始まりの日
きらきらと、日の光が海面に反射している。電車の窓から見える明るくさわやかな景色とは裏腹に俺の気分はどんよりとしていた。会社にボランティアに熱心でアクティブな両親は恋人をなくして、大学卒業後も就職できず、ひきこもってしまった俺を赦さなかった。生産活動をしないのなら無償奉仕でもして来いと勝手にボランティア登録をしてしまったのだ。荷物と共に放り出され、帰るところもなくされた。仕方なく俺はボランティアとして親に登録されたサナトリウムに向かうことにした。仕事をしなければ早めに親に連絡が行ってやめさせられるだろう。そう思っていた。
件のサナトリウムは海の傍にある。地図を見ながら坂を登っていくと少し変わったマンションといった風情の建物が切り立った崖の上に立っていた。周囲を高めの生け垣で囲ってある。ただ門は校門のように頑丈な作りになっていた。それは嫌々来た俺にしてみれば牢獄のようにさえ見えて、重いため息がこぼれる。ここにいても仕方がないと、門につけられてあったインターホンを押した。
「いらっしゃい、待ってました」
「ども」
「うちは手が足りなくて困っているので来ていただけて嬉しいです」
優しげな中年ほどの女性は柔らかに微笑む。明らかに態度の悪い俺に眉をしかめることなく、笑顔のままで中に促した。この年の人にそんな反応をされたのは久しぶりだ。誰しも、こんな態度だと眉をひそめるし、ニートだと知ると蔑むような光を宿す。なのに、この人は変わらないままだった。
「私たちは貴方に出来ないことをやってほしいとは決して言いません。貴方が出来る分だけ、私たちの手伝いをしていただけたらいいんです」
例えば、患者さんの話し相手とか、荷物運びとか、にこにこと笑って説明する彼女は俺をだましている感じもふざけているようでもない。訳がわからない。俺は眉を寄せた。
「何もしないかもしれないぞ」
「お疲れの日はそう言っていただければ結構ですよ。まぁ毎日毎日というのはさすがに困りますが」
では、今日からよろしくお願いしますね。彼女は会話を終わらせ、通りかかった青年に俺を部屋に案内するように言った。いかにも道を踏み外したことなどないというような雰囲気の好青年、というのはこんな感じだろう。どうもいけ好かない。
「初めまして、介護士の藤野です。今日からボランティアに来てくれた人ですよね?」
「えぇ、まぁ…」
濁した曖昧な返事にも彼はにこりと笑った。人好きのする誠実そうな笑顔。訳も見下されているような気がして無意味に苛立つ。
「どうかしましたか?」
「いや」
「では、部屋に案内しますね」
彼は丁寧に施設を説明しながら、俺を部屋まで案内してくれた。こんなことまで説明されなくてもわかると怒鳴ってやりたかったが、そんなことをすれば親になんと言われるか。母親はともかく、父親はわかった途端にこうして家を叩きだした人だ。よく考えれば、やめさせられたら、次は長期のマグロ漁船にでも乗せられかねない。別にそうやって働いている人を侮辱するつもりはないが、明らかに自分に適性がないのだ。船に乗れば酔うし、生魚には触れない。それは勘弁だ。無理やり嚥下する苛立ちは、形のないまま心の底でどんよりと溜まる。
これから暮らすだろう部屋はありがちな感じのシンプルな部屋だった。机といすとベッドとクローゼット、あとはトイレと風呂と小さなキッチンがついた小さな部屋。外にバルコニーがあって、洗濯ものはそこに干すようにとのことだ。洗濯自体は共用のランドリーでするらしい。
「狭いですけど」
「いや、その、十分、です」
「なら、良いのですが」
文句は言えない。ここから追い出されたら行くところがないのだ。ついさっき気付いたけれども。
「僕の部屋は左に三つ行ったところにあります。一応札がかかってるのですぐわかると思います。何かあったらいつでも声をかけてくださいね」
今日は、仕事はないそうなので、院内を回ってみてくださいね。そういうと彼は部屋から出て行った。扉がしっかり閉まると、俺はもっていた荷物を適当に置いて備え付けのベッドに寝転がった。
「変なところに来ちゃったなァ」
何かしろと初っ端から言われると思っていたのに、今日はゆっくりしろとのこと。働くものかと身構えていたのに、出鼻をくじかれた気分だ。そんなことの準備をするのもどうかと思うが。何に対してもやる気が出ないのだから仕方ない。しかし、部屋の中に暇をつぶせるものはなく、こんな俺を見て、あいつはどう思うんだろうか。なんて考えても仕方のないことまで思い浮かんできた。死んだあいつが何かを思うわけがない。馬鹿らしい考えは頭を振って追い払った。部屋にいても仕方ないようだ。
「外にでも、出てみるか」
部屋にかぎをかけて、外に出る。田舎であることも手伝って、ここの庭は広い。緑の垣根の向こうには青く光る海があるし、散歩するには丁度いいだろう。そう思って建物の周りをぐるりと一周することにした。
「あれ?知らない人だ」
突然散歩中に聞こえてきた、酷く若い声に出所を探す。見回すがそんな若い子供の姿など目に入らない。
「何きょろきょろしてるの?上だよ。うーえー」
言われるままに上を見上げれば窓から身を乗り出している高校生くらいの少女。でもあのあたりは病室のはずだが。
「お兄さん、初めて見るね。どこから来たの?いつ来たの?いつまでいるの?」
無邪気に聞いてくる様子は病人だとは思えない。誰かの見舞いだろうか。俺がぼんやりと見上げていると、答えない俺に痺れを切らしたのかそいつはむくれた。
「お兄さん!聞こえてるんでしょ。なんで黙ってるの?」
なんと答えていいのかわからず、ぼーっと少女を見上げていると、少女は突然顔を暗くした。
「もしかして、話せない人?」
「いや、そうじゃない」
ぼそり、と答えると少女はほっとしたような顔を見せる。くるくると良く変わる表情だ。
「なんだ、良かった。じゃあ、なんで黙ってたの?」
「なんて答えていいか、わからなかったんだ」
「怒らないでよぅ」
「別に、怒ってない」
能天気な物言いと声にイライラしながら答える。ここで自分より10近く年下だろう少女に怒鳴るのは大人として気が引ける。まぁ、ニートをしていて大人も何もないだろうが。
「ねー、お兄さん、なんていうの?」
「聞いてどうする」
「覚える。どうせ毎日会うんだから、名前覚えた方がいいでしょ?」
毎日という言葉が引っかかって眉を寄せる。毎日見舞いに来るのか。暇人…
「だって、私ここに入院してるんだもの。皆でご飯食べるんだから、会わない訳ないでしょ」
その言葉に思わず息をのむ。先ほどの説明では治る見込みのない患者も多くいると聞いた。こんな年の少女がそのうちの一人なのだろうか。
「ねー、名前」
「うっさい。関係ないだろ」
なぜか胸が詰まった。事故で死んだ恋人よりもずっと若い、若いと言うより幼いと言う言葉の似合う少女が、ここにいる。ここに似つかわしくないほどの天真爛漫さで。なんだかいたたまれなくて、その場を急ぎ足で離れる。追いかけてきたのんきな声は無視をした。訳もなく、つらかった。
散歩という名の散策を速足で切り上げて、部屋に戻る。院内を回ろうと言う気が失せた。あのくらいの年頃の人間もいると言うことは、さきほどの介護士や自分と同じくらいの人間もここにいるかもしれないということだ。なんだか直視出来る気がしなかった。




