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 暗闇の中で、最初は白い点でしかなかったきみが、姿を大きくしつつある。それが、きみが僕のもとへ落ちてきているためだということに、僕は気づいた。

 重力に引かれ、まっすぐに地面へと、加速度的なスピードで墜落しながら、きみは顔をあげた。その双眸は、最初からわかりきっていたかのように、僕をまっすぐに捉える。

 視線が交わる。きみはニコッと笑った。




 数年ぶりの再会だった。最初に相手に気づいたのは、きみのほうだった。大学のキャンパス内を歩いていた僕を、前のほうから歩いてくるきみが、遠くから呼んだのだ。

「お久しぶりです、先輩」

 目の前に立ったきみは、高校時代と雰囲気をなにひとつ変えていなかった。長めのストレートヘアは濡れたカラスの羽のように艶々と光り、それに引き立てられて肌はいっそう色白く見えた。

 高校の制服姿ではないきみが、僕には新鮮だった。私服姿のきみは、どこにでもいる女子大生だった。白襟のブラウスに、チュールスカート。鮮血のように赤い、足もとのパンプスが印象的だった。

「先輩も、この大学に入ってたんですね」

 含みのない発言だったのだろうが、僕は後ろめたさを感じずにはいられなかった。

 高校時代……きみの体を通して初めて女性を知った日から、僕は屋上へ近づかなくなっていた。学校で淫らな行為をしてしまった罪悪感があった。でも本当は、そんなものよりも大きな理由があった。きみと顔を合わせるのが恐かったのだ。

 きみに会えば、僕は否応なしにきみの深奥の熱さを思い出すだろうし、きみとは違って、まったく経験のない自分の子供っぽさを自覚させられる。そんな確信に近い被害妄想が、僕の足を屋上から遠ざけさせていたのだ。

 高校を卒業するまで、僕はきみを避け続けた。そして一言も交わさないまま、きみと別れることになった。幸か不幸か、僕らは電話番号やメールアドレスの類を交換していなかった。だから高校を出たあとは、もう話す機会などないだろうと思っていたのだが……まさか大学で再会することになるとは、予想していなかった。

「先輩、ほとんど変わりませんね」

「きみのほうこそ……」

 大学の中庭には、昼休みとあって、僕たち以外にも大勢の学生たちで賑わっていた。僕と話していたきみは、通りかかった女の子に呼ばれ、そっちへ首を回した。そのとき、きみの首筋に絆創膏が貼りつけてあるのを、僕は見つけた。

 講義についての話を終えて、学食のほうへ去っていく友達に、きみが手を振っていた。

「まだ、犬は懐いてないのか?」

 僕の問いかけは聞き逃されたのだろうか。

「ねぇ、先輩。今日の夜って、空いてますか?」

 振り向いたきみは、上目遣いにそう尋ねてきた。

「今日? なにも予定はない、けど」

「どこかでお食事しませんか。こうして久しぶりに会えたんです。たくさん、お話ししたいです……ダメですか?」

 ほんの一瞬、断ってしまおうかという考えが、脳裏をかすめた。きみと二人きりで会うことに、僕はまだ恐れを抱いていたからだ。しかし僕は思い切って、きみの誘いを受けた。僕が勝手に苦手意識を持っているだけで、実際に話してみれば、なんてことないかもしれないじゃないか。心の中で、自分に言い聞かせた。

 大学が終わったあと、まだ日が沈み切らないうちに、僕ときみは繁華街の居酒屋に入った。友人や先輩との飲み会で、何度か僕が利用したことのある店だった。掘りごたつ式のテーブルが設けられた個室に、きみと向かい合って座った。

 最初にドリンクを注文するとき、きみはアルコールのメニューを見ていた。きみがカクテルの名前を言うよりも先に、僕は烏龍茶を二杯、店員に頼んだ。きみは目を丸くした。店員が去ったのを確認してから、僕は言った。

