22話 慟哭1
津波がようやく引いたのは、最初の本震から半日以上が過ぎてからだった。
関東から静岡にかけての沿岸部は、押し寄せた黒い水に呑まれ、広範囲にわたって壊滅した。
通信インフラも発災から数時間でほぼ完全に途絶し、多くの人が家族の安否すら確認できないまま立ち尽くすことになった。
首都圏も例外ではない。
建物の倒壊、道路の寸断、各地で起きた火災。旧耐震基準の建物が密集する地域では延焼が止まらず、空を染める煙はいつまで経っても消えなかった。
震度六強を記録した地域では帰宅困難者が数百万人規模で発生し、都市機能はほとんど麻痺した。
その時点で、死者と行方不明者はすでに五万人を超えようとしていた。
そんな中、晴が徒歩で祖父の別邸にたどり着いたのは、翌朝のことだった。
自分がどういう道を通って来たのか、よく覚えていない。足の裏はじんじんと熱を持ち、喉はからからで、頭の中にはずっと地鳴りの音が残っていた。
ただ、ここしかなかった。気づけば玄関の前に立っていた。
「……晴くん!?」
出迎えた茉莉もまた、ひどい顔をしていた。
目の下に濃い隈ができ、髪もぼさぼさに乱れている。
それでも晴の姿を見た瞬間、張りつめていた表情が一気に和らいだ。
「無事だったんだね、よかった……!」
勢いよく駆け寄ってきた茉莉が、晴の安全を確認するかのように、ポンポンと体を叩く。
けれど晴のほうは何の反応も返せなかった。
「昨日、お兄ちゃんとずっと一緒だったんだよね? あれ? お兄ちゃんは?」
「……っ」
その一言で、晴の中にかろうじて残っていた何かが切れる。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「ごめんなさい……!」
自分でも何に対して謝っているのかわからなかった。
ただ視界が激しく揺れ、ガタガタと体が震える。
「ごめん、ごめん……ごめ……っ」
「ちょ、晴くん!?」
頭を抱えたまま丸くなり、玄関先の床に額をこすりつけた。
父の最期が脳裏に蘇る。
あの時、何が起きたのか。
何を言われたのか。
自分が何をしたのか。
まともな言葉にならないまま、罪の意識だけが全身を支配していく。
茉莉は一瞬だけ固まった。
だがすぐにしゃがみこみ、上から覆いかぶさるようにして晴を抱きしめた。
「うん、ダイジョブ。わかった。わかったから、もういいよ。晴くんは何も悪くない。悪くないから……!」
「ごめん……なさい……っ」
玄関先で二人分の泣き声だけが、小さく折り重なった。
◇◆◇
別邸の中も無事ではなかった。
元々置かれていた家具自体は少ない。けれどその少ない家具が軒並み倒れ、棚の中身は床に散乱し、壁にも細かなひびが走っていた。
水道も電気も止まっている。インターネットはもちろん、携帯の電波もろくにつながらない。
晴は仕方なく、靴を履いたまま家の中へ上がった。
「ここさ、元々おっきな物置みたいな家でね」
茉莉は泣いた直後とは思えないほど忙しなく動きながら、倒れた箱をまたぎ、散らばったものを端へ寄せていく。
「缶詰とか飲料水とか、手動の充電器とか、備蓄品が結構置いてあるの。亡くなったお爺ちゃんがとにかく心配性でさ。昔は大げさだなって思ってたけど……今は感謝しないとね」
「……ことりは?」
晴は力なく部屋を見回しながら尋ねた。茉莉は二階を指さす。
「上で寝てる。昨日からずっと頭痛と戦いながら予知してたから。さすがに限界だったみたい。夜中に意識飛ぶみたいに寝ちゃって……」
晴は無言で天井を見上げた。
