マッサージ開始
「ふぅ、やっとできた」
思わず額の汗を拭った。フローリング部分の床はピカピカに磨かれ、その上に絨毯と何枚かのキルトを敷き、簡易マットレスの出来上がり。
「あとは……」
カインが運んできたタオルを綺麗に畳み直し、それを何枚か重ねて簡易マットレスの真ん中よりもやや上部に置いた。
「それじゃ、カインーーって、何してるの?」
カインはキッチンでお湯を沸かし、ティーセットをトレイに乗せてやって来た。
そしてこの時にはもうマーガレットの口ぶりはかなり崩れていた。それは満里奈の時のように。言葉遣いを崩すのではなく、満里奈の時のように地を出せばいいのだと気づいたマーガレットは、カインとの会話もこの方が楽だと気付いたのだ。その上、マーガレットが堅苦しい言葉遣いを使わない方がカインも地が出て接しやすくなった、と肌でそう感じていた。
「一息つこうではないか」
なんと呑気な。思わずそのような言葉が口をついて出そうになるが、確かに体は疲労していることに気がつき、喜んで席へとついた。
「それじゃ、一息ついでに軽く症状を聞きましょうか。今日はどの辺りに鈍さやコリを感じるの?」
「そうだな、前回とさほど変わらんように思うが」
「ということはやっぱり、腕から肩、首の上半身が慢性的に凝っているのね。怪我や大きな傷口はある? 古傷でも過去の怪我でもいいわ」
「いや、特にはない」
騎士だというくらいだから怪我の一つは覚悟していたのだが、取り越し苦労だったようだ。そもそもこの世界に来てから戦争の話はまだ聞いたことがない。ないわけではないとは知っているが、マーガレットはまだ数週間しかここで過ごしていない。だからカインも怪我がないのか、もしくは腕が立つからなのか。マーガレットには知る由もない。
カインは紅茶を一口飲んだあと、テーブルの上で手を組んだ。
「俺からも聞きたいのだが、マーガレットはマッサージの知識はどこから学んでいるのだ?」
「それは……秘密」
にっこりと微笑みながら、マーガレットは紅茶を飲んで誤魔化した。どこから学んだかといえば、前世の記憶からだ。前世の記憶があり、死んでこの世界に転生した。前世の世界は今とは全く違ういわば異世界だと言って、誰が信じるだろうか。しかもこの世界は異世界というよりも童話の世界、満里奈の幼い時に読んでいた本の世界なのだ。そんな話をすれば頭がおかしいと思われても仕方がないではないか。
そう思ってマーガレットは再び微笑んだ。
「秘密か、まぁきちんとしたものを提供するのであれば文句はないがな」
「それはもちろん努力します」
努力するとしか今は言いようがない。資料もなければ、筋肉や神経に関する本ですら今は借りられないのだから。インターネットという便利なものも存在しないこの不便な世界に、マーガレット小さくため息をついた。
「カインこそ、今日はお仕事ではないの?」
「今朝書類仕事をして来たところだ」
さっきも言っていたが、騎士団長ともなると意外と現場の仕事よりもデスクワークの方が多いのかもしれない。マーガレットが知らないだけで戦もないのであればそういった仕事が本来は多いのかもしれないな。なんてそんな風に考えていた時、カインはゆっくりと立ち上がった。
「では、そろそろ始めるか」
用意はいいか? そう問うような目でマーガレットへと視線を投げた。それを受け取って、マーガレットも同じく立ち上がった。
「それじゃ、まずその服なんだけど……他にもう少し柔らかい素材のものか、ストレッチが効くようなものはない?」
カインの服装を上から下まで見たあと、背後に回ってくまなく確認。するとカインも何か思い当たる節があるのか、考え込むように片手を顎に当てた。
「そうだな……執事の着替えがあったように思うが、調べてみるか。なくても俺は服を脱いでも構わんが」
「その際は下着だけは着用してね」
あっさりとそう言い返すマーガレットに、カインはどこか肩透かしを食らった。また顔を赤くするなどの反応を見せることを望んでいたが、マーガレットはオイルマッサージも満里奈の時に行なっていたため、マッサージとして脱がれることは慣れっこだった。そしてこの手の変態の対処についても慣れていた。本当に変態なやつは大抵下着を脱がないように言っても脱いでくるのが常套手段だったからだ。
「なんだ、つまらん」
そんな風に子供じみたことを言ったあと、カインは部屋を出て行った。
*
そして数分後、カインは着替えて戻って来た。黒の詰襟、長袖の上着に、下は同じ素材、同じ色のロングパンツ。足の両サイドと上着のセンターにあるボタンの部分のサイドに金の刺繍が入っている。
