妾は猫又である。~徳摩に夏がやってきた~
こちらは、「妾は猫又である。」の番外編です。
これだけでも楽しめるといいなあと願っておりますが、その前に「妾は猫又である。」を読んで頂けるとニヨニヨ度が増すかと思われます。
妾は猫又である。
今は蒼氷と名乗っておる。
長らく名を名乗らなかった妾であるが、こうして名を貰うことになったのには少々紆余曲折というものがあった。
妾の故郷は日本とよばれる、びるの立ち並ぶ中を鉄の箱である車や電車が走るところであったのだ。
しかしある日、べすとお昼寝すぽっとで魅惑の昼寝を楽しんでおったら、妙ちきりんな術で異世界とやらに呼ばれてしもうたのだ。
じゃが、白い毛並みに三角お耳、さらにちゃーむぽいんとである二股に裂けた尻尾をけなす輩のところなぞ、さっさと出て行ってやったわ。
そうしてかつお節とべすとお昼寝すぽっとを求めて、この日本のようで日本でない異世界を気ままに旅しておったのだが。
「蒼氷」
何の因果か助けた化け狸のたぬ吉が道連れとなったり、人間の姫君を救ったらかつお節にありつけたり、そのまま姫君の国である徳摩の国へ世話になったり。
さらにはその徳摩の姫、お波の意に染まぬ結婚をご破算にするため、化生の国へ乗り込むなんぞすることになるとは、妾の猫生もどうなるものかわからぬ物じゃ。
「蒼氷ー?」
それにこの徳摩の国を住処と定め、人に名をねだるようになるなど、以前の妾が聞けば尻尾を膨らませて驚くようなことであろう。
ただ、一番げせぬのは……。
「そーうーひー?」
「じゃかわしいわ、小童が! ついでに誰の許可を得て頭をすりつけておるか!」
妾が白い毛並みを逆立てて威嚇したというのに、妾の身体ほどはある頭でなつこうとしていた黒虎は嬉しそうにのどを鳴らす。
「やっとこっちに向いてくれたな? 蒼氷」
にんまりと笑う黒虎の心底嬉しそうな顔に、妾は舌打ちをこらえるばかりだ。
黒曜石もかくやという、つややかな黒の毛並みに包まれた堂々とした体格に、金色の猫目をした黒虎は、その化生の国、迦楼羅の王、黒炎であるのだが。
一番解せぬのは、妾がこの王にやたらと気に入られ、なぜか嫁に来いと言われていることである。
初めて出会った時に、妾は白無垢を部下の化生の血で染めて、こやつにも殺す気で襲いかかったはずなのだが、それが良いとのたまったどあほうじゃ。
妾は徳摩の国を住処と決めたから、そちらに行く気はないと言ったというのに、ならば自分が通ってくる!と化け牛車に乗り込んで三日と空けずにやってくる。
まあそのおかげで、徳摩と迦楼羅の関係は良好なまま、夏を迎えておった。
「おぬしは仮にも王であろうに、腰が軽すぎるのではないかの?」
「大丈夫だ。秋に言われた仕事は全部済ませてあるし、港の視察を終えてきたところだ」
さらりと言う黒炎に、妾はため息をつくばかりだ。
これで仕事をほっぽり出して妾の元にくるのであったら、猫ぱんちひとつでおい出せるものを、きっちりやらねばならぬところは抑えておるのだからたちが悪い。
「な、このあと帰るまでは時間はあるからよ、昼寝でも散歩でもしようぜ? そういえばいつもの昼寝所には行かねえのか?」
あまつさえ妾の何倍もあるどでかい図体に、抱え込まれるように座られ、しまいにはべろりと毛並みをなめ上げられる。
皮膚ごと全部持って行かれそうなそれに、堪忍袋の緒が切れた妾は姿を変えた。
「暑苦しくなつくなっ! 余計暑くなろうがッ!」
本性の毛並みと同じ、白い髪に二股に裂けた尻尾を揺らして、人の足で蹴りをいれれば、不届きな黒虎からくぐもったうめきが聞こえた。
すかさず離れた妾は、人の娘の姿をとっておる。
若くてぴちぴちで超絶美少女と評判の妾の娘姿は、一応猫耳と尻尾もなくせるが、妾のちゃーむぽいんとゆえ、消すなぞもったいない。
ふんすっと、二股尻尾を揺らめかせて腕組みをしていれば、さんさんとふりそそぐ太陽にあぶられた。
