白き刃
ついにその魔物が解き放たれた。
当の本人は手をまじまじと見つめ、結んで開いてを繰り返している。いつもの間抜け面で。
「デラレル……。モウジユウ……ダ……」
嬉しいのはわかるが、もう少し静かにできないものか。
「コレデ……ホンライノ……チカラモ……モドル……」
「本来の力?」
男の子が不思議そうな顔でそう尋ねる。ああ、本来の力と言っていたのか。それにしても、よくこいつと平然と会話ができるものだと感心する。
確かに封印されていた力が戻ったのだろう。大分力が増したのを感じる。だがそれ以上に煩い。夜に大きな声を出すなと教えてくれるものはいなかったのか。
「ソウダ……ハクジン……ト……ヨバレル……ユエン……ダ。……ワカルカ……」
人間の前だと態度が大きいのが気に食わない。いや、怪異とはそうあるべきなのはわかってはいるが。それにしても所以も何もハクジンは白人だろう。
「トク……ベツダ……。スコシダケ……ミセテヤル……」
ニタリと邪悪な笑みを浮かべる。誰も見たいとは言っていないのだが。
やつがちらりとこちらを見る。その目は恥じらいとも、自信とも取れるようだった。ひゅうひゅうという呼吸が止まり、森が久方ぶりの静寂に包まれた。
なめらかな頭頂部が螺旋状に伸びあがる。さながらリンゴの皮を剥くかのように。それが腕に、胴に、脚に、全身に波及する。しゅるしゅると毛糸玉がほどけるように、見る間にやつの体が解れていく。
さすがにこの予想外の変化には驚きを隠せない。眼だけが目の前の状況を食い入るように見つめている。やがて目の前には、一本の白いゴム紐のような形状の物があった。紙のように薄く、月のように白い。それはひらひらと風に踊り、月の光を受け、刃のように青白く妖しく輝く。それは……白刃、いや薄刃。不覚にも私はそれを、美しいと思ってしまった。
明らかに、先程までとは空気が変わった。目線だけを動かし、男の子を見遣る。彼は自分の体を抱き、かたかたと震えている。無理も無い。私でさえ背中に氷を詰められたような緊張感を感じているのだから。
その白き刃が鎌首を持ち上げたかと思うと、先端が僅かに揺れた。聞こえたのはしゅる、という風を切る音。少し遅れて山の眠りを覚ますような轟音。目の端に火の粉のように空で舞い踊る何本もの巨木が映り込んだ時、そこで初めて周囲の木々が切られたのだという事に気が付いた。
森が再び静けさを取り戻してもなお、私の心の臓は五月蠅く鳴り続けている。夢かと思いたかったが、ぽかりと抜ける闇と、横たわる大木がそうではないと無言で訴える。
いつの間にかハクジン様はいつもの姿に戻っている。こちらに肩甲骨の飛び出た背を向けているため、その表情まではわからない。だが、何を考えているかはわかるつもりだ。嘗ての力を得たやつにとって、もはや私も子供も必要ない存在……。圧倒的な力を見せつけた後は……。
ハクジンがゆっくりと振り返る。自然に脚が一歩だけ下がった。すう、とやつが息を吸い込んだ。その顔は、先程と同じはずであるが、今の私には直視できない。
その人ならざる口で何を言うのか。
「ドウダ……スゴイダロ……ウ」
脅しか……。ああなりたくはないだろう、と言う事か。そう声を掛けられた男の子の足元には、水溜まりが広がっている。彼は頷くことさえできず、壊れた楽器のように歯をガチガチと鳴らすのみである。自分でも不思議だった。真っ先に考えたのは、私はこいつを守れるだろうか、であった。
「センパイ」
常闇の如き深き瞳がぎょろりとこちらを向く。私に卷族になれとでも言うつもりか。
しかし今の私には断る術は……。
「ドウデシタカ……。マア、センパイ……ニハ……オヨビ……マセンガ」
何を言っているのか、意図が全く読めない。戸惑う頭で言葉を探した。
「ああ、中々だな」
絞り出した言葉。できるだけ冷静に、さも未だ自分に余裕があるかのように。
それを聞いたやつの口角が揚がる。ハッタリがばれたかと慌てる自分と、いやどう考えてもばれるよなと冷静になる自分がいた。だが直後にやつの口から出てきた言葉に耳を疑った。
「フフフ。……ハジメテ……センパイガ……ミトメテ……クレ……マシタ……ネ」
隙あらば奪う。これは過酷な勢力争いを繰り返す我々怪異の世界では当然のことだ。たとえ嘗ての友人、恩師であっても、自分の存続に少しでも障害になりそうならば、若いうちに摘み取る。それがこの世界のルールのはずだ。それをこいつは……。
「馬鹿か。いくら力があっても、その甘い考えでは上に立つことなど出来ん。それどころかいつこの地を奪われるとも限らん」
私は何を言っているのだ。先程までこいつを体よく利用してのし上がる、と考えていたはずではないか。
「お前はわかっているはずだ。明らかに私よりも力がある事を。たしかにかつての私と比べたらわからんが、少なくとも今、この瞬間は圧倒的にお前が優位のはずだ。」
やつは何も言わずに、ただじっと立っている。その小さな体に浴びせる。
「何故私を追い出さない? 何故従属させない?」
浴びせる。何故、何故と。まるで自分に問いかけるように。……何故私はこんなことを言うのか。自分に得など無いはずだ。
「センパイ……ハ……ワタシ……タチ……ヤマノ……ケノ……アコガレデス……」
「憧れで強くなれるか、腹が膨れるのか」
先輩と慕われるのが嬉しい? こいつがどこまでやれるかをこの目で見たい? いや、怖かったのかもしれない。腹の見えぬこいつの態度、振舞い、その全てが。
「アナタニ……アコガレタカラ……アソコ……マデツヨク……ナレタノデス」
「適当な事を言うな」
たかが数百人程度の人間に追い出され、居場所を失ったこの私だ。その私にあの姿を見せつけてなお、憧れと言いきれるものか。別の腹があるのは間違いない。
「テキトウ……デハアリマセン……」
不意に訪れた。何度目かの静寂。目の前の男は静かに口を開く。
「アノスガタハ……」
ああ、今夜は月が綺麗だ。




