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 見開きのモノクロページを覆うように、濃い影が落とされた。そのときになって、ようやく僕は自分の頭上に、人の気配を覚えた。

 両手で開いていた漫画の単行本を慌てて閉じ、真上を見上げる。鱗雲を散らした、真昼の青空を背景に、僕の手元を覗き込んでいる人物は、しかめっつらをした教師などではなかった。傍らに立っていたのは、線の細い、一人の女子高生だった。

 ホッとしたのも束の間、僕は別種の気まずさを感じて、アスファルトに座ったまま、その女子生徒から少しでも顔を離そうと、体を反らせた。僕ときみは、そのときはまだ、お互いの名前どころか、学年や声さえ知らなかったから。

「    」

 なにか短い言葉を発して蠢く、初対面の女子生徒の薄い唇を、僕は呆けたように見ていた。しかしすぐにハッと我に返った。邦楽を大音量で垂れ流しているカナル型のイヤホンを、僕は耳の穴から引き抜いた。

 きみはクスッと笑って、言った。

「なにを読んでるんですか?」

 それが初めて聞いた、きみの声だった。

「……漫画、だけど」

「面白いんですか?」

 角がないというか、あまり抑揚のない声だった。

 堪えきれなくなって、僕は視線を背けてしまう。

「面白い、のかな。最初のほうは面白かったけど、最近は、微妙かな。この漫画、新キャラがドンドン出てくるわりには、話が間延びしちゃってる気がするし……」

 アスファルトで仕上げられた校舎の屋上からは、背の高い建物はなにも見当たらない。僕が床に座っていて、手すりと落下防止柵の代わりになっている立ち上がり部分に、視界の下半分を遮られているせいでもあったのだけど……。

「何年生ですか?」

 手もとの漫画について、僕が話し尽くして、沈黙してしまうと、きみはそう尋ねてきた。

「三年生……」

「わたし、二年です。先輩さんですね」

 なにが面白かったのだろう、きみはひとつ年上の僕に、またフフッと笑いかけた。僕は居心地の悪さを覚えていた。

 給水塔と、それを頂く塔屋ぐらいしかない、高校の校舎の屋上。その四方は雨水を逃さないための、腰までの高さのパラペットで囲われていた。しかし校舎裏に面しているパラペットの、さらに外側には、二メートル程度の幅の、細い通路が設けられていた。その通路の存在は、地上から見上げただけでは気づけないし、各学年の教室が入っている隣の校舎からも、必ず見えないはずだった。

 夏と冬で気温の厳しい日は避けたが、たいていの昼休みには、僕はその屋上で、ひとりの時間を過ごすようにしていた。もちろん屋上は立入禁止だ。校舎内から屋上へと出る扉は、つねに施錠されている。だから僕以外の生徒が屋上にいたことは、それまでは一度もなかった。

「きみは……どうやって、ここに来たの?」

「先輩と同じです」

 通路の突き当たりを、きみは指さした。

 校舎の脇には外階段が備え付けられていて、校舎の最上階との出入口にだけは、鍵がかけられていないのが常だった。おそらくドアが故障でもしているのだろう。屋上へ侵入するなら、校舎の最上階から出て、外階段を使うのがベストだった。地上からでも直接、外階段をのぼることもできるのだが、それだと人目に触れる可能性があった。

 誰にも干渉されずに済む、学校内で唯一の居場所。校内をふらふら歩き、ようやく見つけた、屋上の秘密基地。それも、きみに会うまでのことだった。

「さっき、先輩がこの校舎に入っていくのが見えたんです。お昼休みに、こっちに来る人なんて珍しいから、どこに行くんだろうって思って……それで、付いて来ちゃいました」

 いたずらっぽく笑いながら、きみは僕の顔を覗き込んでくる。

「迷惑でしたか?」

 僕はかぶりを振って見せた。

 自分だけの居場所が無くなってしまった気がして、残念ではあった。しかしきみを追い出す権利は、僕には無かった。立入禁止の屋上に、勝手に入り浸っていたのは僕だ。教師に告げ口されないだけでも、ありがたいと思わねばならなかった。