遠くから、しゃーこしゃーこと蝉に似た虫の鳴き声が響いておる。
あやつは、時々のおやつに丁度良いのであるが、うるさいのがかなわん。
今の季節は夏、猛烈に暑い。
ぺっかりと輝くお天道様は、ほかの季節では妾のお昼寝すぽっとをぬくめてくれる素晴らしきものだが、あいにくと夏は張り切りすぎおる。
抜けるように青々とした空を恨めしく見上げれば、背後から、のしっと重みがかかった。
顔を上げれば、そこにあったのは、野性的に整った美しい男の顔じゃ。
ざんばらな黒髪に包まれた頭頂部にある、黒い虎耳をひくつかせているのは人の姿をとった黒炎だ。
無造作に妾の首に腕を回して、少々困ったようにあごに生えたひげを撫でる姿も実に様になっておる。
じゃがそのひげ、どう見ても面倒で剃っておらん無精ひげじゃろう。
それでも、ワイルドで素敵! と人間の娘達がきゃあきゃあ騒いでおったが、色男という区分に入るのであろうが、わらわにはみぐるしいむさくるしい、暑苦しいの三拍子じゃ。
さらに言えば、今の妾にはせっかく見つけた夏版べすと昼寝すぽっとを侵略された恨みしかない。
「なあ、蒼氷。どうした……ぐっ」
「この暑い時分にひっつくな。ついでに国主というのなら身だしなみぐらい気をつかえい! 見た目まで暑苦しいのじゃ!」
無遠慮にひっついてきた黒炎の腹に肘鉄を食らわせた妾は、緩んだ腕をぽいっと、捨てて走っていた。
「おいまってくれよ、蒼氷ー!」
こんなところではおちおち昼寝もできはせん。とっとと移動じゃ移動。
着物の裾を翻して、家々の屋根を飛んで走る妾なのであった。
耳元でしゃべられたせいで、また体温が上がってしもうたではないか。まったく。
「暑苦しい……か?」
じゃからの。
取り残された黒炎が、思案顔であごの無精ひげを撫でていたのには気づかなかったのじゃ。
「暑い……」
黒炎を追っ払ったその翌日。
徳摩の城のとある縁側で、妾は人の姿のまま、ぐでんと横たわっておった。
時折吹く海風が多少の涼を運んでくれるものの、焼け石に水じゃ。
先ほど庭にされた打ち水も、とたん干上がってしもうた。
なぜ猫でおらぬかと? 簡単じゃ、毛皮でないだけ、板張りの廊下の冷たさを味わえるからの。
もう、なにをする気も起きぬ。
妾は昔から暑さだけはだめなのじゃ。
このまま秋になるまで眠って過ごしたいものだが、いかんせん暑さで起きてしまう。
泣く。超泣くのである。
「あーつーいーのーじゃー!!」
じたばたじたばた暴れ回ってもかんかん照りのお天道様はそのままである。世は無常じゃ。
「姐さん、仕方ありませんぜ。なんて言ったって夏なんですから」
ごろごろと不用意に動いてしまったせいで、また暑くなってしもうた。
そのようなあきれた声に視線を上げれば、この暑い中でもきちんと服を着たたぬ吉がおった。
一応若い男の姿に化けておるが、狸耳と尻尾が出てしもうておる。
おそらく暑さのせいで、術の制御が甘くなっておるのだろうの。
そのあきれたっぷりの声音が少々気に障ったので、ごろっと転がって狸尻尾をつかんでやった。
「ふひゃっ!?」
ぽんっと間抜けな音と共に、ばさばさと紙束をまき散らしながら元の狸に戻ってしまった狸吉は、涙目で妾を見るが、知らぬのじゃ。
暑さは人も化生も凶暴にするのじゃからの。
「姐さんひどいっす!」
「いつまでもお波と祝言を挙げないから悪いのじゃ」
とりあえず胸はすいたので、適当な理由をつけてみれば、たぬ吉は面白いようにぐんねりとした。
「そりゃあ、おいらは今すぐにでも上げたいんですが、お波ちゃんが迦楼羅に輸出するぶんの、徳摩節の増産のめどがついてからって言うもんですから。えへへ、でもあいびきはなんどもできますし、しかもこのあいだ、お波ちゃんは出かけの昼に弁当を作ってくれたんですぜ」
だが、とたん見るも耐えない溶け具合でのろけ話を始められて、カウンターパンチを食らった気分じゃった。
ああ知っておる知っておる、全てお波から聞かされておるからの!
