに振動していた。携帯電話のバイブレーションが眠りの妨げになったのだ。ずっと震え続けているので、それが通話の着信を教えているのだとわかった。
僕は寝ぼけ眼を、携帯電話の画面に向けた。一気に、意識が鮮明になった。暗闇の中に、きみの名前が浮かび上がっていた。
その頃、きみとはまったく会っていなかった。以前なら、きみは大学にいるときに僕を見つけるなり、携帯電話で連絡を寄越してきたりして、会う約束を取り付けてきた。それがパッタリと途絶えていたのだ。気になって何度か、僕のほうから携帯でメッセージを送ろうとしたこともあったが、気恥ずかしくなってやめてしまった。
またそのうち、きみのほうから声をかけてくるだろう。そう漠然と予想していた。もちろん、それを期待していたわけではなかったけれども。
ベッドの上に座り直して、僕はきみからの電話に出た。
「先輩?」
久しぶりに聞いたせいだろうか。携帯電話から最初に聞こえてきた、きみの声には、普段よりも精気がないように感じられた。
「どうしたの、こんな夜中に」
「ごめんなさい……」
きみは謝ったきり、しばらく黙り込んでしまった。その時、きみはどこにいたのだろう。携帯電話のスピーカーを通して、僕の耳には、きみの息遣いしか聞こえてこなかった。僕が痺れを切らして、用事を聞きだそうとしたときだった。
「先輩。今から、会えませんか?」
「今から?」
僕は携帯電話を耳から離した。画面の上端に表示されている時刻を確認した。まっとうな人間なら寝ている時間帯だった。スピーカーを耳に当て直した。
「無理だよ。僕はもう実家に帰ってる。きみは大学の近くにいるんだろ。電車が動いてない。今からそっちまでは、行けないよ」
「わたし、先輩に、会いたいです」
きみは珍しくワガママを言った。そこに隠されている、なにか特別な気持ちを汲み取れないほど、僕も愚鈍ではなかった。だがその夜の僕は起き抜けで、短絡的だった。きみがまた例のお願いをする気なのだろう、と受け取ってしまった。
というのも、僕はすでに両手では数えられない回数だけ、きみを抱いていた。そしてそれと同じ回数、きみの首を絞めていた。もちろん、きみが求めてくるから仕方なく、だ。
ほんとうは、やりたくなかった。全てを終えて、ベッドに横たわっているきみの、赤くなった顔を見おろすたびに、僕は罪悪感に襲われた。こんなこと、もうしちゃいけない。きみにそう諭そうと思ったこともある。だけど何本もの涙の筋を残した頬が、幸福そうに緩んでいるのを見てしまえば、きみの間接的な自傷行為を止めさせる勇気は、しゅんと消えていった。
しかし、もう限界だった。きみの求めに応じて、きみを傷つけるなんて……。
携帯電話を握りしめた。
「明日、大学で会うんじゃ、ダメかな?」
僕はさりげなく言ったつもりだったが、声は見事に上擦っていた。きみは何も返事をしなかった。沈黙があまりにも長かったものだから、僕は携帯電話をもう片方の手に持ち替えて、汗ばんだ掌をベッドのシーツで拭った。
通り過ぎていく風の音のような、頼りなげなきみの声が聞こえた。
「わかりました」
小心者の僕は、きみを傷つけてしまったのではないかと、途端に心配になった。
「ごめん……明日なら、いくらでも話を聞くから」
「はい、お願いします」
きみの声は、いつもの軽やかさを取り戻していた。
「先輩」
「うん」
「ありがとうございました」
きみの言葉を最後に、ぷつりと通話が切られた。こちらがなにか言葉をかける間も無かった。待ち受け画面を表示する携帯電話を、僕は後味の悪さとともに、しばし見ていた。
明日、きみに会ったら、首を絞めさせるなんて馬鹿なマネは、もうやめさせよう。そして出来れば、きみと一緒にもっと別の、健全な付き合い方を模索しよう……。そんな明日の予想図をぼんやり思い描きながら、携帯電話の画面の灯りを消した。
