第87話:崩壊と困惑の貌――勇者の終焉、その深淵②
なぜ私が?――死の直前に見た「非常識」
だが、虎が何よりも戦慄したのは、その物理的に無惨な切り口よりもむしろ、獅子の顔に貼り付いたまま凍りついた「表情」だった。
彼は震える手で、獅子の首を慎重に動かし、その死に顔を崩落穴から差し込む細い光の下へ向けた。
生前の獅子は、常に騎士としての過剰なまでの威厳を纏い、冷徹な論理と鋼の意志で仲間を律していた。死の直前であっても、彼は激昂して敵を呪うか、あるいは自らの正義を信じて誇り高く目を閉じるはずの、自尊心の権化のような男だった。
しかし、石床に転がるその顔には、死の恐怖も、積年の怒りも、絶命の瞬間の耐えがたい苦痛すらも存在しなかった。
そこにあったのは、ただ純粋な、そしてこの地獄のような光景の中で救いようのないほど場違いな、「困惑」だった。
「なぜ、私がこんな目に?」「なぜ、お前がそこに立っている?」という、脳が情報を処理しきる前に生命を奪われた、幼子のような無垢で、しかし絶望的な困惑。
「……こんな顔をする獅子は、初めて見た。俺たちの知る、あの尊大な獅子はどこへ行ったんだ……」
虎の声が激しく震えた。獅子の最後の表情は、彼が死の直前に目にしたものが、彼の積み上げてきた「勇者としての常識」を、根底から裏切り、破壊する想像を絶する存在であったことを雄弁に語っていた。
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梟の洞察とルーベンカーの影
「……それこそが、解けない鍵だ。鷹、梟。お前たちの目には何が見える」
虎は、自身の動揺を押し殺すように問いかけた。感覚の鋭さにおいて右に出る者のない鷹。そして、賢者エウレの知識を継承し、冷徹な論理を組み立てる梟。この二人の視点は、今の混乱を打開する唯一の糸口だった。
鷹は一歩も引かず、血に汚れた獅子の首と、その残酷な切り口を凝視した。彼女の黄金に近い虹彩が、周囲の光をかき集め、肉眼では捉えきれない微細な証拠を拾い上げていく。
「鉈のような獲物で、一太刀。その腕力も技量も、私たちの時代でも片指で数えるほどしかいない……。ですが、それ以上に異常なのは、彼の『瞳』の向きです」
鷹は、獅子の濁った瞳の視線を指差した。
「彼はこの地下室の、本来の『入口』を凝視していました。逃げようとしたのではなく、正面から来る何かを待っていた。そして、その『何か』が姿を現した瞬間、彼は剣を抜くことさえ忘れ、呆然としたまま首を落とされた……。敵は、彼にとって予想外の場所から、予想外の『姿』で現れたに違いありません」
一方、梟は深い嫌悪感を押し殺すように、獅子の顔と切り口を一瞥した。そして、祈るような、あるいは呪うような手つきで魔導書を握りしめ、静かに、だが石壁を浸食するような重い言葉を口にした。
「……驚愕。それも、この世の理が反転したような絶望を伴う驚愕です。例えば……この世にありえないものを見た、とか」
梟は、そこで一度言葉を切り、深い影を湛えた瞳で虎を見つめた。
「例えば?」と促す虎に、彼女は鋭利な短剣のような視線を突き返した。
「……私たちのような、『本来ここにいないはずの存在』、でしょうか」
その言葉は、冷たい衝撃となって四人の間に突き刺さった。
彼ら勇者団は「時反しの魔術」によって未来から来た。この黒鉄期1692年において、彼らは存在しないはずの異物だ。だが、もしこの時代に、自分たちと同じような、あるいは自分たち以上に「ありえない」存在が潜んでいるとしたら。
狐が反射的に、吐き捨てるように否定した。
「はぁ?逆だろ。俺たちを見たらびっくりするのはこの時代の人間であって、俺たちがびっくりするなんて……ありえねぇ!」
だが虎は、頭の中でバラバラだった情報の断片を繋ぎ合わせていた。
自身の短剣で喉を裂かれた蜥蜴。太い刃で一撃の下に貫かれた鷲。環境を支配され圧殺された熊。そして、鈍らな刃で首を刎ねられ、困惑と共に果てた獅子。
「……全滅してから、二、三時間か」
虎は血の乾燥具合、死後硬直の始まりを冷徹に見極めた。
「いずれにせよ、狐の言う通りだ。この時代には、俺たちの常識が通用しない手練れがいる。……いや、手練れなどという生温い言葉では足りない。俺たちを『狩る』術を知り尽くした何かがいる」
虎は双剣を握り直し、その重みを自らに叩き込む。任務の難易度が当初の想定を遥かに超えていることを理解した。
狐は深く頷き、短剣を逆手に構え直した。「おう。気ぃ付けていこうぜ。次は、オレたちが狩られる番かもしれねぇからな」
鷹は音もなく弓を構え、闇の奥へ視線を向ける。「了解です。痕跡は極力残さず、周囲の気配を最優先で察知しながら進みましょう」
「梟は?」
問いかけに、梟は答えなかった。ただ静かに頷き、隊列の最後尾へと戻る。
四人は迅速に、地下室の反対側――崩落で開いた壁の隙間を登り、廃墟の裏側の森へと抜けるルートを探し始めた。彼らは本能的に察していた。この血塗られた廃墟には、もう一刻も留まるべきではない。
一行が立ち去る直前、梟はふと足を止め、廃墟の裏手、一際濃い影を落とす巨大な樫の木の茂みに目を向けた。
その瞳の奥には、確信に近い深い疑念が浮かんでいた。
(……あの気配。獅子の表情。まさか、そんなはずは)
彼女の視界の端には、揺れる影の中に立つ、一人の男の残像が見えていたのかもしれない。だが、彼女はそれを誰にも告げず、ただ無言で森の奥へと消えていった。
廃墟の静寂を破るように、カラスが一度鳴いた。
そこには、かつて自分たちが「切り捨てた」はずの、誰かの影がまだ色濃く残っていた。