「いいよ。どうせ僕は、あと半年もしないうちに、卒業するんだから」

 きみの肩から滑り落ちてきた長い黒髪の毛先が、秋の乾いた風に吹かれて、僕の目の前で柳のように揺れていた。アスファルトを焦がすほどに降り注いでいた夏の熱線も、もはや懐かしい。あとしばらくして季節が冬になったら、今度は寒さのために、屋上には寄りつかなくなるのだろう。漠然と、僕はそう思っていた。

「素敵な場所ですね。学校にこんな場所があったなんて、知りませんでした」

 きみはくるりと身を翻した。丈の短いスカートが花びらのように広がった。見ていいものではないと、わかっていた。僕の目は、きみの足の付け根に、釘付けになってしまった。濃紺のニーソックスよりも、さらに上が露わになる。そのときだ。きみの太ももの内側に、目立たない肌色の、大きめの絆創膏が貼ってあるのを、僕は目聡く見つけた。

 次の瞬間、僕の背筋は一気に冷やされた。きみがウキウキした調子で、腰までの高さしかない立ち上がり部分から、上体を迫り出していたからだ。それも、遠くを眺めるのではなく、眼下の地面を俯瞰するように。

 僕は素早く立ち上がると、きみのか細い二の腕を掴んだ。そして強い力で、こちら側へ引き寄せていた。己の意思とは無関係な、まったく反射的な行動だった。きょとんとした瞳に見つめられて、僕は冷静になり、きみの腕から手を離した。そして言い訳をするように言った。

「危ない、危ないよ、そんなことしちゃ……」

「どうして?」

 きみは不快に思っている様子ではなかった。ただ本当に不思議そうに、尋ねてきた。

「だって、落ちたら……大変なことになる」

 僕の指摘はなにひとつ間違ってはいないはずだった。それなのに、きみはおかしそうにクスクスと笑ったのだ。僕の顔にはきっと、困惑の色が現れていただろう。

「先輩は、落ちるのが恐いんですね」

 きみの言葉に嘲笑するような響きが含まれている気がして、僕は勝手に苛立った。

「当たり前だろ。誰だって、高い場所から落ちたらって、考えただけでも恐いはずだ。そうだろう? まさか、きみは違うっていうのか?」

「優しいんですね、先輩は」

 年上なのに語気を強めてしまった僕に、きみは萎縮するどころか、むしろ頬を綻ばせた。それで、僕は一気に毒気を抜かれた。なにを言っても、この後輩には暖簾に腕押しかもしれない、と思った。

 地面に座り直しながら、僕はバツの悪さを感じた。

「優しさとか、そういうのじゃ、ないんだけど」

 僕の言葉を聞き終えないうちに、きみはまた、通路と宙を区切る、背の低い壁に向き合っていた。今度は上端の平面部に、そっと手を添えただけで、なんら危なさはなかった。

「先輩。わたしね、高い場所から地面を見るのが好きなんですよ。それも、ちゃんとこだわりがあるんです。高ければいいってものでもなくて、ちょうど、この校舎ぐらいの高さから見るのが、いちばん好き。これぐらいの場所からなら、ハッキリ、地面が見えるんですもの」

 僕に背を向けていたから、そう話しているきみが、どんな顔をしていたのかは見えなかった。やはり地面へ視線をやっていたのだろうか。僕のほうを振り返ったとき、きみは、とても穏やかな笑顔を浮かべていた。

「僕は、わざわざ高い場所から、地面を見下ろそうなんて思わないよ」

 言いながら、自分の座ってるあたりを見た。ゴツゴツしたアスファルトに掌を置き、その堅牢さを確認する。大丈夫、僕は地に足がついている。高所から地面を見下ろすのが好きだって?