僕はベッドに横になった。しかし一度、追い払った眠気は、なかなか戻ってこなかった。ついさっき電話越しに聞いた、きみの言葉の一つひとつが、いつまでも僕の頭の奥で不穏に反響していた。
あまり眠れないまま、朝を迎えた。僕はあくびを噛み殺しながら、それでも普段よりも早めに、家を出た。電車やバスを乗り継ぎ、大学に着いた。キャンパスの正門の前には、パトカーが数台、停まっていた。音も出さずに回転している赤色灯に、僕はドキリとした。
キャンパス内に漂う雰囲気は異様だった。小走りに僕とすれ違った何人かの女の子たちは、今にも吐き出しそうな青白い顔をしていた。大勢のざわつきが聞こえてくるほうへ、僕の足は自然と向かっていた。
校舎のすぐ真下の広いスペースを囲うように、警察官たちは黄色いテープを張って、仕切りにしていた。その規制線の周囲に、学生の人だかりができていた。大学の事務の職員や教授たちが追い払おうとしていたが、誰ひとり聞く耳を持っていなかった。
人垣の隙間から、翼を広げたような赤黒い血痕が、タイルの上に残っているのが見えた。女子学生たちは距離を置いていたが、男子たちはその紋様を、われ先にと軽快な電子音を鳴らしながら、携帯電話に内蔵されているカメラで撮影していた。もう、わかっているはずだ。きみがその校舎の屋上から飛び降りたのだ。
野次馬たちから聞いた話によれば、どこかのサークルの部室で飲み明かした学生たちが、夜明けのキャンパスを散歩しているときに、倒れているきみを見つけた。そのときすでに、きみが生きていないのは、素人目にも明らかだったらしい。僕が大学に着いたとき、きみはすでに救急車で搬送されたあとだった。
きみの葬儀が行なわれたかは知らない。少なくとも僕には、そういう連絡は回ってこなかった。だから僕は最後まで、きみの顔を見て、別れの言葉を伝えることができなかった。
後日、飛び降りたときにきみが妊娠していたと、大学内の人づてに聞いた。それは根拠も確認できない、たんなる噂話でしかなかったが、僕を激しく苛んだ。僕にはその心当たりがありすぎたからだ。
しかし僕が罪の意識に潰されずに済んだのは、もう一つの噂のおかげだった。それは、きみが僕以外の男とも頻繁に寝ていた、という内容だった。その噂を最初に聞いたとき、僕は憤るどころか、むしろ――自分を心底、嫌いになるほど――ホッとしていた。
とにかくおもしろおかしく話を膨らませたがる連中は、きみの自殺を胎内に宿った命のせいにして、男だけの飲み会のときの、酒の肴にした。彼らは決まって「ゴムはちゃんとしないとな」と言って笑っていた。僕は気持ちの悪さを覚えたが、彼らに迎合して、作り笑いを浮かべることしかできなかった。
騒ぎが収まった頃の、一時期、学内では安直な怪談が広まった。曰く、女子学生が衝突した地面から、校舎の屋上を見上げると、その女の子が見えるという。怪談に出てくる女子学生とはもちろん、きみのことだ。誰もそんなデタラメを信じていなかった。僕もその一人だ。学内の誰かが流布したに違いなかった。しかし僕はずっと、その話がもしも事実であってくれたら、と思っていた。
きみが自殺してから、学内の校舎の屋上はすべて厳重に立入禁止とされた。だから僕は卒業するまで、一度も大学の屋上にのぼってはいない。ただきみの飛んだ校舎を通りかかったときは必ず、きみの血痕が跡形もなく拭い去られた堅い地面から、空を見上げるようになっていた。
そして僕は想像するのだ。きみが屋上の縁に立つ姿を。それから幻想のきみが飛び降り、僕のもとまで落ちてくるわずかな時間を、コマ送りで見つめた。
きみの死体が発見されたのは夜明け直後だった。だとすると、きみが飛び降りたのは、まだ空が暗い時間帯だったかもしれない。屋上から見下ろしたら、きっと地上には底知れぬ暗闇が大口を開けて待ち構えているように見えたことだろう。そこへ飛び込んだきみの気持ちを、僕はずっと知りたかった。