うんざりした妾がたぬ吉に尻尾あたっくをくれてやろうかと不穏なことを考えていると、軽い足音が響いてきた。
「まあ、たぬ吉さん、蒼氷。遊ぶのは良いですけど、お仕事の物を散らかしてはいけません」
口調は穏やかだが、有無を言わさないお波の「めっ」に、妾とたぬ吉はあわてて飛び回っていた書類を集めて回った。
この徳摩に骨を埋めることが決まったお波は、徳摩をよりよくするために「まつりごと」とやらに精を出すようになってな。
最近は妙な貫禄とやらが出てきておるのだ。
ぶっちゃけお波を怒らせると、徳摩節やまたたび禁止令が出るのでな、なるべく怒らせたくないのだ。
ようやくこちらで出会ったかつお節が食べられなくなるのは嫌なのじゃぁ……ぶるぶる。
というわけであっという間にきちんと積み上がった書類を前に神妙にしたのは良いが、動き回ったせいでぐったりである。
満足そうににっこりと笑っていたお波だったが、そんな元気のようない妾に気づいたらしい。
「蒼氷、最近元気がなさそうだけど、どうしたの?」
「暑さがしんどいのじゃ……」
座っているのすらおっくうで、ぱたぱたと着物の袖で仰いでみるがやっぱりしんどい。
この徳摩の夏は、こんくりぃとじゃんぐるであった地球の都心に比べればそうでもないであろう。
だが、その代わり、クーラーというものがあったでな、こっそり公共施設に忍び込んだり、定宿にしておる人様の家で涼んだりしてそれほどでもなかったのだ。
大して元の世界に感慨が湧かなかった妾であるが、此度だけはあれが恋しゅうてならぬ……。
「姐さん、それって……」
そのあたりを話せば、なにやらたぬ吉が言いかけておったが、その前にお波が座り込んで言いおった。
「そりゃあ、蒼氷、それだけ着込んでいれば暑いと思うわよ?」
妾はぱちぱちと目を瞬くばかりじゃった。
人の姿をとった妾は、以前よりなじみ深い、日本の和装姿であった。
薄物にしておるが、いかんせん胴の部分を帯で締めるでな、そこに汗がたまるし、裾も長いで風が通らなければ暑いのは致し方ない。
対してお波は徳摩国、というより、この九重大陸でよう着られておる服に身を包んでおる。
妾のいた日本の和装と雰囲気は似ているが、裾は短く、帯も薄そうで、ずっと身軽そうな衣服であった。
そのおかげか、お波は少々薄汗をかいているものの、平然としておる。
うむむ……適当に選んでおったが、人間は衣服で体温の調整をするのを忘れておった。
妾としたことが、暑さにやられておるとはいえ不覚であったぞ。
「ねえ蒼氷の服って変えられないの? 毛皮みたいなの?」
「いや、妾のまとう衣は毛並みのようなものでな。脱ぎもできるし、服を切られても痛うはないぞ」
でなければ、お波の代わりに金襴緞子の婚礼衣装も着られなんだからの。
「つまり普通の服も着られるのね!?」
ぱあっと、お波が表情を輝かせるのに面食らっておると、たちまち手を取られて立ち上がらせられた。
「それなら蒼氷、私の着物を貸してあげるわっ。ずっと涼しいし、何より一度着せてみたかったの!」
「う、うむ? そうか?」
「ええ、蒼氷ってば人の姿になってもこんなに美人さんなんだもん。あんまり興味ないのかな、と思っていたから遠慮してたけど、きっと似合うわ! たぬ吉さんっ。ちょっと休憩してくるって皆さんには言っておいてくださいっ」
「あ、あの、お波ちゃーん!?」
「さあ、蒼氷こっちこっち!」
きらっきらの笑顔でたぬ吉にそう言い残したお波は、有無を言わせない勢いで妾を引っ張って行きおったのだ。
そうしてたったか歩いてやってきたのは、お波の私室で、妾はお波の着せ替え人形になった。
お波の部屋は国主一族だけあって、夏は涼しく、冬は暖かくできるよう良い位置に部屋がある。
ゆえに結構快適なのじゃが、いくつもいくつも服を替えられるのにはうんざりだ。
妾も着飾るのは嫌いではないのじゃが、いかんせん、お波の侍女にまで加わっての、あれこれいじくられるのはかなわなかった。
髪を結うならともかく、化粧までしようとしたのじゃぞ!
