雪の章1
日中の雨のせいか空は澄みきっていた。
またたく星を見上げて弘世は呟いた。
「冷えるな…」
春とは言え雲ひとつない空は甲冑姿の武者たちの体温を容赦なく奪って行く。
足元から深々と冷える。
それはまだ若い弘世にとっても例外ではない。
「盛清はまだ見つからぬか」
「はっ」
「山を越えられたら厄介だ。はやく捕らえよ」
下知を受けた兵が猟犬のように素早く駆け出す。
足元の悪い山道を駆け上がって行く彼らを見送り、大川に目をやると、東の空に臥待月が顔を出した。
欠けはじめたとはいえまだ円みを帯びた月は、敗走する内藤盛清らを残酷に照らすことだろう。
逃げ切ることなど不可能だ、と弘世は心の中で呟いた。
正平七年(観応三年 1352年)閏二月十九日(ユリウス曆四月三日)、大内弘世は周防国東部にある新屋河内に兵を進めた。
これは父、弘幸の積年の屈辱を晴らすために始めた弘世の鷲頭攻略の最終局面だった。
周防に長い年月をかけて勢力を広げてきた多々良一族のうち、この頃もっとも大きな派閥となっていたのは周防西部の吉敷郡大内に住む一党だった。
弘世の祖父である大内重弘は六波羅探題の評定衆を勤め幕府の信任を得て周防の権介となった。
しかしその跡を継いだのは嫡男である弘幸ではなかった。
祖父の弟である鷲頭長弘だった。
彼は大内に生まれ、多々良一族の中でもっとも古い名家、鷲頭に養子に出た男だったが、才覚と人望に恵まれ、兄の大内重弘よりも幕府内で高い官位を得るに至った。
当然ながら鷲頭長弘が多々良一族の長となることに異を唱える者はおらず、弘世の父である弘幸は叔父の配下として守護代を仰せつかることになったのだった。
いとやんごとなき方々と似たようなものだ。
弘世は幼い頃そう思っていた。
後嵯峨天皇の二人の皇子の家系はここ数十年、相互に皇位に就くものを出しておられた。
兄の後深草天皇の持明院統。
弟の亀山天皇の大覚寺統。
きっと鷲頭長弘の後継は長弘の兄の嫡男である我が父なのだろう。
弘世はそう思い込もうとした。
しかし大叔父鷲頭長弘が老いたとき、その後継となったのは父の従兄弟である鷲頭弘直だった。
一度得たものを手放したくないのが人の常。
持明院統と大覚寺統も我こそは正当な治天の君であると譲らず、同時に二人の天皇が並び立つ前代未聞の時代に突入していた。
二十代半ばになった弘世は、落胆で気力を失い一回り小さくなった父の背中を見て思う。
華々しく幕府の重鎮と友誼を交わす鷲頭の影で、地道に周防守護代を勤めあげてきた父のあの精勤は意味が無かったということなのか。
この自分はどうなるのか。
漫然と待っていては多々良一族の長となれないことは明白だ。
このままでは多々良の嫡流は鷲頭になる。
それをはっきり悟ったとき、弘世は自らの手で望むものを得ようと決意した。
一度決心すると、弘世の行動は速かった。
鷲頭一党の興隆への危機感を同じくする大内の分家、陶の当主である陶弘政に命じ、吉敷郡陶からおよそ九里東の都濃郡富田保に拠点を移させ鷲頭への足掛かりを作らせた。
と同時に大覚寺統に接触を試みた。
大叔父一族に周防守護職を授けたのが持明院統であるならば、己は大覚寺統から周防守護職を得れば良いのだ。
いたって簡単な話だ。
大覚寺統に人脈を持つ田布施の波野に住まう大内分家の助力もあってか、弘世は意外なほどあっさり周防国守護職を得、周防に鷲頭と大内、二人の守護が並び立つこととなった。
大義名分を得た弘世は陶弘政をさらに一里前進させ都濃郡下上に居館を築かせ、ここを鷲頭攻めの最終拠点とした。
鷲頭長弘が没する頃には鷲頭家は西は末武川、東は大川に挟まれた鷲頭山を中心にした狭い地域に押し込められていた。
父上のお陰だ。
弘世は父への感謝を幾度となく噛みしめる。
都に目を向けていた鷲頭長弘に代わって地元で守護代を務めていた弘幸への信頼が若い弘世の追い風となった。
そうでなければ若造風情が、と歯牙にもかけられなかっただろう。
兵たちのざわめきに弘世の思考が途切れた。
音のした方へ顔を向けると、松明を掲げた武者が一人、足早に山道を下ってきている。
「おーい、若様よぉ。見つけたぞぉ」
わっと歓声があがった。
押し寄せて来る同輩らをかき分けて男が歩いて来た。
日積弥次郎。
周防東部の楊井日積に住まう武士の次男で弘世の鷲頭攻略に加わった男である。
ひょろりとした痩身と飄々とした物言いとは対照的に、戦場に立つと真っ先に嬉々として飛び出していく。
見事な槍さばきで迷いもなく駆けていくその男が、今はなぜか困惑した表情で弘世のもとにやって来た。
「見つけたか」
「あー…、見つけたのは見つけたと言うか…」
「はっきり言え」
「はぁ」
早朝からの激しい合戦でざんばらになった髪をかき回して、弥次郎は大きく嘆息した。
「尼寺に逃げ込まれた」
一気呵成にそう告げるとその場にしゃがみ頭を抱えた。




