<37> アッシュの過去――イブとの日々
――5年前、ポルティガ。
「イブ、具合はどうだ?」
寝室に入ってきて、アッシュがそう声をかける。
窓辺に置かれた寝台の上では、アッシュの妻であるイブが上半身を起こして窓の外を眺めていた。
「ああアッシュ、おかえりなさい。今日は少し具合がいいのよ」
アッシュに向かって優しく微笑みながら、イブが言う。白い寝間着を着たイブは、顔色が青白く、実際にはあまりよくは見えない。さらさらだと皆に言われていた金髪は随分と傷み、手も以前の柔らかさではなく、骨ばった細さになっている。
けれども、その優し気な笑顔には、イブの厳しい病を感じさせない柔和さがあった。
イブはいつもそうだった。病に蝕まれ、相当な痛みや怠さがあるはずなのに、いつもアッシュには笑顔を見せていた。その笑顔を見るたびに、アッシュは今日は本当に具合がいいんじゃないかとか、もしかしたら快方に向かっているんじゃないかとか、そんなふうに錯覚してしまうほどだった。
「寝台を窓辺に移動してくれたから、午後はずっと広場を眺めていたの」
先日、イブが広場が見える部屋に寝台を移動してもらえないかと言ってきた。元々の寝室の場所だと、窓の外が向かいの建物の壁で気がめいってしまうのだと。
アッシュはもちろんだと、どうして気が付かなかったのだろうとすぐに寝台を移動して、新しくイブの部屋を作った。その窓からは噴水のある広場が見えていて、そこではいつも子供たちが走り回っていたり、道化師が踊ったり、吟遊詩人が楽器を演奏していたりしたのだ。
「今日は、道化師が来て、子供たちが集まって笑っていたわ……子供たちの笑い声を聞いていたら、少し元気になった気がするの」
「それはよかった。ただ、あまり無理をするんじゃないぞ」
アッシュはそう言いながら、イブの上半身を支えてゆっくりと身体を横にする。あり得ないほどに軽かった。元々華奢な方だが、それでもどうしようもないくらいに体重が軽くなっていた。
「お医者様はなんて? お薬は見つかったのかしら?」
イブが言う。
「安静第一は変わらないそうだ。薬はいま、探してもらっている」
「そう。希少な薬なのだものね……」
イブは少しだけ目を伏せて言う。
「アッシュ、ごめんなさいね。私が病になったことで、騎士団の仕事にも支障が出ているんじゃない?」
「大丈夫だ。隊長には事情を話してある。ずっと働いていたから、こういうときこそ奥さん孝行をして来いって、そう言われているよ」
アッシュはさわやかな笑顔を見せる。アッシュは貴族が主催する晩餐会で、マクレーン子爵家のイブ・マクレーンに恋をした。凛々しい美男子であるアッシュは貴族の子女の人気が高かったが、イブに一目惚れをし、一途に想いをぶつけ、添い遂げた。
結婚できたときには、天にも昇るような気持ちだった。結婚して2年が経ち、イブが急に意識を失い、倒れたことがあった。念のため医師に診てもらうとある珍しい病気にかかっていた。
その病気の治療には、ある薬草が必要だった。王都ポルティガでも少量しか流通していない希少な薬草。最初の数か月は、あらゆる伝手を使ってその薬草を手に入れ、治療に使っていた。
大変ではあったが、イブのため、アッシュは奔走した。この治療を続けていれば、難しい病の治療も進むと、そう一縷の望みを繋いでいた。
その薬草が、先月からまったく手に入らなくなった。
すべて買い占められていたのだ。アッシュは薬屋にすがり、ある貴族が買い占めていることを知った。
それは、数か月前に、アッシュが逮捕した貴族だった。孤児の人身売買に手を染めていた貴族を、アッシュの部隊が摘発した。事件は表沙汰になり、その貴族が投獄されると思ったら、さらに上位の貴族に泣きつき、無罪放免となった。
アッシュは信じられなかった。正義のために摘発したのに、その犯人がするりと逃げ延びてしまう。そんなことがあってたまるのかと、隊長にも強く意見した。
隊長も掛け合ってくれたが、貴族社会の壁は厚かった。
そして、それからアッシュの求めている薬草が手に入らなくなった。
投獄されかけた貴族がアッシュに恨みを抱き、アッシュが妻のために希少な薬草を求めていることを知り、文字通りポルティガ中のその薬草を買い占めたのだ。
アッシュは、イブの寝台の横の椅子に座り、両手でイブの手を握りしめる。