「どうして、きみは飛んだんだ?」
暗幕のような均一の黒が、僕たち以外の全てを塗りつぶした世界で、僕はきみに尋ねた。空の彼方から落ちてきたきみは、もはや互いに手を伸ばせば指先が触れるほど、近くにまで到達している。
「みんなが言うように……お腹の子が原因?」
きみはうっとりとほほ笑えんでいた。その顔は、どこも欠損していない。僕がずっと見続けていた、きみの顔だ。
「ああ、いや、違う……そもそも、お腹の子は、誰との間の……」
なにがおかしいのか。きみはフフフ、と声を出して笑い始める。
「僕以外にも、きみには男がいたって、本当なのか? 僕よりも強く、きみの首を絞めてくれるような、誰かが?」
フフフ――笑うだけで、きみは答えてくれない。
「あの夜、きみはどうして、僕に会いたいって言ったの? 話を聞いて欲しかったの? それとも……」
長らく背負っていた重荷を片っ端から放り捨てるように、僕は問いかける。
「一緒に、飛び降りたかった?」
全部、教えて欲しかったんだ。
「……きみは、僕に恋をしていたのか?」
笑い声が途絶えた。きみは探るような目つきで、僕を上から見上げてくる。しばらくして、きみの唇が蠢き、言葉を紡いだ。
「恋をしていたのは、先輩のほうですよ」
「僕が……きみに?」
頭を振った。
「違う。それだけは、ありえない。誰かを……女の人を好きになったことなんて、僕は一度も、ないんだ」
きみは寂しげな表情を浮かべた。その顔に、黒い影が差し込んだ。影はきみの顔を覆い、きみを誰とも判別できなくさせる。それが僕に、顔の潰れてしまった女性を、思い出させた。
「そんなはず、ないでしょう?」
後輩の少女は一歩、歩み寄ってくる。
「忘れちゃったんですかぁ!?」
甲高い声に気圧されて、僕は椅子に座ったまま、反対側に体を傾けてしまった。逃がさないとばかりに、眼鏡をかけた短髪の女性社員は腰を曲げ、顔を近づけてくる。度の強いレンズの向こうで、彼女の瞳は不機嫌そうに細められた。
「あの大きな会社から契約を取れたら、ご飯に連れて行ってくれるって、約束してたじゃないですかぁ!」
彼女の声は、あまりにも大きかった。社員食堂にいる同僚たちが、何事かと、僕と彼女へ視線を送っていた。注目される恥ずかしさに、僕は手に持った箸を、中空でふらふらと彷徨わせた。
「そう、だったね……」
「先輩、ひどいです。わたし、楽しみにしてたんですよ」
「ごめん、ごめん」
僕はスーツの上着の内ポケットから、手帳を取りだした。スケジュールが書き込まれたカレンダーのページに、目を走らせる。
「今週末で、どうかな?」
彼女は唇を尖らせていたのを一転、パァッと笑顔を見せた。
「空いてます、空いてます!」
「そう、じゃあ、また連絡するよ」
「了解です!」
そう言い残して、後輩の女性社員は軽快な足取りで、社員食堂を出て行った。肩から力が抜け、僕は盛大なため息を吐き出した。テーブルを挟んだ対面で、定食を食べていた同期入社の男が、ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべていた。なんだよ、と僕は突っかかった。同期の男は「あの子、絶対、お前に気があるぜ」と言った。僕は眉根を寄せた。
「気があるとかないとか、そういうの、僕はあんまりわからないよ」
僕は一気にプレートを平らげると、同期の男を置いて、午後の業務に戻った。
大学を卒業してから、僕はそこそこ名の通った企業に入社した。その会社で、僕はほどほどに人付き合いをし、特に大きな問題も起こさず、平凡なサラリーマンになっていた。
大学を卒業するまでは、きみがいなくなったあとも、僕の人生がまだ続いていることに、違和感を覚えていた。しかし社会人になると、そんなことも気にしていられないほど、日々の生活に忙殺された。きみがいた頃の記憶を振り返ることも、ほとんど無くなっていた。
