第77話:闇の結社「ゾディアック」の深慮――ほころび始めた歴史
影の対話――紫煙に溶ける追跡
(黒鉄期1692年:深夜、ラブラリア領都・秘密ギルド「ゾディアック」密談室)
狐と鷹が立ち去り、重厚なオークの扉が閉まった直後。
室内の温度が物理的に数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの、鋭利で凍てつくような静寂が降りた。先ほどまでの「情報屋と客」という芝居の幕が下りたのだ。
「ゾディアック」の幹部であるその女は、それまでの気怠げで艶然とした演技を脱ぎ捨て、衝立の背後にある深紅のベルベットが張られたソファに深く身を沈めた。彼女は卓上に山積みにされた、未来から持ち込まれたであろう純度の高い金貨を、まるで無機質な石ころでも弄ぶかのように掌で転がし、その冷たい感触を確かめる。
「……彼らは?」
女が背後の、魔導ランプの光さえ届かない部屋の隅、闇が凝固したかのような空間に向かって静かに問いかける。
返ってきたのは、人の体温や情緒を一切感じさせない、湿り気を帯びた低い声だった。
『――店を出ました。現在、三つ先の角を潜り、北西の路地へ。……追跡し、排除しますか?』
女は弄んでいた金貨を高く放り投げ、落ちてきたそれを吸い付くように掌で受け止めた。カチリ、という金属の擦れる音が、密室に鋭く響く。
「今はいいわ。泳がせなさい。あの男……『狐』と呼ばれた方は、私たちの秘された真の名前を知っていた。不用意に背後を取れば、瞬時にこちらの喉笛を食いちぎりに来るでしょうね。あの瞳は、数えきれないほどの同胞の死を乗り越えてきた者の色よ。今は余計な刺激を避けるべきだわ」
『御意。認識阻害を維持し、監視のみ継続します』
影の声が、闇に溶けるように承諾した。女は細い指先で高級な葉巻を手に取り、紫煙を肺の奥まで深く吸い込む。吐き出された煙は、まるで意志を持つかのように複雑な模様を描きながら天井へと消えていった。
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符合する異分子――未来からの「ノイズ」
「……それにしても、あの連中の目的が『オレリア』と『レオリナ』だなんてね。笑えない冗談だわ」
女の独り言に、影の声が淡々と、しかし冷徹な論理の輪郭を伴って応じる。その声には、この世界の理を乱す者への忌避感が混じっていた。
『オレリア。二十年前、南の開拓村を襲った魔生物襲撃事件……あの惨劇における数少ない生存者の一人。そして、あの男――“ルーベンカー”と婚姻を結んだ女。我々「ゾディアック」の台帳においても、因果の特異点として最高度の警戒を要する「要注意人物」です。その所在を、出所不明の武装集団が嗅ぎ回っている。偶然と片付けるには、あまりに出来すぎた符号です』
女は立ち上がり、重い遮光カーテンの隙間から、死の静寂に包まれた深夜の街を見つめた。その瞳には、単なる情報屋としての好奇心を超えた、歴史の守護者としての明確な危機感が宿っている。
「他に、この夜を騒がせている不規則な報告はある?」
『二つあります。一つは、冒険者ギルド。身元不明の八人組が職員と諍いを起こした際、提示した身分証が問題となりました。存在しないはずの――“黒鉄期1743年発行のギルド証”。この時代の精緻な偽造技術をもってしても不可能な、未知の魔導封印が施されていたとのこと』
「……1743年?五十年も先の未来だとでも言うの?狂人の戯言か、あるいは……」
『もう一つは、領都役場です。先ほど、正体不明の襲撃者によって完全に壊滅しました。当直の職員は、一瞬の猶予もなく喉を正確に断たれるか、あるいは尋常ならざる剛腕によって骨ごと粉砕され、一人残らず絶命。犯行の手口は、人族の高度な軍用剣術ですが……現存する大陸のどの流派とも異なる、洗練されすぎた、効率的な殺戮技能が使われたと推測されます』
女の顔から余裕の笑みが完全に消えた。彼女たちが統制する「街の闇」と「歴史の裏側」にとって、計算不能な異分子、それも圧倒的な暴力を伴う存在は、平穏を乱す致命的な病原菌に他ならない。
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警告と「その時」――加速する運命の歯車
「……煙たくなってきたわね。空気が、まるで嵐の前のよう」
女は窓の外を見つめたまま、思考の深淵に潜る。未来から来た救世主か、あるいは歴史を食い破る害獣か。彼女の背後で、影が次の命令を待つように不気味に揺らめいた。
「『レラ』に伝えて。今夜現れた連中の特徴、魔力波形、そして歩き方の一つまでを余さず共有しなさい。それから、街の警戒レベルを特A段階まで引き上げること。特に、南の開拓村方面へ向かう全ての街道、裏道、獣道……あそこを徹底的に我々の支配下に置くのよ。蟻一匹、ゾディアックの目を通さずに通過させてはならないわ」
『承知いたしました。網を広げます』
「……それから」
女は一度言葉を切り、残った紫煙を長く、重く吐き出してから、決然とした口調で告げた。
「……彼にも伝えなさい。“時が来た”と。因果の糸が、私たちの想定を超えて絡まり始めたわ。彼がずっと待ち望んでいた、あるいは恐れていた瞬間がやってくる」
その言葉を聞いた瞬間、衝立の奥の影が僅かに震えた。それは情報の重みに耐えかねた驚きか、あるいは長く続いた平穏の終焉への覚悟か。
返事はなかった。ただ、一筋の冷たい風が密閉された室内を吹き抜け、部屋の隅の闇が物理的に薄れた。影は既に、その過酷な使命を果たすべく闇に消えていた。
女は再びソファに深く座り直し、短くなった葉巻を灰皿の底に押し付けた。
彼女の瞳は、いまこの瞬間も刻一刻と、異邦人たちの手によって無慈悲に書き換えられようとしている歴史の、その暗い奔流を見据えているようだった。
「未来から来た救世主か、あるいは過去を蹂躙する滅びの使者か……。どちらにせよ、この時代に安らかな眠りはもう訪れないようね」
密室に残された紫煙が、彼女の冷ややかな呟きを包み込み、ゆっくりと闇の中に溶けて消えていった。




