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オース大陸秘匿伝記「因果の円環を閉ざす九人目の狼」  作者: 嵗(sai)
第7部:宿命の決戦 ―1692年、再臨する勇者と老狼の牙―

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第75話:合流地点の放棄と狂気の加速――逸脱する救世主

冷徹な決断――鉄則を凌駕する焦燥


(黒鉄期1692年:深夜、ラブラリア領・役場前)


深夜の街路を支配していた静寂は、役場から溢れ出した濃密な血の匂いによって無残に汚されていた。石造りの外壁を伝い、側溝へと流れ込む赤黒い液体。数分前まで「明日の公務」を語り、羽ペンの音を響かせていた者たちの残滓が、湿った夜風に乗って外縁街へと拡散していく。


返り血を全身に浴びたままの獅子は、月光を浴びて不気味に揺らめく「歴史の断片」を凝視していた。それは、死にゆく局長から力ずくで奪い取った、住民台帳のちぎり取られた一片だ。そこに記された座標、隠伏された居住区、そして呪わしき「オレリア」という名を、獅子は脳内の魔導演算回路で即座に処理する。彼の思考速度は、過酷な未来の魔那環境で適応した結果、もはやこの時代の人間が到達できる生物的限界を遥かに超越していた。


「居場所を特定した。……予定を変更する。合流は無しだ。このまま目標地点へ直行し、速やかに『根源』を断つ。直ちに出発だ」


感情を極限まで削ぎ落とした獅子の命令。それは軍事的な「判断」というよりは、獲物を捕捉した獣の「咆哮」に近かった。


その言葉に、鷲は恍惚とした表情を浮かべたまま応じた。細身の長剣に付着した血を、まるで愛撫するかのように布で拭い、彼女は歌うような調子で言葉を継ぐ。


「了解。無駄な移動を省いて、最短距離で絶望を与える……素晴らしいわ、隊長。私の剣が、まだ獲物の熱を覚えているうちに終わらせましょう。血が乾く前に、次の心臓を差し出して頂戴」


殿を務める熊もまた、感情の欠落した重機のような仕草で重厚に頷いた。彼の背後にある役場の扉からは、もう悲鳴一つ、衣擦れの音一つ聞こえてこない。ただ、不自然に爆ぜるランプの音だけが虚しく響いていた。


しかし、一行の遊撃と偵察を担う蜥蜴だけは、不敵な笑みを消して石畳の上に立ち止まった。彼は鼻先をくすぐる死臭を楽しみながらも、剥き出しになった獅子の背中へ、不満げに声を荒らげる。


「おいおい、隊長さんよ。そいつは感心しねぇな。合流場所はどうするんだ?虎と狐の野郎どもは、裏路地でネズミ共を締め上げて情報を掴んだ後、指定された宿屋で待機してるはずだぜ。俺たちが姿を見せなきゃ、あいつらが手柄を焦って勝手に暴れ出しちまうかもしれねーぞ」


蜥蜴の異議は、未来の賢者エウレが彼らに課した鉄則――『任務のフェーズが切り替わる際は、必ず隊長の元で全戦力を再集結せよ』という原則に基づいたものだった。過去という不確定要素の塊において、戦力の分散は予定外の因果ノイズを生む。それは、歴史の修正そのものを失敗に導く致命的なミスになりかねない。


________________________________________


理性の檻の崩壊――剥き出しの狂気と「塵」の価値


獅子は振り返ることなく、一歩、また一歩と石畳を踏み締めた。


その背中から発せられる圧倒的な圧迫感は、先ほどまでの「洗練された騎士」としての仮面を内側から食い破り、黒い煙を上げているかのようだった。彼の声には、任務遂行への尋常ではない焦燥と、どす黒い沈殿物のような苛立ちが混濁している。


「時間が惜しい。この情報は、この時代の役人が命を、そして秩序を賭して隠蔽していた正式な隠し記録だ。裏路地で拾う端金のような噂話や、浮浪者の吐く妄言よりも、遥かに『真実』に近い」


獅子の足取りが早まる。一歩ごとに、理性という名の檻が軋みを上げて崩壊していくのが分かった。彼の瞳の奥で、人智十字教会が掲げる「選民思想」という名の大義と、禁忌たる「時返りの魔術」がもたらした精神汚染が、ついに臨界点に達していた。


「奴らが旅籠で安酒でも飲んでいようと構わん。我々が、今ここで任務を完了させれば、それで歴史は我々の望む形に書き換わるのだ。不必要な再集結は、ただの停滞であり、罪悪だ。分かるか、蜥蜴。我々に『次』は無いのだ」


獅子の眼に宿る狂気。それは「自分たちこそが未来を救う唯一の権利者である」という傲慢と、平和を享受するこの時代の人々への、抑えきれない嫉妬と憎悪の混じり合いだった。


「さっさと終わらせるぞ……。あの忌々しい『魔王』の苗床を、ここで確実に摘み取るのだ。歴史の不純物は、一粒残らず排除する」


獅子の言葉は、もはや部下への命令ではなく、自身の魂を縛り付ける呪詛に近い。


「奴らに後れを取るな。この時代の人間など、我々が守るべき未来の12万人の命の前には、道端に積もった塵にすら等しい。一刻も早くオレリアを排除し、あの忌まわしい因果を物理的に断ち切る……。それこそが、地獄を見た我々に許された唯一の聖業であり、救済なのだ」


________________________________________


追跡者たちの夜――滅びの予兆としての進軍


獅子は、剥き出しになった狂気を隠そうともしなかった。かつて彼を聖騎士たらしめていた高潔な正義感は、長い年月と絶望、そして血に塗れた道程を経て、冷酷な「生存本能」へと変質していた。救世主という名の怪物が、いま深夜のラブラリアに解き放たれたのだ。


そして、それに付き従う三人もまた、程度の差こそあれ同じ深淵を共有している。彼らはもはや、歴史を正しく導くための「勇者」ではない。望まない未来を破壊し、自分たちの存在さえも消滅させるために、過去という名の無垢な海に投げ込まれた「狂気の追跡者」に成り果てていた。


蜥蜴は、隊長のただならぬ気配に一瞬だけ身を竦めたが、すぐに口角を吊り上げ、肩をすくめて短剣を弄び始めた。


「へっ……隊長の旦那、相当キてやがるねぇ。まあいいさ。規律だの合流だの、そんな小難しい話より、俺ぁあのお高い領主騎士団の連中が、自分たちの無力を知って絶望に顔を歪める瞬間を見られれば、それで満足だぜ。行こうか、血の跡が消える前に」


月光の下、四人の影は石畳の上に長く、不気味な鉤爪のように伸びていく。


役場の奥で「物」へと変えられた職員たちが流した血の川。その惨状を振り返るどころか、もはや記憶の隅に置くことすらなく、彼らは新たな、そして決定的な殺戮の舞台――オレリアが潜むとされる「聖域」へと急ぎ足で向かい始めた。


救世の名の下に、あらゆる慈悲を切り捨てて行われる、史上最も残酷な暗殺劇。


「魔王の母」と目される女性・オレリアが潜む、城壁内の隠れ家。


平和な時代の夜が終わりを告げ、血塗られた夜明けが始まるまで、もはや刻一刻の猶予も残されてはいなかった。


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