異変 その6…心臓の音が聞こえない
無断転載・AI学習禁止
自宅に戻るまで、もしかして、帰ったら息を引き取っているのではないかと胸が潰れそうなほど怖かった。
もう何日も食事は喉を通らず、眠ることもできてない。
幸い、来客数の関係で勤務時間は長くなかったが、鏡を見ると、生気の失せた目をしていて、何もしていなくても涙が溢れる。
ところで、私は車の運転ができない。
「ごめん。車出してもらってもいいかな…?」
自分でも死にそうな声だと思いながら、母に電話をかける。
ここのところ数日おきに送迎を頼んでいる。
「何時?」
「最後の時間帯だったら、みてくれるって…」
「じゃあ、その時間に行けばいいね。夕飯はお父さんに1人で食べておくように言うわ」
「ありがとう」
泣きそうになりながら、電話を切った。
仕事が終わり次第、急いで家に帰る。
前は「ニャッ、ニャッ、ニャッ」などど鳴きながら出迎えてくれていたのに、今は、玄関を開けてもシーンと静まり返った廊下があるだけだ。
「ただいま…」
ネコは、香箱を組んで、リビングに移動させたベッドマットの端に座っていた。
目を細め、細く息をしている。
私が帰ったのを見ると、よろりと立ち上がり、少し足元を掠めるようにして、寝室の方へ行ってしまう。
餌皿に盛ったごはんには手をつけた形跡がなく、水を飲んでいるのかどうかも怪しい。
トイレも相変わらずきれいなままだ。
「ねぇ…大丈夫? …お腹いたい?」
思わず尋ね、抱き上げた。
その瞬間、「ニャッ!」少し鋭い声でネコが鳴いた。
シャーッと毛を逆立てることはなかったが、初めて尻尾を踏んでしまった日のようなその声に、ハッと目を見張る。
「ねぇ、痛いの? どこ? 足? お腹?」
腹のあたりを触っても、足を触っても、もう嫌がりもしない。
ただ、チラッとうっとうしそうに視線をくれて、床に寝ている。
そういえば、最近ジャンプしているところを見ない。
前は食器棚に飛び移るほどだったのに、ある時から、低い位置だけになり、いつからかパッタリと見なくなった。もしかして歳のせいかなと気にしていなかったが、もしかして、不調のせいかもしれない。
あんなに甘えん坊だったのに、抱っこをせがんでこなくなった。
本当に絶対におかしい。
なのに、自分以外はみんな、医師でさえ、
「おかしいかなぁ…?」と、首を捻る。
もしかして、私がおかしいのだろうか?
本当はネコは元気なのに、私が思い込んでいるだけなのだろうか?
そう思っても、不安は消えず、膨らむばかりだった。
(呼吸…してるよね…?)
目を閉じて静かにしているネコの鼻先に手をやると、ほんの微かに寝息が感じられた。
悪いとは思ったが、そっと胸の辺りに耳をつける。
最近、心臓の音を聞いていないと思ったのだ。
心臓が動いているのを実感したら安心できるかもしれないと思った。
が、意に反して、どうも音がしない。
ギョッとして耳を澄ますと、やっと遠くからかろうじて耳に届く微かな鼓動ーーー。
こんなこと、あるだろうか?
じっとネコを見つめ、診療予約時間が早くくることをただ祈っていた。
※
待ちに待った診療時間がきて、病院に駆け込む。
「もし、また明日来ないといけなかったら、送っていけるからね」「こっちの予定はキャンセルしてあるから」
車を降りる時、母からかけられた声だけが心強い。
様子がおかしいことと、心臓の音が聞こえない…(正確には聞こえるけどかなり弱い)ことを伝えると、
「心臓のお薬出しておきましょうか?」と、眉をすがめる。
「抱き上げようとしたとき、一度だけ鋭く鳴いて…もしかしたら、肋骨のあたりに手が当たったかもしれません。胸か…足が痛むのかもしれないとも思うのですが…」
「うーん…ちょっとみてみますね」
医師が胸を触ろうとしたその時、ネコがパッと反応した。
医師の手を噛もうとしたのだ。
「かなり嫌がってますね」
「もしかして、痛むのは、お腹ではなく胸なのでしょうか?」
「原因はなんでしょうか?」
思わず尋ねるが、返事は煮え切らない。
「レントゲン、撮ってみます…?」
尋ねられ、今度は一も二もなく頷く。
「今日はもう時間的に撮れないので、明日、また来てください。来れますか?」
「大丈夫です」
朝一番に予約を入れさせてもらった。
背中の皮膚を摘んだ医師から、脱水を指摘され、食欲が戻っていないことを伝える。
抗生物質を注射されたとき、少し食欲が戻ったことを伝えると、今回も抗生物質と栄養剤を注射してくれたが、この日は、もう前ほどの効果はなかった。