ことりが無事だと知って、ほっとしたはずなのに、胸の奥は重いままだった。今の自分には、顔を合わせるだけの余力も残っていない。
「とにかく休もう」
茉莉はできるだけ明るく振舞った。
「今は体力を回復しなきゃ。せっかく生き残ったんだから」
その提案に、晴はうまく返事ができなかった。
茉莉に促されるまま居間に座る。差し出された水を少しだけ飲み、乾パンを渡されても、すぐには口に入れられなかった。
空っぽだった。
まるで心のどこかかが置き去りにされたみたいに。
◇◆◇
それから数日、三人は別邸で避難生活を送った。
備蓄の缶詰、レトルト食品、ペットボトルの水。
使えるものを少しずつ切り崩しながら、なんとか食いつなぐ。
昼も夜もないような時間だった。
外の様子はよくわからない。通信が途絶えているから、ニュースも見られないし、ことりのチャンネルで何か発信することもできない。
ことりが二階から下りてきたのは、二日目の朝だった。
充分眠ったはずなのに、目は痛々しいほど赤く充血していた。頬も少しこけて見える。髪も乱れたままで、いつもの生意気な軽さはどこにもなかった。
「……晴」
「……うん」
互いに無事だったことは嬉しいはずなのに、笑うことができない。
ことりはそれ以上何も言わず、晴の向かいに座った。
茉莉が温めたスープを置き、三人で食卓を囲む。
けれど会話らしい会話はほとんどなかった。
そうして何もできない時間が、ひたすら積もっていく。
窓の外はつい先日のように気持ちよく晴れているのに、世界のほうが壊れたままだ。
何もかも、現実味がなかった。
◇◆◇
ネットが断続的に回復したのは、地震から三日目のことだった。
後で知った話だが、海外の民間企業が衛星通信を積んだ支援車両を、無償で手配してくれたらしい。そのおかげで、一部地域から優先的に接続が復旧し始めた。
とはいえ数はまったく足りず、つながる場所とつながらない場所の差は大きかった。
そのわずかな回線がつながって間もなく、晴のスマホが鳴った。
画面に表示された名前を見て、心臓がどくんと跳ねる。
明日香だった。
晴は逸る気持ちを抑えつつ、通話ボタンを押す。
「はい、宮永ですっ」
少しの沈黙の後、受話口の向こうで低い声が響いた。
『……無事、だったのね』
「おかげさまで。俺も、ことりも、叔母さんも今、宮永家所有の別邸にいます。あの、先輩は?」
『私は無事』
明日香の声は妙に平坦だった。
なんだか、いつも以上に。
『あの後、全校生徒も裏山に避難して、大勢の人が助かった』
「そうですか……よかった」
『でも、松木くんは死んだよ』
「――え?」
『死んだの、彼』
「――」
時間が止まった。
言われた単語が頭の中でバラバラになって、うまく頭に入ってこない。
『優愛ちゃんと一緒に、幼稚園で津波に流されたって』
「あ、の?」
晴の思考が、そこで完全に真っ白になった。
何も聞こえなくなる。いや、聞こえてはいるのに理解できない。
その顔色の変化に気づいて、ことりと茉莉がすぐそばまで来ていた。
「あの、すいません。電波の状況が悪くて……もう一度――」
『桜松丘小学校』
「え?」
『体育館が遺体安置所になってて、松木くんもそこにいるから』
「ちょ、先輩……っ」
そこで通話は一方的に切れた。
耳に残るのは、ぷつりという無機質な音だけ。
晴はスマホを握ったまま動けなかった。
陽葵が死んだ?
あの陽葵が。
いつも自分の隣にいて、うるさいくらい明るくて、そのくせ肝心なところでちゃんと寄り添ってくれる、あいつが。
――死んだ?
