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いいえ2 傷が傷を拒むなら、私は傷を舐めましょう

 ナギサ・バーガーバーガーの一日は早かったり遅かったりする。

 失われた記憶の生活習慣が体に染みついているからなのか、仕事をすると決めている日の朝は零の刻と一の刻の間くらいには必ず目を覚ますし、休みと決めた日には昼まで起きない。

 今日は仕事の日だ。


「おおー……寒ー!」


 起きてまずすることは、朝ご飯の用意。

 パン食が主流なこの世界では、お米が手に入ることは稀だ。

 なのでパンに合うものを用意する。


 やはり卵は最強だ。

 戦争によって色々なものが値上がりする中で、卵は価格を変えることなく手に入ってくれる。

 風の噂では小麦の価格が高騰してパンが買えなくなるなんて話もあるようだが、そうなったら芋と卵を主食にする必要がありそうだ。


「いただきます」


 ナギサは健啖家である。

 食べることがボックスのエネルギー源であるから仕方ないのだが、仕方ないが故にどうしても多く食べなくてはならない。

 今朝はパン5個と卵12個を消費した。


 次に顔を洗い、鏡で調子を確認する。

 メイクなどという貴族の身だしなみはとてもできないので、今日もすっぴん通勤だ。

 寝ぐせがないことを確認し、動きやすいよう黒髪を結び、寝間着からいつもの冒険者ルックに着替え、家を出る。

 向かう先は徒歩5分ほどの場所にある冒険者組合だ。


 戦争が始まってから、街に滞在する冒険者の数は減った。

 冒険者という普段から人類非生存圏に入り浸っている者にやってくる依頼は、国からのものが増えた。

 どれも軍に同伴して斥候をやったり一兵士として従軍したり、普段の依頼の数倍の報酬が設定されている。

 それに釣られる冒険者が多かったのだ。


 しかし、だからといって普段の探索や困りごとへの依頼が減らないわけではない。

 人手が減った分、そういった仕事への労働力も減り、ナギサのような戦争に参加する気のない冒険者の仕事は以前より潤っている。


「今日はー……っと」


 薬草採取、なくしもの、探し人、探索――

 今のナギサにとっては、日帰りの依頼が望ましい。

 何かを探す系だと見つからない場合も想定されるし、人類非生存圏まで赴くのは確実に数日がけになる。

 確実に終えられるであろう仕事としては、薬草採取だ。

 街を出てしばらく行ったところの森で規定量を採ってくるだけ。


「よし、これにしよう。夕方には帰ってこれるかな?」


 依頼の紙を剥ぎ取り、受付に持っていき、受注完了。

 あとは昼飯用の弁当を大量に用意して持っていくだけ。

 そうしてナギサの一日の予定が埋まる。



 □□□□□


 今回は夕方に戻ってくることができた。とんとん拍子に依頼がこなせてよかったとナギサは安堵する。

 夜になるとアイリア学園の寮に訪問することはできない。まぁナギサほど通っていれば顔パスで入れるとは思うが、やはり訪ねるなら夜になる前だろう。


「おっ、これいいかも」


 冒険者組合から学園への道にある本屋、ナギサが手に取ったのは一冊の本だった。

 本を買うのは今に始まったことではない。立地的にもナギサはこの店の常連だ。

 あらすじはよくある冒険小説。男の子が読むようなものだが、別に構わないだろう。


「あとは……夜ご飯は帰ってからでいいし、明日は買い物……ミアが来る日はまだ先だから……」


 考えている間に、寮までたどり着く。

 もはや顔なじみとなった守衛に挨拶をして、通い慣れた部屋の扉を叩き、返事を待たずに中に入る。


「……勝手に入ってこないでもらえませんか?」

「だって返事なかったしー」

「今度からは返事を待ってください」

「返事できるくらいになってよかったよ」


 会う度に不機嫌そうな顔を向けてくるレンファンは、今日もベッドに座り窓の外を見ていた。


「はいこれ、あげる」

「本……小説ですか」

「冒険小説。じわじわ人気らしいよ」


 レンファンは無言で受け取り、そのまま無言で部屋の隅を見る。

 そこには小さな本の山があった。

 いずれもナギサが買ってきたものだが、買った本人は読んでいないし、渡されたレンファンも読むスピードは遅い。


「もうこんなことしなくていいですよ」

「えー? だってレンファンは見てないとどこかに行っちゃうでしょー」


 ミアからレンファンの看病を託されてから、ナギサはできる限り欠かさず通ってお節介を焼いていた。

 差し入れも一度や二度のことではない。


「放っておいてください……」

「できないよ」

「それは、頼まれたからですか?」


 レンファンのことはナギサも知っている。

 勇魔大会の時に少し顔を合わせただけだが、ミアから事情は聞いていた。


「それもあるけど、私が放っておけないだけ」

「……どうして、私に構うんですか」

「私がそうしたいから」

「勝手ですね」

「そうだね。でも、やっぱり知ってる人は生きててほしいよ」

「押し付けないでください」


 レンファンはもう自殺することを諦めていた。

 世話を焼かれて生きているうちに、忘れていた死の恐怖が蘇ってきたのだ。

 叔母と同じく死ぬことを願っても、あと一歩踏ん切りがつかないようになってしまい、自分で自分を恨んだ。


「最近は元気になってくれたようでなによりだけどね」

「……そうですか。ならもう来なくていいですよ」