あの匂いは猫にはきつすぎるのじゃ!と断固抗議をすれば、お波がしょんぼりとして言った。
「だって蒼氷の花嫁姿は、見れなかったんだもの。非常事態だったとはいえ、きっときれいだったろうから、見てみたかったなあって」
妾が迦楼羅国へ乗り込んでおる間、お波はたぬ吉にかくまわれておったからの。全てを知ったときには、婚礼衣装はずたぼろで、お波が見ることはなかった。
妾もおなごゆえ、きれいな物を眺めたい気持ちはわからぬでもないが、その対象に妾が入るのが解せぬのじゃがな。
「あ、でも、蒼氷は黒炎様と結婚するんだものね。そのときを楽しみにしていればいっか」
「待つが良いお波よ。妾がいつあの小僧と番う話になったのじゃ」
思わず半眼になって聞き返せば、お波はぱちぱちと不思議そうに目を瞬いた。
「だって、あんなに熱心に口説かれているじゃない。一緒にお散歩していたり、お昼寝してたり、よくするんでしょう?」
「あれは、小僧が勝手に妾の領域に入ってくるせいであってな。妾の意思ではないのじゃぞ」
来ぬのであれば万々歳で、迷惑しておるのだ。
じゃが、お波はおかしそうにくすくす笑ろうた。
「でも、蒼氷は本気で嫌だったら、ひっかいて逃げるし、それでもしつこかったら凍らせるでしょ? それで城下の人を凍らせたって話をきいたよ? だから、黒炎様は特別なのかなあって思ったけど」
「……あやつは、一通り試しても無駄だっただけじゃ」
一時期、徹底的に邪険にしたのじゃが、けろっとしておってのう。
こやつには矜持というモノがないのかと思うたほどじゃが……うむ。なんだか、あきらめてしもうたのじゃ。
それに、妾の領域にずかずかと入り込むくせに、引き際だけは一流であった。
あやつも猫科のせいか、そういう部分はわかるのじゃろうの。
それゆえあきらめて、仕方なしに受け入れてしもうているだけ、それだけなのじゃ。
「ふうん。そうなんだ。やっぱり黒炎様は蒼氷にも負けないくらいお強いのね」
妾の言い訳めいた言葉をお波は疑う様子もなく受け入れた。
のだが、お波が澄ました雰囲気でさりげなくそばにいた侍女と目配せする姿に、妾の二股尻尾がそわりとなったぞ。
「じゃあ、黒炎様にもっとぞっこんになって貰うためにも、蒼氷をきれいに着飾らせるね!」
「断固ごめんこうむる!」
人のおなごの身繕いは、やたらめったら長すぎるのじゃ!
「あっ蒼氷ー!!」
すでに涼しい服を手に入れておった妾は、お波と侍女がぎらぎらと目を輝かせつつ襲いかかってくるのを華麗にかわし、窓の外へ逃走を図ったのであった。
空へ身を投げ出せば、海の匂いの混じった風が身体を通り抜けた。
うむ、日本の着物もこれだけ風があれば涼しいのじゃがの、こちらの服は薄くて軽くてさらに涼しい。
服が違えば、心まで軽くなったようじゃ。
妾も、かわゆい服が嫌いなわけではないからのっ!
白い髪をなびかせてふんふんと鼻歌を歌いつつ、屋根の上に降り立とうとすれば、素足の足に焼けるような熱を感じた。
しもうた、城の屋根は瓦で葺かれておるから、このかんかん照りの中で歩くのは禁物なのじゃった!
「うぁつっ!?」
反射的に足に込めていた力を緩めてしまい、もう片方の足も瓦につけてあっちっちじゃ。
そうしたら、体勢を崩してしもうて、屋根の上から転げ落ちた。
足の裏が焼けるよりはいくぶんかましじゃが、まだ地上にはそれなりの高さがある。
妾は問題ないが、悪いことに落ちる先に人がおった。
「退くが良いそこな者――おっ!?」
妾が親切に声をかけたというのに、その人影はあろう事かその場で手を広げおった!?
