プロローグ
神様は残酷だ。
もし今日という日のために俺達を出会わせたのだとしたら、性格が悪すぎる。
◇◆◇
夜の崖に、少年と少女が立っていた。
崖の下には、真っ黒な海が広がっている。
波の形も見えない。底なんて、もちろん見えない。
あるのは、肌を刺すような冷たい風の音だけだ。
少女は崖の縁に立っている。
あと半歩でも踏み出せば、それで終わる場所。
少年の目に、光はなかった。
けれど少女は違った。
泣いていない。怯えてもいない。
むしろ不思議なくらい穏やかで、優しく笑っていた。
やがて少女は、ほんの少しだけ唇を動かした。
「ありがとう」
少年の喉が、ひくりと震えた。
違う。
違う、そんな言葉がほしいんじゃない。
責めてほしかった。
恨んでほしかった。
泣いて、いやだと叫んで、自分の手を振り払ってほしかった。
少年の手が伸びる。
けれど途中で止まった。指先が震えていた。
やれるのか。
本当に。
ここで。
押してしまえば終わる。
押さなければ、もっと別の終わりが来る。
頭ではわかっていた。
わかっているのに、身体が凍りついたみたいに動かなかった。
少年は息を詰める。
歯を食いしばる。
震える両手に、無理やり力を込めた。
そして――
突き飛ばした。
華奢な身体が、ふっと宙に浮く。
時間の流れが、そこでおかしくなった。
少女の髪が風にさらわれる。
制服のポケットに入れていたキーホルダーが、空中に滑り落ちていく。
その輪郭が、夜の闇の中で妙にはっきり見えた。
落ちていく。
少女の姿が、少しずつ遠ざかる。
小さくなる。
まだ見える。
まだ見える。
まだ――
次の瞬間、完全に見えなくなった。
風が鳴いている。
海は何も返さない。
少年は動けなかった。
泣くことも、叫ぶことも、もはや無意味だ。
そしてどれくらい時間が経ったのか、少年はふらつきながらようやく立ち上がる。
行かなければならない場所が、あった。
◇◆◇
星追警察署の受付ロビーは、ひどい混みようだった。
疲れ切った顔の大人達が列をなし、誰かの名前を呼ぶ声や、窓口に詰め寄る声があちこちから飛んでくる。
泣き出した子どもをあやす声まで混ざって、空気はずっとざわついたままだ。
新藤衛巡査部長は、その喧噪の中で受付業務に駆り出されていた。
本来なら若い署員が担当する持ち場だ。
だが今は刑事だろうが何だろうが、手の空いている人間が前に出るしかない。
猫の手でも借りたいとは、まさにこのことだった。
「名前、もう一度お願いします」
「ああ? だからさっきから言ってるだろ!」
市民に怒鳴り返され、新藤は内心で舌打ちする。
だが表には出さない。出したところで仕事が減るわけでもない。
カウンターの内側にはノートパソコンが何台も並んでいたが、まともに動いているものは多くなかった。画面が黒いままの端末。立ち上がっても途中で固まる端末。記録のほとんどは、結局まだ手書きに頼るしかない。
新藤は申請用紙にボールペンを走らせた。急いで書いた文字は、自分でも嫌になるくらい汚い。焦りのせいで、名前も書き損じた。
「ああ、くそ!」
思わず吐き捨て、二重線で消す。隣の窓口にいた職員が、苦笑交じりに声をかけてきた。
「新藤さん、代わりますよ」
「……わりぃな」
そう返して席を譲ったものの、胸の奥は少しだけ重かった。
――役に立ってねえな、俺。
事件を追うのが刑事の仕事だ。
わかっている。
けれど書類一枚で手間取り、長打の列の原因を作っている自分が、ひどく間抜けに思える。
新藤は無精ひげの生えた顎をがりがりと掻き、受付ロビーをもう一度見渡した。
そこで、ふと視線を止める。
電力不足で開けっ放しになっている自動ドアのすぐ内側。
人の流れから取り残されたみたいに、一人の少年が立っていた。
制服姿の高校生だった。
長めの前髪が顔を隠していて、表情はよくわからない。
新藤は少年のもとへ歩み寄る。
「職員です。今日はどんなご用件で? 捜索願なら正面窓口、遺失物なら奥です」
いつもの調子で案内する。
しかし少年は、すぐには答えなかった。
聞こえていないのかと思った頃、ぽつりと声が漏れる。
「……殺し、ました」
新藤はぴく、と眉をひそめた。
「は?」
「人を、殺しました」
ざわめきの中なのに、その言葉だけはやけにはっきり聞こえた。
新藤は少年の姿を改めて見る。
一見どこにでもいそうな高校生だ。
半グレにも、札付きの不良にも見えない。
「……自首しに来たってことか?」
「はい」
「冗談じゃないんだな。本当に人を殺したのか」
「はい」
「誰を殺した」
少年は少しだけ顔を上げた。
「空野ことりを」
「……は?」
「空野ことりを、殺しました」
そう言って、少年は制服のポケットから壊れかけのスマートフォンを取り出した。
画面を操作し、新藤に差し出す。
そこに映っていたのは、夜の崖だった。
暗い海。
吹きつける風。
そして――少年の手が伸びた瞬間、崖下へと真っ逆さまに落ちていく少女の姿。
新藤は息を呑む。
少年は壊れたみたいに静かな声で言った。
「俺が、救世主を殺しました」
◇◆◇
それは一か月前のことだった。
九月十四日。午後一時四十二分。
関東トラフを震源とする巨大地震が、日本列島を襲った。
マグニチュード八.五。
震度七を観測した地点は関東一都六県に及び、東海地方を含む沿岸部には巨大な津波が押し寄せた。
死者と行方不明者の数は、一か月が経った今も確定していない。
政府の暫定発表だけでも、その数は十万を超えていた。
だが――
もし彼女がいなければ、その数はもっと増えていたはずだ。
地震が起きる一時間前、一人の少女がSNSに投稿した。
地震が起きる時刻。
想定される津波の高さ。
避難すべき地域。
あまりにも具体的すぎる“予言”だった。
最初は、誰も本気にしなかった。
悪質ないたずらだと笑う者もいた。
けれど投稿は急速に拡散され、半信半疑のまま避難する人々が現れた。
そして現実が、少女の言葉を証明した。
少女の名は、空野ことり。
人々は畏れと感謝を込めて、彼女をこう呼んだ。
――救世主、と。