「これでは、どうか?」
紅茶のおかわりをしていたマーガレットは戻って来たカインの元へ足早に向かい、素材を確かめる。
「そうね、生地が少し厚いけれど、思ったよりもストレッチが効いているからいいかも。一度試してみよう。それじゃ早速、あのキルトの上にうつ伏せで寝てみて」
カインは言われるがままにうつ伏せになろうとすると、マーガレットがさらに注文をつけた。
「寝る時、このタオルを胸の下に敷くように寝てみて。それと、この枕に額を置くように顔を下に向けて」
黙って言われた通りにするカイン。その間にカインの寝心地を確かめるようにして腕の位置は顔の真横へと移動させた。
「枕と胸元のタオルの高さやポジションはどう?」
「ああ、悪くはない」
「それなら良かった。私が圧を加えると体が沈むだろうから、念のため両手はそこに。けど支える必要はないから。私も必要であれば腕を動かすから、何か違和感があれば教えて」
「わかった」
カインの体の上に大きなタオルを二枚かけた。一枚は足元から腰にかけて、もう一枚は背中に。ちょうどタオルがクロスの形になるように。
「それじゃ、始めるわ。まずは体のチェックを兼ねて軽く全身を押していくわね」
カインのつま先に膝をつくようにしてかがみ、親指で足裏の踵からつま先にかけて真ん中をゆっくりとしたスピードで押していく。
(1……2……3……4……5……)
心の中で5秒間カウントし、親指を体から離すときは3秒カウントでゆっくりと皮膚の返りをその指で感じながら離し、テンポよくツボを刺激していく。
次は足首を手のひら全体で覆うように圧をかけながら掴む。それをゆっくりとふくらはぎ〜膝裏、そして太もも〜お尻の付け根に向けて圧迫していく。
「……マーガレットにしては、なかなか積極的じゃないか」
「えっ?」
マッサージの手順に頭を使っていたせいでカインが何を言っているのか、すぐには理解できずにいた。けれど、カインが言わんとすることに気がついたとき、思わず手を離した。
「な、変なこと言わないでよ! お尻を触ってるのもこれはマッサージで……」
「冗談だ。さっさと続けてくれ」
「……!」
(こっの、変態騎士〜!)
マーガレットはもう無遠慮にカインのお尻に触れながら、お尻の一番トップを指圧。そのあとサイドに降りて、両サイドを指圧。最後にトップから斜め上、腰とヒップの付け根より少し下あたりをグッと力一杯押した。するとカインの体はブルルと小さく揺れた。
「……なんだ、そこは」
「ツボと言ってお尻や足が疲れてるとここが効いたりするんだけど、まさか……痛かったなんて言わないわよね?」
「……」
「言わないよね。だって騎士団長様だもんね。言うわけないよねこの程度で」
マーガレットはここぞとばかりに嫌味ったらしく言葉を放ち続ける。まるでマルガリータがマーガレットの体を乗っ取っているようなそんな光景だった。
「いつももっと大変な鍛錬をしてるんだろうし、もっと痛いことだって耐えてきてるもんね? 痛いわけないよね」
「……マーガレット、後で覚えておけ」
うつ伏せでどもりながらそう言ったカインを無視して、マーガレットはマッサージを続けていく。今度は背中の横に膝を立てて座り、背骨の位置を指で触れて確認し、そのまま背中の背骨を挟んで両サイドを手根で指圧していく。
肩まで上がれば、肩をつまむようにぎゅっ、ぎゅっと少し引っ張ってゆっくりと手を離した。
「うん、なんとなく掴めて来た気がする」
感覚はなんとなくつかめたが、やはり指の力が足りない。マッサージは基本体重を使い、圧をかける。けれどその体の使い方、ポジションが完全ではない。体の使い方がうまくいったとしても、それに耐えれる指をしていない。これでは簡単に腱鞘炎になってしまう。特にカインのように男性の、さらに筋肉質な体はより圧をかけなければならないのだ。
「指を少し鍛える必要があるな。でもそれは一人の時でもできる、とすれば体のポジションと圧のかけ方を中心に練習すべきかな」
「何をぶつぶつと言っている。終わったのか?」
カインは起き上がってもいいものかどうか考えながらチラチラとマーガレットを見ている。
「終わりなわけないでしょ。これからだからまだ寝てて」
顔を上げたカインの頭を押さえつけた。カインの扱いも慣れてきたのか、マーガレットはいつの間にかカインに対して雑な扱いになっていた。けれどカインもそれを容認するように、何も言わず黙って再びうつ伏せになっている。