「きみはまだ未成年だ」

 後輩の少女は対面でクスッと笑った。

「そういう変なところで真面目なところも、変わってませんね」

 ソフトドリンクで乾杯をした。それから僕ときみは、どちらともなく、お互いのことを話し始めた。そのときの僕らの話し方はけっして、かつての級友と再会し、思い出話で盛り上がるような賑やかなものではなかった。隣近所の個室から聞こえてくる笑い声のほうが、よっぽど生き生きとしていた。でも、それでちょうど良いと思った。僕ときみは少なくとも、その場を盛り上げるためだけの薄っぺらな態度を取らなければいけない間柄では、なかっただろう。

 ときどき黙り合いながら、とりとめもなく思い浮かんだ話題を、相手に投げ掛けた。高校時代、昼休みの屋上でそうしていたように。会わなかった数年の空白を、そっと埋めるみたいに。ただ、どうして僕が屋上から離れたのか、その理由を問われることはなかった。もしかしたら、きみがわざと訊かないでいてくれたのかもしれない。おかげで僕は安心できたが、なぜか申し訳なさも覚えた。

「先輩は、実家から大学に通ってるんですか?」

 フライドポテトをかじりながら、きみが言った。

 僕たちの通う大学と実家は、県境を隔てていた。通学に時間はかかったが、一人暮らしをするほどの距離でもなかったはずだ。しかし驚いたことに、きみは実家を出て、大学の近くに、マンションの一室を借りていると言った。

「家を出て、一人で生活してみたかったんです」

 理由を尋ねたぼくに、きみはそう答えた。そして注文した料理をあらかた食べ終えた頃に、また別のことを尋ねてきた。

「先輩。あれから付き合った女の人って、誰かいますか?」

 きみの話し方は、さっきまでとは変わらなかった。だけどどこかに、真剣みが感じられた。きみの言った「あれから」というのは、「僕が屋上を離れてから」と等しかった。

 僕は思わず、烏龍茶の入っているグラスを傾けた。しかし烏龍茶はほとんど口の中には入ってこず、ただ氷の冷たさだけが、上唇に押し寄せてきただけだった。

「そんな子、一人もいないよ」

 テーブルの端に置いてある、店員を呼び出すためのボタンを、僕は押した。落ち着かなかった。店員が注文を取りに来るまでの、わずかな時間さえ、言葉を途切れさせておくのが嫌だった。だからつい、訊いてしまったんだ。

「そういうきみは、誰かと付き合ったりしたの?」

 しまった、とすぐに思った。しかし撤回するほどの猶予もなかった。きみはあっけなく答えた。

「はい、いましたよ。そういう男の人が、何人か……でもみんな、長続きしませんでした」

 恥ずかしそうに笑うきみを見て、僕は自分の体温がカッと上昇するのを感じた。なぜだかわからないけれど、訊かなければよかったと後悔した。

 気づくと、店員が傍らに立っていた。バイトなのだろう、僕と同い年くらいの男性店員に、僕はずいぶん横柄な言い方をしてしまった。

「生ビール、ひとつ、とびっきり苦いやつ」

 その後、何杯かジョッキを(から)にした。大学時代、まだ僕はアルコールに強いほうではなかった。当然、居酒屋を出る頃には、すっかり酔いが回っていた。

 幸い、歩くぶんには、なんの支障もなかったはずだ。なのにきみは僕を支えるみたいに、ティーシャツ越しに、僕の胸に手を当ててきた。

 きみから仄かに漂ってくる匂いが、ふわりと僕の鼻腔をくすぐった。それが遠い昔に嗅いだことのある匂いの気がして、僕は懐かしさを覚えた。

「先輩、大丈夫ですか?」

「あぁ……うん、大丈夫、大丈夫だから、離してくれていいよ」

「先輩」

 胸に置かれていたきみの掌に、力が込められたのがわかった。白い五指が、その爪先を立てて、僕のティーシャツに皺を作った。

「わたしの部屋に、来てくれませんか?」

 間近から見上げてくるきみの瞳は、夜の繁華街の灯りを閉じこめて、妖しく煌めいていた。

「先輩にお願いしたいことが、あるんです」

 僕は断るべきだった。きみの「お願い」がロクなものではないという予感が、ハッキリと感じられた。しかし僕は、酔っていたせいだろう、冷静な判断ができなかった。毒を喰らわば皿まで、という心地で、トコトン付き合ってやろうじゃないかと、半ば自棄(ヤケ)になっていた。