「そんなこと、恐くてできない」

「もしかして先輩って、高所恐怖症とかですか?」

「いや、そういうわけじゃ、ないと思う。テレビ塔とか展望台とか、あれぐらい高いところからなら、いいんだ。学校の屋上とか、マンションのベランダとか……そういう中途半端な高さの場所から見るのが、苦手なだけで……それでも地面を見なければ、なんてことないから」

 きみはいつの間にか、僕の隣に腰をおろしていた。

「さっき、先輩、言いましたよね。落ちたときのことを考えたら、って。そういうことを想像しちゃうから、恐いの?」

「……さぁ、どうだろう。そのあたりのことは、自分でもよく、わかってないんだ」

 膝を立てて座っている僕の、室内履き用のスリッパの爪先に、ねばついた液体が触れた。アスファルトの上に不規則な波形を描いて、赤黒い血が飛び散っていた。熟したトマトを地面に叩きつけたら、同じような模様を描けるのだろうか?

 ……ああ、だから地面は見たくないんだ。

 ひとりでに立ち現れた妄想を打ち消すために、僕は一度だけ、強く目を瞑った。次に瞼を開けると、足もとのアスファルトには、沁み一つ見当たらなくなっていた。

「そういうきみは? きみは、どうして地面を見るのが好きなんだ?」

 隣に座っている後輩へ振り向く。きみは僕の横顔をずっと見ていたらしい。間近から見つめてくる眼差しに、僕はまたゾッとした。

「わたしは、想像するのが楽しいんです」

 きみは柔和な笑みをこぼしながら、夢を語るときのような、穏やかな口調で教えてくれる。

「ここから飛んだら、どうなるだろう。頭から落ちたほうがいいのかな、それとも足から……地上についたとき、わたしはどんな格好になるんだろう……落ちている間、わたしはなにを考えているのかな」

「きみは、そんな」

 さきほどとは別種の不安に、僕は襲われた。きみが今にも、屋上からふわりと飛んでいってしまうような気がした。僕らは隣り合って、ちゃんと座っているというのに。

 きみはひときわ明るく笑って見せた。

「どんな地面も、きっと優しく、わたしを迎えてくれる。そんな気がしませんか? それがコンクリートでも、剥き出しの土でも……飛んだ人にとっては、そこが唯一の、逃げ場なんだと思います」

 喉の粘膜が貼りついているみたいに、声を出しづらかった。

「きみは、飛び降りたいのか?」

「サァ、ドウダロウ」

 きみはカタコトな口調で答えた。僕はそれがなんの冗談かわからなかったが、いたずらっぽくきみが笑ったとき、合点がいった。さっきの僕の口調を真似たのだ。思わず、ムッとしてしまった。

「僕はそんなロボットみたいな喋り方じゃないよ」

 たぶん、と心の中で付け足した。

 きみは悪びれもせずに「そうですね」と言って、さらに続けた。

「わたし、フワッとする感覚、好きなんです。先輩も経験、ありますよね。……そうです、内臓が浮き上がるアレです。遊園地とかにある絶叫系の、フリーフォールとかジェットコースターとか、ああいうのが子供のときから大好きで。高いところから飛んだら、もっと気持ちいいのかなぁって、ときどき考えますね」

 馬鹿げてる。遊園地のアトラクションと、飛び降り自殺を同列で考えているなんて、どうかしている。そんなに飛びたいなら、バンジージャンプでもすればいいじゃないか。

 頭の中で様々な否定の言葉が渦巻いた。そのくせ僕が口にすることができたのは、そのうちの、たった一つだけだった。

「きっと、飛び降りなんて、きみが考えてるような気持ちの良いものじゃないよ」

 途端に、きみの顔から笑顔が消えた。感情の読めない瞳で、見つめられる。僕の真意を見透かそうとするきみの意志が、痛いほどに感じられた。

「どうして、そう思うんですか?」

「想像だよ」

 僕は空を見上げた。鱗雲の並んだ青空が、僕らの頭上には広がっていた。僕の注視している、空の一点には、逆さまになった女性が浮かんでいた。その女の人の顔は、いつも新月のように暗い。顔を認められなくとも、僕にはその女性が誰なのか、わかりきっていた。

 産みの母が飛び降り自殺したのは、僕がまだ足し算もできないくらい幼い頃のことだ。高校生になった僕には、亡くなった母との記憶は、もはやほとんど残っていなかった。しかし父と共に葬儀場で、棺の中に横たわる女性を見た瞬間だけは、いつまでも忘れることができずにいた。