忙しさの理由には、社会人になると同時に、一人暮らしを始めたこともある。僕は会社から数駅ほど離れた場所にワンルームマンションを借りていた。実家から出社するよりも通勤時間を短くするためだったが、それよりも大きな目的は、実家を出ることにあった。
僕が大学で卒業論文に四苦八苦している頃に、白髪が目立ち始めた父と再婚相手の女性との間に、娘が生まれていた。僕にとっては腹違いの、かなり歳の離れた妹ということになる。両親は娘の誕生を喜び、その成長に毎日、目を細めていた。しかしその妹を、僕はなぜか、どうしても愛せなかった。まん丸な黒目がちの瞳に見つめられると、僕は暴力的な胸のざわつきを覚えずにはいられなかった。一人暮らしは、実家と、そこに住む家族から逃げ出す方便だった。
あるいは、僕もそろそろパートナーを見つけるべき時期だった。大学の同級生や、地元の旧友たちは、次々に結婚していった。彼らにご祝儀を渡す一方で、僕はあいかわらず、どんな女性とも深い付き合いをしないようにしていた。意図的に女性を避けていた節もあった。しかし僕よりもあとに入社してきた、一人の女性社員には、それは通用しなかった。
ショートカットの黒髪と、セルフレームの眼鏡くらいしか外見に特徴のない彼女は、同年度の新入社員たちの中でも地味で、目立たない女性だった。そんな後輩に、たまたま僕が仕事を教える機会があった。なにが彼女の琴線に触れたのかはまったく知らないが、彼女はそのとき以来、僕に積極的に話しかけてくるようになった。話題は仕事のことだったり、彼女の私生活のことだったりと、様々だった。
いくら僕が色恋沙汰に疎いと言っても、彼女の気持ちがわからないはずがなかった。彼女の態度は、時として説明的すぎた。しかしひっそりと向けられている好意に気づいたからといって、応えなければいけないなんてルールは存在しないだろう。見え隠れする彼女の想いに、僕は気づいていないフリをした。そうすることで、あらゆる問題を先延ばしにしていた。
彼女と二人きりで食事に行くのは、初めてのことだった。テーブルを挟んで二人の世界に入れば、もしかしたら彼女の気持ちと向き合わなければいけなくなるかもしれない。そう考えると、週末が近づくたびに憂うつさが増した。だからといって約束を破るわけにはいかない。約束の日の夕方、僕は小綺麗な服にもぞもぞと着替えて、一人暮らしの部屋を出た。
先に待ち合わせ場所に来ていた彼女は、レースのあしらわれたニット地のトップスに、ダークブルーのスカートを合わせていた。
「ごめんね、待たせちゃったかな」
「いいえ、さっき来たところですから」
当たり障りのない会話をしてから、僕は彼女をフレンチレストランへ連れて行った。背の高い商業ビルの上層階に居を構える料理店で、立地と同じく、値段もお高くとまっていた。もちろんそんな店に、僕は一度も入ったことがなかった。恋愛経験が豊富そうな会社の先輩に、女性を連れていっても恥ずかしくない店を、あらかじめ教えてもらっていただけだった。
予約をしている旨を伝えると、声量を抑えた店員が、すぐに僕らを窓際のテーブル席へと案内してくれた。商業ビルの外壁は全面、ガラス張りのカーテンウォールだった。僕らの座った席からは、暮れなずむ空と、葡萄色の輪郭の街並みを一望することができた。
「大丈夫ですか、先輩」
椅子に座るなり、彼女はそう言った。
「なんのこと?」
「先輩、高い場所が苦手だっておっしゃってたじゃないですか」
「ああ……」
いったい、僕はいつ、彼女にそんなことを漏らしたのだろうか。
「大丈夫だよ。遠くを眺めるぶんには、なんともないから。地面を見なければいいんだ」
「そうなんですか」
「高所恐怖症っていうほどでもないんだけどさ」