そんなはずがない。
あいつはそんな簡単に死ぬような奴じゃない。
頭の中で何度必死に否定しても、目の前に迫った現実は容赦がなかった。
ことりが何か言っている。茉莉も晴の肩に手を置いて揺さぶっている。
じっとりと噴き出した汗が首筋を伝い、その不快感だけが妙にはっきりしていた。
◇◆◇
その後のことは、晴もあまり覚えていない。
三人で急いで家を出て、桜松丘小学校まで向かった。
道のあちこちに瓦礫が積み上がり、アスファルトは裂け、見慣れた町並みは別の場所みたいに変わっていた。
小学校の周辺にも大勢の人が集まっていた。
避難してきた被災者。物資を運ぶ人。救護にあたる自衛隊。あちこちで怒号と泣き声と無線の音が混ざり合い、校庭全体がずっとざわついている。
その中を抜けて、三人は体育館へ向かった。
分厚い入口には一枚の紙が貼られている。
『遺体安置所』
扉を開けた瞬間、むっとした異臭が流れてきた。
「……っ!」
晴たちは一瞬顔をしかめ、立ち止まる。
九月。まだ暑さの残る時期。
空調の止まった体育館の中で、遺体の腐敗はすでに進み始めていた。
けれど晴は両足を踏ん張って、ゆっくりと中へ進んでいく。
見れば、床には黒い袋が等間隔に並べられていた。
どれも同じ形で、同じ色。番号のついたタグだけが無機質に揺れている。
少し進むと、壁際に明日香がうつむきながら立っていた。
「先輩」
晴の声に反応し、明日香はゆっくり顔を上げた。
目元がひどく腫れている。けれどもう泣き続ける力すら尽きたみたいに、その表情は静かだった。
「優愛ちゃんを助けに行ったんだって」
目の前の黒い袋に視線を落とし、明日香は口を開く。
「近所の人が言ってた。高台に逃げる時間はあったのに、まっすぐ幼稚園に向かったって。松木くんらしいよね」
体育館のどこかで、誰かがすすり泣いていた。
低く、魂の奥から絞り出すような――激しい慟哭。
晴は何も言えなかった。
ただ見えない何かに後押しされて、恐る恐る目の前の黒い袋の前に膝をつく。
ことりと茉莉が、後ろで息を押し殺すのがわかった。
晴は何度か指をもつれさせて、それでもどうにかファスナーをつまみ、少しずつ袋を開く。
そして――
そこにいたのは、陽葵だった。
陽葵は可愛がっていた妹と並び、穏やかな顔で眠っていた。
苦しみも、悲しみも、怒りも、もうどこにも残っていない。
まるで今すぐ目を覚まして「よう、晴」なんて軽く声をかけてきそうな……。
そんな都合のいい幻覚が見えそうになった。
でも違う。
『それ』はもう、動かなかった。
笑わなかった。
話さなかった。
目の前にあるのは、かつて親友だったもの――
「ぅ、ぐ……っ!」
そう理解した刹那、胃の奥がひっくり返るように波打った。
晴は反射的に立ち上がる。
そのまま大きく左右にふらつきながら、出口へ向かって走り出した。
「晴!」
すぐさまことりが追いかけてくる。
体育館の裏手まで来たところで限界だった。壁に手をつき、その場にしゃがみこみ、胃の中のものを全部吐き出した。
酸っぱい臭いが鼻から抜ける。涙まで勝手ににじんで、呼吸はめちゃくちゃだった。
「は、ぁ……っ、は……っ」
そしてことりが「大丈夫?」と晴の背中を撫でてくれる間にも、明日香が背後まで追いかけてきている。
「ねえ、空野さん」
しかしその視線の先にいるのは晴じゃない。
ことりだ。
明日香の面からは完全に感情らしきものが消え失せていて、まるで能面みたいだ。
「あなた、見えてたんでしょ」
「パ、パイセン……」
「見えてたよね。大地震が来ることも、大勢の人が死ぬことも」
抑揚のない声が、かえって鋭く突き刺さる。
ことりは気圧され、一歩後ずさった。
「見えてたのになんで、松木くんを助けてくれなかったの」