 花に囲まれて安らかに眠る女性の顔を見て、幼い僕は真っ先に「この人は誰だろう」と疑問に思った。髪型も、頬の輪郭も、鼻の高さも、なにもかもが記憶と異なっていたからだ。喪服に身を包んだ大人たちが「お前の母親だよ」と教えてくれなければ、いつまでも気づかなかっただろう。

 それもそのはずだ。母の顔は一度、地面に激突したときに、ひどく潰れたらしい。それを誰かが、どうにか見るに堪えるものに戻してくれたのだ。よっぽど酷い破損だったようで、それは元の母の面影が残っていないことから、容易に推測できた。

 母は一人で飛んだわけではなかった。どうやら男との心中だったらしい。しかし、そのあたりの事情だけは誰も教えてくれなかった。

 母とその男はどこで知り合ったのか、母はどこで飛び降りたのか……。妻が他所(よそ)の男と心中したとあって、父は頑としてそれらについては、口を閉ざしていた。僕の父は、死んだ母のことが憎かったのだろうか。母の死後、驚くほど早く後妻を娶った。

 その新しい母親に、僕はいつまで経っても馴染めなかった。名前を「さん」付けで呼ばれるたび、この人は僕の本当の母ではないと、意識せざるをえなかった。それでも父や、その新妻となった女性のためにも、僕は表面上はその人を「お母さん」と呼ぶように努めた。しかしどうしても上手に話せず、気づけば家庭での会話を、僕は意図的に避けるようになった。

 家の外でも同じだった。母が他界してからは、僕は他人とあまり付き合わなくなった。……と言うと孤高な響きがあってカッコイイのだが、実際は、付き合えなくなったのだ。それは僕自身が意識的にそうしようとした面もあったが、僕を見る周囲の目が、そうさせた可能性も少なからずあった。母親が道ならぬ恋の果てに自殺した、という事実は、無遠慮な好奇の目を僕に集めさせるには充分だった。

 でも僕は誰も彼もを遠ざけようとしたわけではない。いつだって男友達はいた。高校でも一緒に昼食を摂ったり、連れだってトイレに行ったり、馬鹿な話で笑いあえる仲間は出来た。ただ誰の懐にも飛び込もうとはしなかった。ましてや女の子を相手になどしなかった。嫌でも耳に入ってくる、誰々が誰々を好きになったとか、そういう類の話とは特に距離を置いた。

 友達には「硬派ぶってやがる」と冗談っぽく言われることも多かったが、そんなものではない。自分が誰かを好きになることなんてあり得ないと、僕は本気で思っていた。どこまでいっても他人でしかない相手に、なぜ自分を委ねてしまえるのか、不思議で仕方がなかった。惚れた腫れたで騒いでいる彼らは、その行き着く先に関して、まだ無知なのだ。

 教室にずっといるのは――というより、大勢の同級生に囲まれているのは――息苦しく、堪えられなかった。せめて一休みとばかりに、そのうち僕は昼休みに一人になれる場所を探して、校舎をうろつくようになった。そうして見つけ出したのが、屋上の隠れた通路だった。

 そこで僕は、適当な音楽を聴きながら、適当な本を読んだ。一人でいられる、なににも心を乱されない時間を、大事に過ごしていた。そこへ、知り合ってからは、きみが堂々と入ってきた。

 僕が屋上へ行くと、決まって、きみはやって来た。どこかから僕の行動を監視しているのではないかと疑ってしまうほどの頻度だった。もしやと思って、きみに訊いてみたことがあるけど、笑って誤魔化されるだけだった。僕は薄気味の悪さを覚えたけれども、きみを拒むことはしなかった。

 屋上で会っても、僕ときみは、特になにをするわけでもなかった。まったく生産性のない話に興じる日もあれば、顔を見せたときと別れ際以外には一言も交わさない日もあった。そばにいるのに、お互いに干渉しない。それは僕にとっては、きわめて気楽な付き合い方だった。

 そんな僕らの関係は、いったいなんだったのだろう。友達と呼べるほど、お互いの秘密を教え合ったわけでも、信頼していたわけでもない。間違っても、恋人なわけがない。きみとの関係を形容する言葉を、僕は今でも見つけられない。