もう間に合わぬとあきらめて、下敷きにしようとしたのだが、衝撃とともに存外力強い腕に抱かれていた。
いわゆるお姫様だっこじゃ。
思わずつぶっておった目を開けた妾は顔を上げて、ぽかんとした。
「いきなり降ってくるたあ、粋なことをしてくれるじゃないか。蒼氷?」
その声はあの憎たらしい小僧、黒炎のものだ。
なのだが。
そこにおったのは、主張していた無精ひげをきれいすっぱりなくした顔であったのだ。
ついでにきれいに髪もなでつけておる。
そうしていると、普段よりずっと年若く見えるから不思議じゃ。
いや、妾より五十も年下なのじゃが。
「……ひげがない」
「あんたが暑苦しいって言うから、剃ってみたんだよ。いい男だろ?」
どうだといわんばかりににんやりと微笑んだ黒炎は、次いで妾をその琥珀の双眸でしげしげと眺めておった。
「それにしても、良いもん着てるじゃねえか、眼福って言うのはこういうことを言うんだろうなあ」
「別に、こちらの衣の方が涼しそうであったゆえ、着替えてみただけじゃ」
黒炎に感嘆と賞賛の眼差しで見つめられた妾は、思わず目をそらしてしもうた。
別に他意はない。なんとのう、落ち着かぬだけだ。
いつもと違う小僧の顔を見てられぬなぞ、ありはせん。
ちょっと顔が熱いも気のせいじゃ!
じゃが黒炎はにんまりと人の……いや猫の悪そうな顔で妾をのぞき込んできおったのじゃ。
「どうした、蒼氷? こっちの俺の方が好きか?」
「う、うるさいぞ、いつまで抱えておるっ!?」
妾がぐいぐいと胸板を押しやっておるのに、なぜさらに抱き込もうとする!?
「いや、こっちの娘と同じ格好してると、なんだかかわいさが引き立っちまってよ。ちょいと心配になってきちまって。ほかの男に見せたくねえや」
「っ……図に乗るでない小僧ッ!!」
かあっと頬が熱くなる顔もそのままに、妾は容赦なく顔に向けて爪を振るった。
腕が緩んだ隙に飛び降りた妾は、尻尾の先に力を集める。
もう怒ったのじゃ。激おこぷんぷん丸というやつなのじゃ!
もうそれは古い?うるさい!とにかく妾は黒炎の無礼に怒っておる!
この熱さはそのせいなのじゃ!
「今日こそは、妾が上だと骨の髄までわからせてくれようぞ!」
「照れるあんたもかわいいなあ。いいぜっやってやんよ!」
怒っておるというのに全く応えた風もなく、楽しげに向かってくる黒炎へ、妾はありったけの術をぶつけたのであった。
城の門前で繰り広げられた死闘は決着がつかず、やってきたお波の伝家の宝刀が抜かれたことで幕を閉じた。
「蒼氷! 黒炎様! しばらく徳摩節禁止ですっ!」
妾は知らなかったのじゃが、黒炎があの場におったのは、徳摩家当主との重要な会合があったからなのだという。
それをすっぽかしたあげく、妾とそろって庭を荒らすという結果に、とうとうお波が般若になった。
妾と黒炎の喧嘩を止められる人間なぞ、お波くらいなのじゃ……。
「お波、それは殺生じゃあ」
「徳摩節が食べられねえなんて、つらすぎるぞ……」
「知りません! 反省してください!」
お波は断固として主張し、結局一週間、全面的に禁止となった。
徳摩の城の人間と迦楼羅国の家臣どもが手を組み、妾達に一切合切徳摩節をわたさない手はずを整えたことには戦慄したぞ。
黒炎は順調に徳摩節の虜になっておるから、相当応えておるようじゃった。
当然じゃ、あれはほんにうまいからの……しくしく。
その夜。
妾は城のてっぺんの熱の冷めた瓦に腰を下ろし、のんびりと夜風に吹かれておった。
夜風の涼しさは、海近くならではだろうの。
さらに妾の隣には、先ほど作り出した大きな氷が鎮座しておる。
おかげでくーらーのように涼しいのじゃ。
……べ、別にたぬ吉に「暑いのなら術で氷を作り出せば良いんじゃねえですかい?」と言われて、はじめて思い至ったわけではないぞ。
術を使うのすら面倒だっただけじゃ。
それはともかく、日中はゆっくりできなんだ分、ごろにゃごしようとしたのじゃが。
