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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第7部:宿命の決戦 ―1692年、再臨する勇者と老狼の牙―

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第83話:二十年待った者――灰色の再会、あるいは終焉

追い詰められた王――崩落する理性の果て


(黒鉄期1692年:夕刻、教会廃墟・地下礼拝堂跡)


獅子の世界は、急速にその色を失いつつあった。


かつて「聖教会の至宝」と謳われ、未来の戦場を白銀の鎧で駆け抜けた若き騎士団長は、今や湿り気を帯びた地下の闇に、ただ震えるだけの肉塊と化していた。


仲間を一人、また一人と「解体」され、残されたのは耳の奥で鳴り止まない不快な静寂と、数分前まで仲間であった熊を押し潰した石像の下から、粘り気を持って這い出してくる鮮血の重苦しい臭いだけだ。救世の騎士団を率いた英雄の面影は微塵もなく、彼は本能的な恐怖に突き動かされるまま後ずさり、やがて指先に触れた氷のような石壁の冷たさに絶望を突きつけられた。


彼の愛剣――未来の神聖魔導が込められた宝剣は、まだ一度もこの時代の敵の血を吸っていない。抜剣したまま、おびえたように虚空を左右に振り払うその動作は、もはや戦士の洗練とは無縁の、見えない死神を追い払おうとする無力な子供のそれであった。


正面の闇から、規則正しい、そして逃れようのない重みを持った足音が響いてくる。


彼だ。


血に濡れた鉈剣なたけんを、まるで身体の一部であるかのように無造作に提げ、死神の如き正確な歩調で、男が獅子の生存圏パーソナルスペースを蹂躙しにくる。


「お、お前は……誰だ!どうして、どうして俺たちの素性を知っている!なぜ、あり得ないはずの『勇者』という名を知っているッ!」


獅子の叫びはもはや命令ではなく、剥き出しの哀願に近かった。喉は乾き、誇りは砂のごとく零れ落ちる。だが、男は答えない。ただ一歩、また一歩と、獅子の視界のすべてを奪うように近づいてくる。


「何とか言え……!貴様、何者なんだッ!!」


「……随分と、饒舌になったな、獅子アル。昔はもっと、言葉よりも先に剣が出る男だったはずだが」


その低く、大地を震わせるような響きを含んだ言葉が、獅子の全身の血液を沸騰させ、直後に心臓ごと氷結させた。


「……俺の、真の名を知っているのか……?」


________________________________________


金色の眼光――露わになる「狼」の咆哮


男は、地下室における唯一の救いである光源――天井の崩落穴から差し込む、血のような夕刻の斜陽の下へとゆっくりと踏み出した。


埃が黄金色に舞う光の中に、その「怪物」の正体が晒される。


がっしりとした、重戦車を彷彿とさせる筋肉質の体躯。短く切り上げられた白髪は、過酷な放浪と戦闘の歴史を物語る。顔面には、数多の地獄を潜り抜けた証である深い傷跡が、まるで峻烈な地図のように刻まれていた。


そして、何よりも獅子を戦慄させたのは、その眼だった。




老境にありながら、一点の曇りもない鋭利な眼光。その瞳は、人族には決して宿ることのない輝き――鈍く、そして圧倒的な威圧感を放つ金色に輝いていた。


獅子の脳裏に、いくつもの過去の情景がフラッシュバックする。未来の凄惨な戦場、聖堂の密議、魔王軍との最終決戦。だが、どの記憶の棚を探っても、この男の顔はパズルの一片のように合致しない。知っているはずなのに、意識の底で強固な封印がなされているかのように、正体に辿り着けない。歴史の教科書から意図的に塗り潰された「空白ミッシングリンク」そのものを覗き込んでいるような、形容しがたい吐き気が彼を襲う。


「勇者の残りは……どこだ。あと四人いるはずだが。特に――あの虎はどうした」


男の声は、感情を完全に排した、ただの冷酷な事務的確認に過ぎなかった。


「し、知らん……!俺たちは先行しただけだ。あいつら……冒険者組の虎たちは、まだ後方で……」


「そうか。ならば、いい。ここでまずは半分、片付けるだけだ」


男は鉈剣を、呼吸をするように自然な動作で構え直した。その構えには、無駄な魔力も昂ぶる殺気も一切混じっていない。ただ「標的を断つ」という物理的必然だけが、そこにあった。


「……俺は、貴様たちを二十年待っていた」


二十年。


獅子の思考が、その膨大な時間の重みに押し潰される。自分たちが時を遡り、この時代に降り立ったのは、一週間にも満たない。だが、この過去の世界に生きるルーベンカーという男は、たった一人で、二十年もの月日を、自分たちが現れるこの瞬間のためだけに、殺意を研ぎ澄ませ続けてきたというのか。


「やっと、この呪われた責務を果たせる」


________________________________________


一拍の断罪――狼の咆哮と聖域の終焉


男の言葉が獅子の耳に届くのと、世界から物理的な音が消えるのは同時だった。


一拍。


予備動作すら介さない、残像をも置き去りにする神速の踏み込み。獅子が未来の魔導強化によって視神経を限界まで加速させようとした時、既に世界は鉈剣の冷たい一閃に支配されていた。


――ズシャッ。


地下空間を走ったのは、あまりにも滑らかな、肉と骨を否定する切断音。


獅子の首は、自重に従って胴体から滑らかに離脱し、地下の汚れた石床へと鈍い音を立てて落ちた。


教会騎士団の若き英雄、勇者団の象徴であった獅子の最期。それは壮絶な戦死でもなければ、仲間への高潔な遺言でもなかった。ただ、何が起きたのかを理解できぬまま、酸素を求める戸惑いの呻きが、切り離された唇から漏れ出ただけであった。


「……ふぅっ」


男は長く、胸の奥底に溜まった二十年分の澱みを吐き出すような深い溜息を吐き、血を纏った鉈剣を静かに鞘へと納めた。


「あと四人か……。やはり、年を取るとこの『術』は身体に堪えるな……」


静寂が、再び廃墟を包み込む。


男は天井の穴から見える、血の色から闇へと移ろい始めた空を見上げた。その瞳は、戦いの後にも関わらず、衰えることのない金色の輝きを力強く放っている。


その眼差しの先には、かつて彼が愛し、そして世界中のすべての勇者を敵に回してでも守り抜くと誓った、たった一人の女性――レオリナ(オレリア)の姿があった。


男の名は、ルーベンカー。


かつて、獅子や虎たちが生きた未来において、その存在の記憶すらも「歴史の守護者」によって組織的に消去され、見捨てられた存在。


――未来の勇者団が、伝説の果てに知ることになる絶望の真実。


それは、彼らがかつて「九人目の勇者候補」として共に歩み、自分たちの失態を隠蔽するために最も残酷な形で切り捨てた、【戦友】の成れの果てであった。


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