 もちろん屋上以外でも、学校で過ごしているうちは、きみと顔を合わせることが幾度もあった。その場所はたいてい廊下だった。そしてそういうとき、僕ときみは友達同士のするような軽々しい挨拶はせず、一瞬だけ目を合わせるだけだった。取り決めたわけでもないのに、最初からそれが僕らなりの挨拶になっていた。

 少し意外だったのは、屋上以外で見かけるきみは、数人の地味な容姿の女子生徒と、いつも一緒だったことだ。きみにもちゃんと友達がいるようで、僕はホッとした。昼休みに教室を抜け出て、屋上に一人でのぼってくるような女の子なのだから、教室での人間関係がうまくいっていないのでは、と僕は勝手に予想していたのだ。あるいは、もしかして、きみは僕と同じ気持ちを抱えていたのだろうか?

 そんなふうにきみについて考えるときもあったが、僕はきみの私生活をアレコレ詮索することはしなかった。きみも僕のことを、積極的に知ろうとは思っていなかったはずだ。

 僕たちが教え合ったことといえば、面白かった本や、よく聴く音楽みたいな、どうでもよいものばかりだった。

 そして、あの日……僕ときみが、最後に高校の屋上で会った日も、僕らはいつもと同じように、一人で過ごすには長い昼休みを過ごしていた。あのとき、僕らの頭上には、雲ひとつない青空が広がっていた。よく晴れていて、ときおり吹く風に冷やされた頬を、温かな太陽の光がすぐに柔らかく拭ってくれた。

 狭い通路に、僕ときみは並んで座っていた。相手に近いほうの耳には、きみのオンイヤータイプのイヤホンをかけて、ふたり片耳ずつで、きみの好きなインディーズバンドのラブソングを聴いていた。

 そしてお互いの手元には、僕の好きな漫画家の単行本が開かれていた。そのコミックスは僕が自宅から持ってきたものだった。

 古びた蝶番のあげた耳障りな摩擦音を、聞き逃さずに済んだのは、一重にそうやって僕たちが何も語らずに、ただ座っていたためだ。

 僕ときみは同時に目を合わせていた。校舎内と屋上を繋ぐ、塔屋のドアが開閉した。それはつまり、僕たち以外の誰かが屋上へやって来たことを、意味していた。

 僕は片耳にかけていたイヤホンをゆっくりと外した。きみは音楽プレイヤーに手を伸ばして、停止ボタンを押した。そして僕らはじっと息をひそめて、背後の気配に神経を集中させた。僕ときみは通路の壁のうち、塔屋がある側に、もたれかかっていた。壁は僕らの頭を隠す程度には高かった。だから声を出したり、立ち上がったりしなければ、僕らの存在は知られないはずだった。

 屋上へ来た人物は、話し声からして、二人組だとわかった。それも男子生徒と女子生徒だと容易に把握できた。どうやら二人は恋人で、男のほうが職員室から鍵を無断で拝借して、塔屋のドアを開けたらしい。男が高揚した声で「こういう場所で一度してみたかったんだよなあ」と言った。それを聞いた瞬間、僕の全身は強ばった。

 僕の予感は、不幸にも的中した。男子は抑えきれなくなった調子で、恋人の肌を求めた。最初は渋っていた女子生徒も、すぐにその気になり、相手を受け入れていった。そうして馬鹿な恋人たちは、屋上でお互いを求め合った。すぐ近くに、僕ときみがいることも知らずに。

 制服の擦れる音、肌のぶつかり合う音、男と女の荒い息遣い……。恋人たちの痴態を目で確認できず、その全てを聞こえてくる音によってのみ把握しなければいけないせいで、かえって具体的な光景を想像させられた。

 僕は、ずっと俯いていた。きみのほうを見るのが、とても恐ろしかった。恋人たちが行為を終え、屋上から去っていったあとも、僕の体は氷漬けされたみたいに固まっていた。きみも、黙っていた。気まずい空気が屋上を支配した。

