表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第7部:宿命の決戦 ―1692年、再臨する勇者と老狼の牙―

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

81/105

第81話:一瞬の断罪――崩れ落ちる勇者の矜持

静寂の外科手術――零れ落ちる「未来」


(黒鉄期1692年:午後、ラブラス領南方・人智十字教会廃墟前)


それは、瞬きという生理現象すら許されない、神速の「断罪」であった。


蜥蜴が放った二本の短剣は、物理法則に従えば、確実に老人の顔面を裂き、あるいはその眼窩に深々と突き刺さるはずだった。未来の暗殺技術を極めた彼の投擲は、空気抵抗すら味方につける、回避不能の死の宣告だ。しかし。


短剣が老人の顔面を紙一重で通過した――かに見えたその瞬間。


大気が悲鳴を上げるような、鋭利な一閃が風を切り裂いた。


勇者たちの動体視力ですら捉えきれぬ刹那、男と蜥蜴の立ち位置が完全に入れ替わっていた。


荒野に、耳を劈くような静寂が降りる。


砂塵が舞い、数歩先で着地した蜥蜴は、背中を向けたまま彫像のように立ち止まっていた。彼は、己の手応えを脳内で反芻していた。短剣は放たれた。懐へは潜り込んだ。次は、その喉笛を掻き切る甘美な振動が掌に伝わるはずだった。


しかし、勝利の嘲笑を浮かべようとした蜥蜴の顔面が、凍りついたように動かない。表情筋を動かすための信号が、どこかで遮断されている。


いつの間にか、男は腰の「鉈剣なたけん」を抜き放っていた。


村の鍛冶屋が打ち直したような、実用一点張りの無骨な鈍色の刀身。そこにはいま、一筋の、熱を持った鮮血が静かに滴り落ちている。


「……っ、が……」


蜥蜴が喉の奥で、掠れた息を漏らした。


ふと視線を落とすと、自分の腹部に、見覚えのある柄が二つ、仲良く並んで突き刺さっていた。先ほど自ら、渾身の殺意を込めて放ったはずの短剣だ。


それは精密な外科手術のごとく、肋骨の隙間を完璧に縫い、大動脈や重要臓器の急所のみを正確無比に貫いていた。魔導強化された強靭な筋肉が、皮肉にも自らの凶器をがっちりと締め付けて固定し、溢れ出すべき鮮血を内側に封じ込め、死に至る激痛すら置き去りにするほどの残酷な神業。


何が起きたのか。脳が情報の処理を拒絶し、因果関係が崩壊する。


蜥蜴は本能的な恐怖に突き動かされ、腹に突き刺さった短剣を抜き取ろうと右手を伸ばした。だが、指先が腹部に触れることは永遠になかった。


「おわっ……、う、げぇ……なんじゃ、こりゃ……?」


視線の先にあるのは、右腕だった。


しかし、手首から先が存在しない。断面は磨き上げられた鏡のように滑らかに切断され、一拍遅れて、ダムが決壊したかのように鮮血が噴き出した。切断された自分の手首は、皮肉にも短剣を一本握りしめたまま、足元の泥濘の中に無造作に転がっている。