僕はドリンクメニューに視線を逃がした。赤ワインだけでも、いくつもの種類が取り揃えられていた。正直、銘柄ごとの酒の味の違いなんて、わからなかった。どんな名前のビールだろうと、全部「ビールだね」としか言えなかった。ましてやワインなんて、どれを飲んだって、僕には同じ味にしか感じられないに決まっていた。
「先輩の言ってること、わかる気がします。わたしも高いところ……会社の窓からだって、真下の道路を見るのに、ときどきドキッとします」
僕はワインの一覧を見ながら、そうなんだ、と適当に相づちを打った。どうせこの後輩は気を遣って言っているだけだろう、と思ったからだ。しかしその後の彼女の言葉に、思わず視線を上げていた。
「誰かと目が合ったらどうしようって、恐くなるんです」
野暮ったい太めの眉を寄せて、彼女は笑っていた。
「そういうのって、気まずいじゃないですか」
食事をしながら、僕は思いのほか、彼女との会話を楽しんだ。それは飲み慣れない赤ワインの渋みに、頭がぼぉっとしていたせいでもあった。ガラスの外の景色には夜のカーテンが降ろされていた。僕らの見下ろす建物たちは、人工的な青白い光で、その足もとを照らしていた。暗い夜の底に、白い雲海が漂っているようだった。
僕と彼女は、コース料理を食べ終え、最後の葡萄酒を飲み干した。からっぽのグラスの縁に残った口紅の跡を、彼女は名残惜しそうに拭き取った。会話も途切れがちになっていた。僕は声をかけた。
「出ようか」
会計を済ませると、僕らは行き先も決めぬまま、夜の街を並んで歩いた。彼女は足もとがおぼつかない調子で、僕の片腕にもたれかかってきた。それがある程度は演技かもしれないことを、僕は承知していた。
「先輩は、あんまり自分のこと、お話ししませんよね」
舌っ足らずな甘えた喋り方で、彼女は言った。
「そうかな」
「そうですよぅ」
もたれかかっている彼女は、そのまま僕の腕を抱き締めた。女性の柔らかさが、肘のあたりに押しつけられた。僕は早くも酔いが醒めつつあることを自覚していた。
「僕はどこにでもいるような、平均的か、もしかしたら平均以下の男だからね。自分のことを話したって、きっとつまらないだけだよ」
「そんなこと、ありません。わたしは先輩のこと、もっと知りたいです、たくさん、たくさん……」
「けっこう酔ってるね」
僕は笑い、自分の腕に絡みついている彼女の手を、そっとほどいた。彼女は少し戸惑った表情を浮かべた。しかしすぐに、その僕の腕に肩を引き寄せられると、ホッとしたように赤い頬を緩ませた。
彼女の肩を抱いたまま、僕は適当な場所で道をそれて、人通りの少ない路地へと入った。街灯の少ない、繁華街の裏側だった。通りには僕らのような、身を寄せ合いながらふらふらと歩く男と女のシルエットが、いくつか揺らめいていた。僕はわざと何も言わず、彼女の反応を窺った。彼女は嫌がるそぶりを見せなかった。僕に誘導されるままに、大人しく付いてきた。
ひどいことをしているという自覚は、充分にあった。その時の僕は、ちょっと変わったことをしてみたかっただけだ。年下の彼女の気持ちに応えてあげよう、などという紳士的な気持ちは一切なかった。むしろ、その逆だ。彼女の気持ちを、自分のためだけに利用しようとしていた。いつまでも僕の足もとに、影のように立ち現れる一人の女から、逃げるために。
「時間、まだ大丈夫だよね?」
僕の言葉に、彼女は恥ずかしそうに頷いた。妖しげにライトアップされている路地裏の建物へと、僕らは足を踏み入れた。受付では、一番高値の部屋の鍵を受け取った。
「どうして、僕なんかがいいの?」
二人では持て余すだけの広大なベッドの上で、生まれたままの姿で肌を触れ合わせながら、僕は彼女に尋ねた。彼女はそのとき、僕を包み込んでいた。上体を起こしている僕にしがみつき、僕の耳元に唇を寄せて、甘えた声音で鳴く後輩の女。まるで猫のようだと、僕は思った。
「先輩は、わたしの話、いつも聞いてくれるから、優しい人なんだなぁって、思って」