「休み時間も、そろそろ終わりだね」

 声を振り絞って、僕は言った。

「教室、戻ろうか」

 腰を浮かそうと、アスファルトに手をついた。その上に、きみが掌を重ねてきた。指先に広がった冷たさと柔らかさに、僕はハッとなり、きみの顔を見てしまった。

 きみは、薄く笑っていた。まるで、さっきまで僕らの背後で行なわれていた、あの淫らな行為など無かったみたいに。きみのほほ笑みは、普段となにも変わらなかった。

「先輩、わたしたちも、してみませんか」

 きわめて静かな、抑揚の少ない言い方だった。

 僕は顔の筋肉が引きつるのを自覚した。

「なに」

「さっきの人たちが、していたこと」

 僕は小刻みに、首を左右へ振った。

「ダメだ、そんなの、簡単に……」

 心の底まで覗き込もうとしてくるような、まっすぐなきみの瞳には、きみとは対照的に戸惑うばかりの、矮小な僕の像が結ばれていた。

 きみは首を傾げた。

「先輩は、好きな人がいるんですか?」

「そんな人、いない、いないけど……」

「なら、なにも問題ありませんよね」

 きみの瞳に映る僕の顔が、拡大され、膨張していった。顔を近づけてきたきみは、唇同士を触れ合わせた。小さな舌先が、僕の唇の隙間から侵入してきた。きみの唾液は媚薬に違いなかった。僕はそれっきり、きみを拒めなくなった。

 僕の下腹部に跨るや、きみはブラウスのボタンを外していった。女性らしい(ふた)つの膨らみが露わになると、僕の頭はその山あいへ抱き寄せられた。

 頭の中が真っ白になっていた。どうすればいいのか判断できなかった僕は、きみにリードされるがままだった。それはそれは、たどたどしい愛撫だったはずだ。なのに、きみは嬉しげに、くすぐったそうな声を漏らしていた。

 きみの胸に唇を寄せているとき、僕はたしかに何も考えられなくなっていた。しかし同時に、自慰を終えた直後のように落ち着いているもう一人の自分が、すぐ隣に立っていた。その醒めた瞳の僕は、きみの鎖骨に貼られている絆創膏について、ずっと考えていた。

 高校時代、きみはいつも、体のどこかに必ず二、三枚の絆創膏を貼りつけていた。手の甲、ふくらはぎ、首筋……。初めて会ったときも、太ももの内側に、貼られていた。あまりにも気になったものだから、一度だけ尋ねてみたら、きみは珍しく困ったふうに笑って、教えてくれた。

「家で飼ってる犬が、わたしにだけ懐いてくれなくて……よく、噛まれちゃうんです」

 きみの敏感な部分を舐める僕の後頭部を、きみはずっと撫でていた。冷静な眼をした、もう一人の僕はぼんやりと考えていた。まったく懐かない飼い犬が噛みついてきても、きみはこんなふうに撫でながら、いつも受け入れているのだろうか?

 準備が整うと、僕に跨ったままで、きみは積極的に僕を受け入れた。そのとき、僕は一切の誇張なしに、全神経をきみに奪われた。灼熱の中から生まれる未知の快楽と、得体の知れない恐怖が押し寄せてきて、僕の体は震えてしまった。そんな情けない男を、なだめるように、きみはしばらく抱き締めていてくれた。

「先輩、大丈夫ですか……動きますね」

 僕が落ち着いたのを確認すると、きみは膝を立てて、僕を突き放しては引き寄せるのを繰り返した。その緩急は穏やかだった。顔を上向かせたきみは、唇から甘い吐息を漏らした。

「外でするの、初めてですけど……こうすると、空にふわふわ浮いてるみたいで、とっても……」

 僕は奥歯をグッと噛んで、みじろぎ一つせずにいた。不用意に動けば、すぐにでも果ててしまう予感があった。しかし夢見心地なきみの言葉を聞いた瞬間、動かずにはいられなかった。

 きみを下から突いていた。不意打ちを喰らい、きみは一瞬、その痩身を硬直させた。僕にしがみついてきたきみは、浮かせていた腰を、ゆっくりと落としてくる。それを再び、僕は力強く突き上げる。きみが弱々しい悲鳴をあげた。油の切れた工業機械みたいな、ぎこちない動き方でも、僕は必死に、きみを空へ打ちあげ続けた。きみが地面に落ちてこないように。

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