第二章エピローグ・天
人間たちを返してから何日かが経った。
ヘブンズコートを預けられ、天使たちの長を任された者、主天使。
彼女は第1フロートの自室にて休んでいた。
およそ1000年もの間不在にしていた部屋であるが、誰かしらが常に掃除をしていたらしく、埃のひとつも無い。
「私としたことが……無様なものだ」
天使長に謀られ第2フロートに封印されたことか、天魔族に後れを取ったことか、誰にも聞かれない呟きは虚空に消える。
「エレーナ・レーデン……」
肉体を完全に消滅させても、何度も虚空から現れるように復活したあの少女。
どう見ても天使の能力ではない。速度もそうだが、天使にあのような再生はありえない。
右手に本を出現させる。経典に似た大きさであるが、まったく違うもの。
『書庫』と呼ばれるこれは、エレーナが言ったような思考を読むものではない。
読み取るのは、記憶。
この世界に生きる者すべての記憶を蒐集し、蓄積する。それが『書庫』。
本という形にしているのは、あくまで記憶を閲覧するという動作を分かりやすくしたものに過ぎない。
誰が、何のために作ったのか、などという疑問を主天使は挟まない。すべては天柱の考えなのだから。
パラパラとページが捲られ、記憶が記され続けていることを確認する。
『書庫』はリアルタイムで人の記憶を記録し、天柱に役割を与えられた者のみが閲覧を許される。
そんな『書庫』ですら記憶を読むことができないナギサ・バーガーバーガーなる少女のことが気になるが、それよりも確認すべきことがあった。
「奴は、何者だ?」
ページを遡る。
見ているのはエレーナの記憶。
主天使が見た彼女の記憶は、勇者に封印される時の前後と、復活後という最近のものばかり。
それよりも前――エレーナのルーツに関わるような記憶はまだ覗いていない。そんな時間は無かったためだ。
「……フン、忌まわしい記憶たちだ」
順繰りに見ていくが、1000年前のエレーナはまさに『世界の敵』だった。
イムグなる魔族を王と崇め、『魔王の騎士』として人類大陸を侵略する尖兵となり、数多くの人々と天使ひとりを死に追いやった。
そうしなければならなかった理由も分からなくはないが、やはりその行いは天使にとって看過し難い。
見るだけでもおぞましい記憶だ。
「これが始まりか……人間の町か?」
主天使はついに辿り着く。エレーナの記憶の始まりの場所。
人類大陸、今はもう存在しない『掟の国』。その小さな町に彼女は生まれていた。
天魔族のくせに何故人類大陸に? という疑問は浮かぶが、そんなものを吹き飛ばす光景が彼女の頭に直接送り込まれる。
「…………ッ、何だと!?」
思わず立ち上がってしまった。
目は見開かれ、信じられないものを見た、と誰もが分かるような表情で固まっている。
手は震え、彼女は一気に冷静さを失った。
「馬鹿な、馬鹿な馬鹿な! そんなことが!」
何かの間違いだと叫びたくなるが、『書庫』の記録に間違いはない。
彼女にとって受け入れがたい事実が、淡々とそこにある。
「…………嘘だ……」
力なく椅子にもたれかかる。主天使にできるのはそれだけだった。
今すぐエレーナを呼び出して問い詰めたいところだが、主天使にはやらなければならないことが山ほどある。
不意に扉が叩かれた。ハッとして主天使が厳しい雰囲気を取り戻す。
「入れ」と言えばひとりの天使が入ってきた。
「失礼します」
「リィリンか。なんだ?」
「その……主天使様に意見を申し上げるのは非常に恐れ多いことなのですが、私はやはり納得できません。何故エレーナ・レーデンを素直に返したのですか?」
リィリンの言い分はもっともだ。
主天使も、1000年前にエレーナに殺されたキンカとリィリンは仲が良かったと記憶している。
「私の決定に異議を唱えるのか?」
「い、いえ! しかし……やはり…………申し訳ありません……」
天使の社会は、ある意味独裁と言える。
長たる主天使の意思決定が、そのまま下の者にも反映されるのだ。
ひとりひとりが何かを考える必要はなく、ただ従っていればいい。
しかしそれならば、何故天使には人と同じように考え、感情を持つのだろうと考えない者がいないでもない。
主天使もそのひとりだ。
「はぁ……貴様の言いたいことは分かる。しかしエレーナ・レーデンはもう世界の害ではない。『天使が私情で動いてはならない』、何故か分かるな?」
「はい! 天柱より賜った力を、個人の利のために使ってはならないからです」
「ならば、貴様の使命はこの決定を受け入れることだ。感情を持つなとは言わない。しかし感情を持つからこそ、天使はそれを御し、世界と天柱に身を捧げる強さを持たなければならないのだ」
「……はい。お言葉、痛み入ります」
「話はそれだけだな? では行け」
リィリンの背中を見送りながら、主天使はひとりの男を思い出していた。
天使でありながら感情の赴くまま私利私欲に走った男、天使長を。
かつての彼は有能な男だった。
真面目で信心深く、主天使の言うことをよく聞き、胸を張って右腕と呼べるほどの人材だった。
主天使を封印して天使のトップに立ってからも、欲を満たしながら天使の仕事はしっかりとこなしていた。だからこそ1000年もの間君臨し続けることができたのだろう。
それだけに、彼を処断するのは惜しいと思わないでもなかった。
しかし彼は背信者。冷徹に残酷に抹殺することこそが主天使の役目。
「欲に目が眩めば、どんな聖人も堕落するか……」
再び扉が叩かれる。訪れたのはまた別の天使だった。
「主天使様。第6フロートのことですが……」
「天使長が作らせたフロートか……確認している。奴の背信の証そのものだ。残骸に数人送れ。封印結晶のような物がまだ残っているかもしれん。人間どもよりも前にすべて回収しろ」
「はっ」
崩壊した第6フロートは、マァゼの牢屋や宝物庫などがあり、天使長が集めた宝や特殊な道具、さらには彼の欲を満たすための人間の奴隷などもいた。そのために彼は他の天使の立ち入りを厳禁していた。
奴隷はフロートの崩壊や星砕きの射撃によって全員死んだが、残骸には宝物庫に残った何かがあるかもしれない。人類の手に渡ってはマズいものも残っている可能性も捨てきれないのだ。
天使が出ていき、閉じられた扉であったが、数秒もしない内に再び開かれた。今度はノック無しで。
「主天使様ぁ」
「……天魔族か。流石、礼儀を知らんな」
「えへへ、でも処刑も封印もしなかったってことはぁ、マァゼってば許されちゃった?」
「許しはしていない。貴様の存在が私の視界に入ることすら堪らん」
「でもでもぉ、第5フロートに閉じ込めないあたりと~っても優しいの!」
「その気色の悪い喋り方をやめろ。耳障りだ」
主天使の思惑は分からないが、マァゼは特に罰を受けることもなく、第1フロートの監視区域のみながらもヘブンズコートにいることを許されていた。
マァゼ自身そのことを不思議に思っているが、殺されも捕まりもしないのはラッキーとばかりに限られた自由を謳歌している。
ちなみに彼女はエレーナについていくことを望んだが、当然の如く却下された。
「だがちょうどいい。汚らわしい天魔族の貴様にも使命を与える」
「ふふーん、誰を殺すのね?」
「殺しではない。貴様が従うのはもう天使長ではなく私だ。これまでの意識は捨てろ」
「……?」
「非常に不本意ではあるが、これは他の天使にはできない使命だ。貴様には、人類大陸へ行ってもらう」
主天使の下命に、マァゼはにんまりと顔を歪ませることで答えるのであった。




