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第11話:手違いの異世界召喚(4)

2025/05/18:改行の調整

 春原は部屋の窓辺に立ち、宮廷の庭に降り注ぐ夕暮れの光を眺めていた。王宮内の生活にも半年が過ぎると、日々の風景さえも色褪せて見えるようになっていた。かつては「異界の珍客」として注目を集めた彼も、今では宮廷の片隅に忘れ去られた存在だった。


 時計が六時を打った。いつもならこの時間、給仕がノックの後に夕食を運んでくる。春原は耳を澄ませたが、廊下にはいつもの足音が聞こえない。彼はソファに腰掛け、手元の書物に目を落とした。『十年燃灰期の記録』の一節を再読していたが、空腹のせいか、内容が頭に入ってこなかった。


「遅いな……」


 春原は呟きながら、腹時計が鳴るのを感じていた。六時半を過ぎ、七時になっても食事は届かない。彼は窓の外を見ると、宮廷の別の棟から明かりと華やかな音楽が聞こえてきた。思い出した。今日は何かの祝宴があるという話だ。あの貴婦人が言っていた「余興」とやらも、きっとそれに関連している。


「またか」


 春原は苦笑した。宮廷での行事のたびに、彼の存在は完全に忘れ去られる。以前にも何度かあったことだった。


 八時を過ぎる頃には、空腹よりも孤独感の方が強くなっていた。彼は部屋の中を行ったり来たりし、時折窓から漏れる宴の音と光を眺めながら、自分の居場所のなさを痛感していた。


「はぁ……帰りたい」


 思わず口から漏れた言葉に、彼自身が驚いた。どこに帰るというのか。もはや彼には帰るべき場所も、帰る方法もない。この感傷的な気分は単なる空腹のせいだ。彼はそう自分に言い聞かせた。


 九時を回った頃、春原はベッドに横たわり、空腹を紛らわせようと目を閉じていた。そのとき、廊下から急ぎ足の音が聞こえてきた。そして慌ただしいノックの音。


「どうぞ」


 ドアが開き、見知らぬ若い給仕が息を切らせて入ってきた。彼の手には銀の蓋付きの皿が載った盆があった。


「春原様、大変申し訳ありません!」

 給仕は深々と頭を下げた。


「本日の宴会で皆が忙しく、あなた様のお食事をお届けするのを……忘れておりました」


 その率直な告白に、春原は思わず笑みを浮かべた。少なくとも、この給仕は本当に悪いと思っている様だった。


「大丈夫だよ。気にしないで」

「いえ、こんなに遅くなってしまって……」


 給仕は本当に申し訳なさそうだった。


「実は、副厨房の料理人が急遽作ったものです。宴会の余りものよりはましかと思いまして……」


 給仕はテーブルに盆を置くと、再び頭を下げて部屋を出ていった。


 春原は皿の蓋を取った。いつもの宮廷料理とは全く異なる盛り付けの食事が姿を現した。

 中央には、こんがりと焼けたパンの上に半熟の卵が載り、キノコと香草が散りばめられている。見た目は豪華さはないが、どこか懐かしさを感じさせる一皿だった。


「なんだろう、これ……」


 彼はスプーンを手に取り、一口分をすくい上げた。香ばしいパンと半熟卵、キノコが混ざり合った一片が、彼の口の中に入った瞬間──



 春原の体が震えた。



 予想していなかった味の奥深さに、彼は思わず目を見開いた。それは単なる「おいしい」という感覚を超えていた。


 これまで食べてきた宮廷料理は見た目は豪華で技術的には完璧だったが、どこか魂が欠けているように感じられた。整然と並べられた食材、正確に計算された味付け、完璧な温度管理──それらは確かに「優れた料理」だったが、春原の心を動かすことはなかった。


 しかし、目の前のこの素朴な一皿は違った。

 卵の濃厚さ、キノコの香り、香草の清々しさ。それらが完璧なバランスで調和しているだけでなく、そこには作り手の温かさが宿っていた。宮廷料理の冷たい完璧さとは正反対の、人の手の温もりを感じる料理だった。



