第13話:手違いの異世界召喚(6)
2025/05/18:改行の調整
厨房区域に近づくにつれ、春原の鼻腔をくすぐる豊かな香りが強くなっていった。肉を焼く香ばしさ、煮込みから立ち上る芳醇な蒸気、香辛料の刺激的な香り...彼は半年間、この匂いに気づかなかったことに驚いた。
毎日食事をとっていたにも関わらず、その「調理」という過程に注意を払ったことがなかったのだ。
昨日まで、食事は単なる生存のための行為でしかなかった。だが今、料理は彼が求める「何か」を秘めた、魅力的な存在に変わっていた。
王宮の主厨房は巨大な空間だった。高い天井、整然と並ぶ調理台、魔導具で燃える青白い炎。数十人の料理人たちが忙しく立ち働き、命令を出す声、包丁の音、鍋の音が交響曲のように響いていた。
入口に立った春原に、厨房の衛兵が声をかけた。
「何用だ?」
「副厨房のエドガー副厨房長にお会いしたいんですが」
「副厨房は東回廊の先だ。ここは主厨房だ」
春原はお礼を言い、指示された方向へ向かった。廊下を進むうちに、香りの質が少し変わってきた。主厨房の洗練された香りから、より素朴で温かみのある匂いへと変化していた。
副厨房は主厨房に比べれば小さいものの、それでも立派な設備が整っていた。ここでも料理人たちが忙しく動き回り、昼食の準備に追われている。
春原が入口で様子をうかがっていると、肩に強い手が置かれた。振り向くと、太い眉の下から鋭い目が彼を見下ろしていた。首には赤いステッチの入ったネッカチーフがあり、腕には二本の金線が刺繍されている。
「副厨房に何の用だ?」
その声には権威と警戒が混じっていた。
「えっと、エドガー副厨房長でしょうか。私は春原といいます。昨日の夕食について伺いたくて」
男は春原の身なりを上から下まで見て、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「客人が厨房に来たところで、この時間に飯の用意なんてないぞ。明日の朝食までなら待てるなら話は別だがな」
がはは、と豪快に笑いながらエドガーはいう。
春原は困惑した表情を浮かべた後、慌てて首を振った。
「いえ、食事を求めているわけではなく……昨日私の部屋に届けられた料理について、話を聞きたくて」
「昨日……? ああ、昨日の宴会で給仕が食事を忘れたというやつか」
「はい。料理について、どなたが作られたのか知りたいんです」
エドガーは少し困惑した様子を見せた。
「料理に何か問題でもあったか?」
「いいえ、なんというか、とても……心に響く味でした」
エドガーはじっと春原を見つめ、何かを見抜くように目を細めた。
「昨日、その料理を作ったのはリュカという獣人の料理人だ。たまたま手が空いていたから任せたのだが……」
「リュカ……」
春原は思わずその名を繰り返した。その三音節が彼の舌の上で不思議な余韻を残した。
「お会いすることはできますか?」
エドガーは首を横に振った。
「残念だが、もう厨房にはいないぞ。昨日で奉公が終わったからな。確かに腕は良かった、もう少し厨房に残ってほしかったくらいだ」
「え?」
春原の心臓が沈んだ。
「どこか行かれたんですか?」
「さあな、あいつは一月の契約だった。借金返済のために来ていたらしいが、それも昨日で終わりだ」
エドガーは肩をすくめた。心なしか彼の表情は少し柔らかくなっていた。
「あの……その方はどこに住んでいるかご存知ないですか?」
「王都で料理人をしてるらしいが、店の名前までは知らんな」
「王都の……料理人……」
春原はつぶやくように繰り返した。情報は少なすぎたが、それでも何もないよりはましだ。
「ありがとうございます」
彼は深く頭を下げた。エドガーはそれ以上何も言わず、厨房の奥へと戻っていった。情報を隠しているというよりは、単に忙しそうだった。
春原は手に入れた情報を反芻しながら立ち尽くした。リュカ──獣人の料理人。これだけが彼の手がかりだった。
この半年間、春原は実質的に王宮内に閉じ込められていた。外出許可を得るためには、アシュレイか王太傅の許可が必要だった。
春原の胸に小さな決意が芽生えた。