「……どうしたの、アッシュ?」
「なんでもない。なんでもないんだ」
アッシュは、自分の悔しさをイブに知られまいと無理やり笑顔を見せる。
「そういえば、午前中、エヴァ姉さんが来てくれたのよ」
「義姉さんが?」
「そこの果物をたくさん持ってきてくれた。姉さんも騎士団の仕事が忙しいのに……少しお話できたの。とっても嬉しかったわ。アッシュも姉さんも、2人とも素敵な騎士で、私の自慢だわ」
イブはそう言うと、再びアッシュに笑顔を見せる。
「私は、何のとりえもないから、憧れちゃうな。いまは病気でも迷惑をかけているし……」
「何を言うんだイブ。俺はイブの優しさに救われている。イブがいてくれるから、騎士の仕事も頑張れているんだ」
アッシュは両手に力を込めて言う。それは心からの言葉だった。イブがいるから頑張れる。イブがいなければこの世は色を失う。アッシュは本心でそう思っていた。
「……ありがとう、アッシュ。じゃあ、私は少し疲れたから、眠っていいかしら」
「もちろんだよ、イブ」
アッシュはそう言うと、街の喧騒を遠ざけるために、立ち上がって部屋の窓を静かに閉める。
「頼む、薬草をわけてくれ」
夜、アッシュは貴族の家を訪れ、懇願していた。会いたかった貴族は出てこない。執事が対応していたが、「そんな薬草など当家にはありません」の一点張りだった。
「あなた達が買い占めていると聞いているんだ。頼む、このままでは妻が助からないんだ」
「何を言われましても、当家にはそんな薬草などありませんから、お引き取りください。このままでは、当家も警備隊を呼ばなければならなくなります。騎士様相手にそれは避けたいのです。どうか、お引き取りください」
そう言われ、アッシュは貴族の家を後にする。ありとあらゆる伝手を探して、薬草を追い求めた。けれども、手に入らなかった。確かに希少な薬草ではあるが、絶対に手に入らないといった類のものではなかった。
けれどもその薬草が手に入らない。
そして、イブは日に日にやせ衰えていく。
義姉のエヴァも、奔走してくれていた。
けれども薬草は手に入らなかった。
そして数日後、イブは衰弱し続け還らぬ人となった。
「いままでありがとう、アッシュ、姉さん……私、あなたの妻になれて、姉さんの妹でいられて、幸せだったわ……」
最後の日、イブは寝室にいたアッシュとエヴァに向かってそう笑顔を見せた。最後は眠るように息を引き取った。
「うぉおおおぉ――――っ!!」
イブの死に、アッシュは号泣した。寝台の横で、泣き続けた。
「このままだと、あなたまで倒れてしまうわ」
エヴァはそう言って、アッシュを無理やりイブの元から引きはがさなければならなかった。
なぜこんなことになってしまったのか、悔しさばかりが先に立った。
イブの葬儀の日、若くして亡くなった彼女のために、多くの人が参列した。誰にでも優しく、多くの慈善事業も行っていたイブは、ポルティガの人々に愛されていた。
その葬列に、あの貴族が現れた。
貴族は、遺族代表の席に座っていたアッシュとエヴァの前に立って、言った。
「この度はご愁傷様でした。執事から聞いて、私もなんとかしようと……あなたの奥様のためにちょうど薬を手に入れられたところだったのに、残念です……」
そう言った貴族の目は、優越感を抱いた笑みを浮かべていた。
気が付くと、アッシュはその貴族に殴りかかっていた。
「貴様ぁ――――ッ!!」
「な、な、何をするのですっ!!」
アッシュは貴族に馬乗りになり、何度も貴族を殴った。周囲の人がアッシュを貴族から引きはがそうとしたが、アッシュはその貴族を殴り続けた。
厳かな葬儀が、一瞬にして惨状となる。
そこから先のことはよく覚えていない。
けれど、後になって当時の隊長から、半殺しにするまで殴り続けていたのだと聞いた。隊長の恩情もあり、アッシュは辺境の第2隊に転籍することになった。
また、妹を失った哀しみから酒に溺れたエヴァは、あっという間に酒に飲まれ、元いた隊を除隊させられた。しばらくして第15隊に拾ってもらえるまで、まるで生気のない暮らしをしていた。
アッシュもエヴァも、お互いもう二度と会うことはないと思っていた。
ヴァレンス砦で再会するまで、5年の月日が流れていた。
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