 この料理からは「気持ち」が伝わってきた。



 まるで言葉を超えた対話のように、料理を通して何かが彼の心に直接語りかけてくる感覚。誰かのために作られた、という明確な意思が、一口の料理に込められていた。

 異世界に来て初めて口にする料理のはずなのに、どこか懐かしく感じられる。それは彼が日本で食べたどんな料理とも違うのに、なぜか「帰る場所」を思わせるような温かさがあった。それは味だけではなく、何か目に見えない、しかし、確かに存在する「思い」だった。


「なんだ……これ」


 春原の瞳から、涙がこぼれ落ちる。

 最初は一滴、そして止めどなく溢れ出した。半年間、感情を押し殺して生きてきた彼の心が、一皿の料理によって解き放たれたかのようだった。


 彼は気づくと号泣していた。半年間の孤独、無力感、絶望、そして諦め──それらがすべて、この一皿の料理によって掘り起こされたのだ。しかし、それは苦しみだけを呼び覚ましたわけではなかった。この料理に込められた温かさは、彼の中に小さな光を灯した。


 忘れていた感覚。心が動くという感覚。

 春原は涙を拭いながら、もう一口、そしてさらにもう一口と、スプーンを動かし続けた。口に運ぶたびに、彼の胸の奥に何かが広がっていく。異世界の飲食物は口にしてきたが、これほど彼の心を揺さぶるものはなかった。


「誰が……こんな料理を……」


 春原は気づくと、料理を半分以上食べ終えていた。彼は勢いを落とし、一口一口を味わうように、ゆっくりと食べ進めた。料理の温度が下がっても、その味わいと「思い」は変わらなかった。むしろ、冷めていく過程で新たな風味の層が現れるようだった。


 最後の一口を口に運ぶと、春原は目を閉じ、じっとその余韻を味わった。口の中に残る香りと味わい、胸の中に広がる温かな感覚。異世界の食材で作られた料理なのに、彼の魂を揺さぶるものがあった。それは材料や調理法の問題ではなく、作り手の「心」そのものが伝わってくる感覚だった。


「これは……誰が作ったんだろう?」


 彼は空になった皿を見つめながら呟いた。単なる宮廷の料理人ではない。この料理には、魂が込められていた。春原は突然、その料理人に会いたいという強い衝動に駆られた。半年間、彼の心を動かすものは何一つなかった。しかし今、この一皿の料理が、彼の内側で眠っていた何かを目覚めさせていた。


 彼は立ち上がり、部屋を歩き回った。心臓が久しぶりに強く鼓動しているのを感じる。単なる味覚の喜びを超えた何かがあった。懐かしさ、温かさ、そして何より──生きている実感。この異世界で初めて感じた「繋がり」の感覚。


「この料理……ただの料理じゃない」


 春原は窓際に立ち、夜の王都を見下ろした。無数の魔導照明が星のように瞬いている。六ヶ月間、彼はただこの景色を眺めるだけだった。何も期待せず、何も望まず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。宮廷内の豪華な食事も、すべて「生きるための栄養」以上の意味を持たなかった。


 しかし今、彼の中に小さな火が灯った。


「会いたい……この料理を作った人に会いたい」


 彼は静かに呟いた。その料理を作った人物に会い、話してみたい。なぜそんな料理が作れるのか、どんな思いを込めたのか──そして何より、他にどんな料理があるのか知りたいという欲求が湧き上がってきた。


 春原は決意した。明日、厨房に行こう。今日の料理人を探し出そう。半年間、彼は宮廷の中で与えられた役割を黙って受け入れてきた。しかし今夜、初めて彼は「自分から行動したい」と思った。


 その夜、春原は久しぶりに心躍る思いで眠りについた。夢の中でも、あの料理の味と香りが彼を包み込んでいた。そして、まだ見ぬ料理人の姿を探し求めていた。


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