「学校、もう行ってるの?」

「さぁ……今は休みでしょうから」

「行ってないんだ」


 だが、出かけたり、学園に通ったりということはできていない。

 生きる気力は辛うじて保てても、動く気力までは戻らなかった。

 食事も一日一食、すっかり肌は青白くなり、やせ細ってしまっている。

 この状態ではすぐに戦えと言っても十全な力は発揮できないだろう。

 今はただ、この部屋と窓から見える代わり映えのない景色だけがレンファンの世界で、そこから出ることは、ない。


 だがそれを責める者は誰一人としていない。

 ナギサであっても、ただ様子を見て話をするだけだ。

 それが毎日のように続いているからか、レンファンもナギサに対しての態度は他より少し柔らかかった。


「訊いていいですか?」

「ん、なに?」

「どうしてあんな、エレーナ・レーデンと仲良くしてるんですか」

「あー、それかぁ」


 レンファンが渡された小説をサイドテーブルに置き、ナギサが椅子に腰かける。

 夜ご飯は遅くなりそうだと、ナギサは腰を据えた。


「エレーナは友達だからね」

「魔族とですか? 正気ですか?」

「助けてくれた恩があるし、あの子は悪い子じゃないし」

「……」

「言ってなかったっけ。私、ここ一年くらいより前の記憶がないんだよね」

「……初耳です」

「記憶が無いまま『港の国』で目覚めてね、今みたいに冒険者をしてたところに、あの子と出会ったの。色々あったんだけど助けてもらって、今はその恩返し中」


 いつも明るくお節介を焼いてくる女が実はそうだったのかと意外だった。

 レンファンは話を聞きながら、私も、と心の中で唱える。


「(私も記憶をなくせれば、ナギサみたいに生きられるのかな……)」


 すぐさま首を振る。

 どれだけ今が悲しくても、ウェンユェとの記憶を消すなどとんでもない。

 目を閉じれば、恋慕していたあの顔をいつでも浮かべることができる。

 思い出の中であれば、レンファンは幸せだった。


 しかしそれは過去だ。文字通り過ぎ去ったことなのだ。

 もう戻ってくることは、決してない。


「レンファン」


 ふと、温かいものが手に触れた。

 それがナギサの手だということを、数秒かけて理解し、素早く振りほどく。


「触らないでください。温かいので」

「温かいならいいんじゃないの?」

「温かいから……だめなんですよ……」


 思い出の中の、心の温かさではなく、今を生きる物理的な温かさは、レンファンにとって毒になり得た。

 叔母の死と共にどこかへ行ってしまったような体温を思い出してしまう。

 それはレンファンの自罰と慚悔を忘れさせてしまいかねない。

 時間が彼女を会話可能にまで回復させたように、心の傷も塞いでしまいかねない。


 そんなことは認めない。

 この世でもっとも大切な人を失った傷は、なくしてはならない。

 自ら命を断つか、どこかで野垂れ死ぬまで、人生に重くのしかかる消えない傷でなければならない。

 傷だけを感じるために、他に気を配ってはいけない。まして不幸以外の状態など、言語道断。

 今を不幸にすることこそが、過去を幸福たらしめる。幸福な過去を守るため。

 今のレンファンには、それだけがウェンユェとの繋がりだった。


「……私には分からないけどさ、最初から何もないから分からないけど」


 しかしナギサの手は、追ってきた。

 追って、レンファンの手首を掴む。


「レンファンは今を生きてるんだよ」

「やめてっ!」


 筋肉の落ちた腕に力をこめ、全力でナギサの手から逃れる。

 それでもナギサは追ってきた。

 現役の冒険者として過ごしてきたナギサにとって、このような引きこもりを相手にするのは容易いことだった。


「ウェンユェさんを忘れろとは言わないよ。でもあの人は、レンファンにこうなってほしくて自分を犠牲にしたと思ってるの!?」

「知らない、知らない、しらないっ! 分かるわけない! 私はおばさまじゃない! だから私にできるのは、おばさまを忘れないことしかないんですよ! おばさまを永遠に、永遠に……」


 いつのまに補充されていたのか、枯れていた涙が溢れてくる。

 嗚咽を漏らし、抵抗することも忘れ、ベッドに倒れ込むように力を抜く。

 だが、背中に訪れるであろうシーツの感触は訪れなかった。

 代わりにあったのは、回された腕の感触。


「私にも分からない。けど、これは私の押し付けだっていうのは分かる。だから振りほどく権利が、レンファンにはあるよ。でも……こうしないと、本当に壊れて、空っぽになっちゃいそうだよ。やっぱり」

「やめ、て……」

「やめない」


 レンファンは幼子をあやすように抱きしめられていた。

 泣きじゃくる子供を泣き止ます親のように、ナギサに包まれていた。

 触れた個所から体温が流れ込み、さらに感情の堰を決壊させる。


「もう、嫌だ……やめて、優しくしないで……! 魔族の、おばさまを殺した女の、仲間のくせにぃ……!」

「私がエレーナの友達なのと、レンファンに優しくするのは、別に矛盾しないよ」

「なんでぇ……!」

「目の前で苦しんでる子がいるから、かな……分からないけど。私はそういう人間だから」


 ただただレンファンの泣き声が浮かぶこの空間は、ナギサの腹が鳴るまで、動くことはなかった。

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