 きみの下宿しているマンションの一室は、広めのワンルームタイプだった。学生の一人暮らしにしては物が少なく、そのためにきちんと整理整頓されているように見えた。部屋の隅の窓際には、部屋の中で一番大きい家具である、シングルサイズのベッドが置かれていた。

 きみがバッグを肩から下ろした。その直後、僕はきみの腕を引っ張り、強引にベッドの上に横たえた。きみは驚きも抵抗もしなかった。僕を部屋へ誘ったときから、そうなることを理解していたのだろう。僕がそうだったように。だけどきみの期待は、僕のものとは、かなり違っていた。

「先輩、お願いしても、いいですか?」

「……なに?」

 きみは首筋を反り返らせた。喉の中心部から外れた場所に貼られている、大きめの絆創膏が、僕に見せつけられる。きみの指が、その覆いをぺりぺりと剥がした。虫に刺されたにしては広範囲な、赤い斑点が露わになった。

「しながら、首を絞めて欲しいんです」

 組み敷かれているきみが、僕に言った。

「思いきり強く、強く」

 僕はきみの言葉を、すぐには理解しようとしなかった。アルコールの作用で霞のかかっていた意識が、一気に覚醒していった。

「なに、言ってるんだ、きみは」

「わたし、ね、先輩……してるときに首を絞められるのが、とっても気持ちいいってことに、気づいちゃったんです。空を飛ぶみたいに、ふわふわって感覚に、全身が包まれて……」

 酒を一滴も口にしていないはずなのに、きみは僕と反比例して、まどろみに漂うような喋り方をした。

「お願いします、先輩」

 眼窩から滑り落ちそうなくらいに、蕩けきった瞳が、僕を見上げる。それはあの屋上で最後に見た、きみの双眸そのものだった。高校時代、いつもどこかに絆創膏を貼りつけていた後輩の少女……。

「まさか、高校のときの傷跡も、そうだったのか」

「高校のとき?」

「家で飼ってる犬に、よく噛まれるって……懐いてくれないからって」

 きみはきょとんとした。

「わたし、今までペットを飼ってたこと、一度もありません」

 僕の体温は再び、一瞬のうちに急上昇した。全身の血液が沸騰してしまったかのようだった。僕はきみの衣服を剥いでいた。愛し合う者同士がする口づけなど、一切しなかった。

 ほとんど強姦といっても差し支えがないだろう。僕は白い柔肌に吸いつき、また歯形がクッキリと残るほど、強く噛みついた。そしてきみの準備が整っていないのを承知のうえで、僕は禍々しい僕自身で、きみの急所を一息に刺し、深部を貫いたのだ。

 最初のうち、きみは痛みに喘いでいた。しかしその苦しげな声の中にさえ、甘い響きがあった。きみの最奥からは、大量の嬉し涙がすぐに溢れ出てきた。

「先輩、絞めて、首……」

 悦びの喘鳴をあげながら、きみはそう催促した。もう戸惑うことはなかった。僕はきみの細い首を両手で包み、強く、握り潰した。きみの白い頬が、見る見るうちに、赤くなっていった。薄い唇からは掠れた吐息が絞り出されてくる。ベッドのシーツを掴む、きみの指の爪は、圧力のために白んでいた。その様子を見下ろしていながら、僕はきみの首にかけた力を抜かなかった。今までのどの男よりも目立つように、きみの柔らかな首に僕の指の跡を残してやろうと、必死だった。

 やがてきみの唇から、苦しげな息遣いの間隙を縫って、弱々しい「逝く」という声が聞こえた。きみは僕を道連れにしようと、一際強く、僕を圧迫してきた。抗いきれず、僕はきみの奥底へ、全霊を解き放っていた。

 同時に果てた、その瞬間、僕らの体は大理石の如く硬直した。息遣いさえも聞こえなくなる。まるで時間が止まっているかのような錯覚に、僕は陥った。

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