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灰の軍勢が引き潮のように下がっていく。
シルヴィアも上空からの警戒をすでに解こうとしている。敵の退却は粛々と行われ、何事も起きそうにはなかった。
押し寄せていた圧迫感が、急速に遠ざかる。
僅かな兵力に、崩壊した防衛体制。
敵は視界を埋め尽くす物量と、数百年に渡り人類を追い詰め続けた軍団長が二人。
絶望的な状況だった。だが——
静寂が降りた。誰かの手から滑り落ちた剣が地面を叩く。
甲高い音を合図に、ぽつりと誰かの枯れた声が響いた。
「勝った……のか?」
安堵と戸惑いが入り混じった独白。誰もが同じ感情を抱いていた。
「おい、灰の軍勢が退いていくぞ……」
「あああ……やった、やったんだ……」
少しずつ声が重なり、やがてうねりとなる。
歓声が、爆発した。
「うおおおおおお!!」
「やった!!」
「生き残ったぞ!!」
「見たか、この野郎!!」
泣きながら笑う者。その場に崩れ落ちる者。仲間と抱き合う者。
未だ灰は晴れないが、『凶星の灰竜』の骸を浄化すれば、いずれ正常な状態へと戻るだろう。
俺達は——勝利したのだ。
(生き残った……守り、きれた……)
張り詰めていた緊張が途切れ、意識を失いそうになる。
足元が浮く感覚。ひどい目眩が襲う。
霞む視界に白銀の騎士の姿が映った。
ブリュンヒルト。彼女は先程の一撃でついに力を使い果たし、夜明け前の星のように静かに消えようとしている。
俺は最後の力を振り絞り踏み出すと『天眼の琥珀』を杖に彼女の元へと向かった。
「ブリュンヒルト……!」
その名を呼ぶ。
存在は朧げで、すでに輪郭は多くが光の粒子へと変わりつつあった。
白銀の騎士は振り返ると、静かに俺の名を呼んだ。
「カナタ、無事でしたか」
碧い双眸が俺を捉える。
「ああ。お前が守ってくれたから、傷一つ無い」
「こんなに汚れて……」
笑って見せる俺に、ブリュンヒルトの腕が伸びる。
だが、俺に触れることなく、白銀の腕は身体をすり抜けていった。あのしなやかで逞しかった感触は、もうそこにはない。
碧い瞳が寂しげに伏せられる。
「転んだだけさ」
俺は胸が締め付けられるのをこらえながら、強がって見せる。
実際、俺が泥にまみれているのは自分で転んだからだ。実際に戦ったのは彼らであり、彼女らだった。
「……随分と無茶をしましたね」
僅かに咎めるような響き。だが、無茶をしたのは俺ではない。
俺など英雄たちの後ろで、ただ演技をしたにすぎなかった。姫を演じ、セレアを演じた。
体を張って戦ったのは、自分以外の皆だ。
それでも、確かに共に戦えたと信じる。
「でも、皆を守れた。俺とお前で……」
喉の奥が熱く焼ける。言葉は形を成す前に崩れていった。
ブリュンヒルトは微かに目を細めると、優しく言い聞かせるように言う。
「シルヴィア様の言うことをよく聞くように。無茶は、ほどほどにしてください」
「……ああ」
崩れ落ちる光の粒は蛍のように舞い、雪のように溶けていく。
白銀の鎧が透け長い金髪が風に揺れる。
滲む視界にさえ、その流麗な立ち姿が脳裏にはっきりと焼き付く。
「セレアを、よろしくお願いします——」
光が弾けた。
白銀の粒子が天へと還っていく。
俺はその軌跡をしばらく見つめ続けた。
目の前にはもう、何もない。
温かな残滓だけが、彼女がここに在ったことを証明している。
瞬きをすれば熱が零れ落ちてしまいそうだった。
——必ず、守り抜く。
誰にともなくこぼした呟きは風に消えた。
膝から力が抜け、灰と泥の交じる地面が急速に迫る。
だが、叩きつけられる衝撃は来なかった。
俺は、ふわりと柔らかな腕に受け止められていた。
「今は休むが良い」
視界が黒く塗りつぶされる最後に映った色は深緑。
暗転する意識の底で、遠く歓声だけが響いていた。
古都編・完
最後は若干短くなりましたが、これにて一区切りとさせていただきます。更新速度を保てるだけの書き溜めを行えたら次章へと行きたいと思います。しばらくお待ちくださいm(_ _)m