女の冷たい掌が背後に回され、僕の肩胛骨のあたりに触れた。体を密着させて、彼女は静かに揺れるだけになっていた。
「怒らないで聞いて欲しいんですけど……初めて会ったとき、不思議と、お父さんみたいな印象を受けたんです」
その言葉が僕の胸をどれだけ苦しくしたか、彼女はきっと気づいていなかっただろう。
「わたし、先輩のことが好きです。でもこれは、甘えさせてくれるから好きっていうのじゃなくて、先輩にも甘えて欲しいっていう気持ちなんです」
「僕が、きみに?」
「はい。先輩はいつも、わたしに愚痴や弱音、ひとつも言いませんよね。わたし、そういう先輩が好きです。でも、もし我慢してるだけなら、やめて欲しいです。先輩のどんな気持ちでも、わたし、受け止めてあげたい……まだ、伝わらないですか?」
彼女はもどかしげに、僕に口づけをしてきた。唇から想いが伝わるとでも思っていたのかもしれない。それはたしかに、たんなるロマンチックな幻想とは言い切れなかった。だが彼女が夢見ていたであろう、美しいものでもなかった。
僕は総毛立つほどの恐怖を覚えた。暗闇の中に独り、放り出されたときのような、孤独感から来る恐怖だった。あるいは、それは以前にも僕が感じたことのあるものだったのかもしれない。しかし僕には判別する余裕も、またそうしようという考えも無かった。その瞬間だけ、僕は正気ではなくなったのだと思う。
突き放すようにして、彼女の体をベッドに押さえ込んだ。最初に服を脱いだときに、彼女が恥ずかしがったため、部屋の灯りはサイドテーブルのランプのみにしていた。ランプからは黄昏時のような毒々しい赤い光が滲み出ていたが、そのせいで組み敷いた彼女の顔は、黒のベールをかぶせたように見づらかった。それが余計に、僕を狂わせた。
アッ、と冷静になったとき、僕は彼女の首を、両手で力強く絞めていた。僕の腕や胸、顔に無数の引っ掻き傷が走っているのが、鏡で確認せずとも、痛みだけでわかった。手から力をゆっくり抜いた。なにもかもが終わったあとだった。
彼女の瞳は驚きと恐れに見開かれたまま、生命の輝きをすでに失っていた。さっきまで僕に愛の言葉を囁いてくれていた唇もこわばり、その隘路から舌先が飛び出ていた。四肢は力なく投げ出されていた。首には、僕の手の跡がくっきりと残っていた。僕は彼女の奥底に、大勢のダメな僕を放っていた。いつの間にか死んでしまった女の虚ろな双眸に、ハッと気付かされた。落ちているのは僕のほうだ。それまで認識していた天地が逆転する。闇の中、地上に立つきみのもとへ、僕は頭を逆さまにして墜落していた。
いつから、僕は落ちていたのだろうか?
僕の脳裏を、これまでの記憶が光速で駆け抜けていく。しかし、そのどれもがもうじき闇に還るのだと、僕は他人事のように理解していた。きみと僕の目線が、もはや同じ高さになっていたからだ。
不思議にも、恐怖は感じられない。ただ安堵のみがある。今まで固執してきた自分の全てを手放すことに、僕の心は凪いでいた。
「どうして僕は、今まで気付かなかったんだろう」
きみは僕のほうへ歩み寄ってくる。
「先輩は理屈っぽくて、そのうえ、臆病ですから」
「臆病……」
「誰かに愛されるのも、誰かを愛するのも、どちらも恐いんですね。だからあなたは、その人を好きになりそうになると、自分から距離を置こうとしていたんです。自分の心に蓋をして」
僕のすべてを理解しきっているかのような、きみの回答は事実、なにも間違っていなかった。それの証拠に、きみの言葉は一つ残らず、僕の心に素直に染みこんでいった。
「そうだね……そうかもしれない。僕は、きみのことが好きだったんだ。一緒に、いたかったんだ」
きみが慈愛に満ちたほほ笑みを浮かべる。
「これからは、ずっと一緒ですよ」
冷たい掌が、僕の頬を包んだ。
「おかえりなさい」
そう言って、母なる大地は、僕に口づけを……。
御覧頂きまして、ありがとうございました!