案の定、いくらもたたぬうちに、黒く優美な巨体が屋根へ上ってきおった。
会合は明日に持ち越しとなり、黒炎達は城に泊まってゆくこととなったから、来るだろうとは思っておったわ。
「なんじゃ、小僧。また邪魔をしにきたか」
「なあ蒼氷」
珍しく、殊勝な雰囲気を醸し出しておったのでな、尻尾を揺らして顔を起こしてみてみれば、ちょいと距離をとって腰を下ろした黒炎がおる。
しばしの沈黙の後。ぽつり、と唐突に語り出した。
「俺はこっちに来るまでに、いろんな化生にも、人間にも会ってきた。俺と一緒になりたいって言った女もいないわけじゃなかった。だが、俺の背中を追っていくという奴らばかりだったんだ」
声は淡々としておったが、ひどくもの悲しげであった。
「もちろんそれが嫌なわけじゃない。背負っていくのもいいもんだった。だが、そうやって仲良くなった人間は、全員俺をおいて逝っちまった」
それは、化生へとなった者の宿命であろう。
人はたやすく死ぬ。この世界の化生は、人のように死にやすいものもいるが、妾やおそらく黒炎は死にがたいものであろう。
そうすれば、死にやすい者には、おいて逝かれることとなる。
妾も、覚えが、なくはない。
「だが、あんたは違った。俺に真っ向から喧嘩を売って、俺と同等の力を持っていた。今までそんな野郎は数えるほどだって言うのに、女で俺を圧倒してきたときたもんだ。運命だと思ってなにが悪い」
黒炎は牙をむく。その激情を表すかのように、琥珀の瞳が月明かりで炎のように揺らめいておった。
その熱を帯びた瞳のまま、己よりも何倍も小さな妾にそっと頭を垂れたのじゃ。
「だから、俺にしてくれよ」
傲慢で、真摯で、少し不安が揺らぐそれは、黒炎のむき出しの心であっただろう。
その熱が移ったように、妾の身体から尻尾の先まで熱が満ちてゆく。
まったく。いつも余裕ぶっておるのに、こう言うところで殊勝になるとは。
じゃが黄金の瞳は、妾を今にも食らいつくさんとばかりに餓えておる。
……悪くない。悪くないが。
妾はそんな黒炎の黒い額に、自慢の肉球を押しつけてやった。
きょとんとする黒炎に、せいぜいいかめしく言ってやる。
「女を口説いておるのに、ほかの女の影を匂わせるとは、減点じゃ」
うむ。非常に良くないぞ。
たちまち真摯な空気が溶け崩れ去り、いつもの飄然とした食えない態度に立ち戻る。
「こういうことは、素直に言っちまった方が良いだろう?」
「暗黙の了解という者があるのじゃ、青二才めが」
「手厳しいなあ、あんたは。――やっぱり、まだ駄目なのか?」
「……まったく」
妾は、適当に良さそうな位置に丸まり直して、しょんぼりしておる黒炎をみやり、たしんと二叉尻尾を瓦に打ち付けてやった。
「今日の夜風はちいと涼しすぎる。そばに来い」
「?だが、氷をだして……」
「くるのか、こんのか?」
「っ行く!」
たちまちぱあっと虎顔を輝かせて、いそいそとやってくると、当然のように妾を腹に抱えるように、寝そべりおった。
ふん、いいのじゃ。今日は涼しいからの。
じゃがあんまり据わりが良くなかったゆえ、くるりと回って、その黒い毛並みに寄りかかってみた。
悔しいことに、座布団としてはなかなか良いのじゃ、こやつ。
満足して息をつけば、座布団が震えたが無視じゃ無視。
尻尾を絡めようとするのだけはべしっと叩いて阻止すれば、黒炎はため息をついてぼそりと言ったものじゃ。
「あんたはほんと、たち悪いぜ……」
おなごはだれしも小悪魔なのじゃぞ?
素知らぬ顔で妾がまどろめば、黒炎も眠ることにしたようだ。
だからの。
己でも、始末に負えぬと思うのじゃが、この小僧にくるまれて、安心感を覚えるくらいに好いておることは、もうしばらく言わぬでいいと思うのじゃ。
妾は猫又である。名前は蒼氷じゃ。
もうちょっとしたら、迦楼羅国へもべすとお昼寝すぽっとを探しに行くやも知れぬが。
今はこの良き毛皮を座布団に眠るのが至福なのであった。
おしまい