信じられない。理解できない。


蜥蜴は虚ろな瞳で、首だけをゆっくりと、背後に立つ「死神」の方へ向けた。


数秒間、彼は幽霊のように立ち尽くしていたが、やがて瞳の奥の光が、急速に色褪せていく。


白目を剥き、口から赤黒い血泡を噴き出しながら、未来の暗殺騎士――勇者の一角は、糸の切れた操り人形のように背後へ崩れ落ちた。


ドサリ、という重い音が、荒野に一人の男の呆気ない終焉を告げた。


________________________________________


震える正義――剥き出しの憎悪


残された三人の勇者――獅子、熊、鷲は、金縛りにあったようにその場に釘付けとなっていた。


あまりにも速く、あまりにも一方的で、あまりにも残酷な蹂躙。


未来の戦場で数多の魔生物を屠り、「救世主」としての自負を鎧のように纏ってきた彼らの矜持が、目の前の「老いた農夫」一人によって、文字通り塵へと変えられたのだ。


「蜥蜴……!貴様、何者だ!救世の騎士に、何の真似だッ!!」


獅子が喉の奥から、肺を抉り出すような絶叫を上げた。端正な顔立ちは屈辱と恐怖で激しく痙攣し、白銀の小手ガントレットが剣の柄を握り締めて悲鳴を上げる。


統率された騎士団の要であった蜥蜴が、何の抵抗も、反撃の予兆すら見せられず瞬時に「解体」された。その冷厳な事実が、獅子の心の均衡を根底から打ち砕いていた。


「……信じられない。蜥蜴が……あんな、あんな薄汚いゴミみたいな老人に……!?」


鷲が、震える手で細剣レイピアを抜き放った。彼女のプライド、そして人智十字教会から授けられた「選ばれた勇者」という聖なる選民意識が、目の前のグロテスクな現実を認めようとせず、防衛本能としての怒りへと昇華されていく。


男は、彼らの問いかけに答える価値すら見出していないようだった。


ただ、深い地底の亀裂から漏れ出るような、憎悪の煮凝った言葉を吐き出した。


「何の真似、だと?……お前たちは自らを『勇者』と呼び、大義を語る。そして、レオリナを殺しに来た。未来から来たという、死を運ぶ渡り鳥か」


男の濁った、しかし鋼のように鋭い双眸が、蜥蜴の死体、そして鷲の細剣を冷酷に射抜く。


「ならば、私の敵だ。私のすべてを懸けて、一人残らず根絶やしにする。それ以上の言葉はいらん」


男は鉈剣に付着した血を振り払うことすらせず、翻って廃墟の奥深く、礼拝堂へと続く崩落した扉の闇へと足を進めた。その背中は、もはや一介の農夫のものではない。数多の戦場を潜り抜けた「狼」のそれであった。


「逃がすかよ……ッ!やってやる、やってやるわよ!私たちが……私たちが『正義』なのよ!!」


鷲の理性が、プツリと音を立てて弾けた。


仲間を殺された動揺、そして自身の奥底から湧き上がる「死」への恐怖を打ち消すために、彼女は猛然と地を蹴った。超強化された脚力が大地を爆ぜさせ、彼女は一筋の銀光となって礼拝堂の入り口へと飛び込んでいく。


________________________________________


廃墟の処刑場――閉ざされた聖域へ


獅子は、地面に転がる蜥蜴の変わり果てた残骸と、闇が口を開ける礼拝堂の入り口を交互に見つめた。


隣に立つ熊を見る。巨躯を誇る重装騎士は、その重厚な大盾を「ドン」と一度だけ地面に叩きつけた。石突が大地を震わせ、沈黙の中で彼は小さく、しかし鋼のような重みを持って頷いた。


それは、言葉を持たぬ彼なりの、最期の意志表示だった。


――鷲を、一人で行かせてはならない。


騎士としての誓いか、あるいは滅びゆく故郷から共に来た同胞への最期の情か。


鷲の機動力は確かに群を抜いている。だが、今の彼女は激情に呑まれ、周囲の罠すら見えていない。この不気味な、歴史の澱みが堆積した廃墟の中で単独追撃を許せば、次に見るのは彼女の細い喉が断たれ、床に転がる光景だろう。


「……行くぞ、熊。奴を逃がすな。そして……鷲を、死なせるな」


獅子は、崩れかかる隊長としての責務を必死に繋ぎ止め、震える呼吸を剣に込めた。


二人の騎士は、先行した鷲の背中を追うように、死臭と砂塵が舞い、光を拒絶する礼拝堂の深淵へと足を踏み入れた。


そこが自分たちの「墓標」になる。


確信に近いその予感を、彼らは重い鎧の下に隠し、光の届かぬ戦場へと消えていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